第1話 階段の一段目

体育祭の朝の学校は、始まる前から疲れていた。
市立桜丘高校の昇降口には、まだ生徒たちの熱が集まりきっていない。けれど、外から入り込む風はいつもの朝と違っていた。乾いたグラウンドの土の匂いが、靴箱のゴムと古いワックスの匂いに混じっている。校庭の方では、テント列を張るロープが金具に擦れ、誰かがハンマーを打つ音が一定の間隔で響いていた。
放送のスピーカーが、短い雑音を吐いた。
『本日の体育祭における諸注意を――』
声が途切れ、代わりにざらついたノイズが校舎の天井へ逃げていく。
僕は左腕の赤い腕章を確かめ、胸に抱えた走順表の端を揃えた。紙は昨夜から何度も見直している。リレーの選手名、出走順、招集場所、変更があった場合の連絡先。表の中に抜けがないことを確認すると、ようやく少しだけ呼吸がしやすくなる。
少しだけ、だった。
「蓮、そんなに紙を睨んでたら、紙の方が先に謝るぞ」
後ろから悠斗の声がした。
僕が振り返ると、相良悠斗は階段の下に立っていた。赤い鉢巻きを首にかけ、片方の靴ひもだけがほどけている。いつもなら、僕の腕から走順表を奪って勝手に覗き込み、「今年の俺、アンカーって書いてある。見る目あるよな、三年B組」とでも言うところだ。
「お前の名前はもう覚えてる」
「覚えてるだけ? 感動しろよ。最後の体育祭だぞ。俺が最後に走って、全員が泣く。敵も味方も」
「敵は泣かないと思う」
「じゃあ、悔し泣き」
悠斗はそう言って、僕の肩を軽く叩いた。いつもの距離の詰め方だった。強くもなく、遠慮もない。けれど、その手が離れるとき、指先が一瞬だけ僕の肩の上で止まった。
僕はそこを見た。
「靴ひも」
「ん?」
「ほどけてる」
「ああ。今から結ぶ」
「今からって、階段の途中で?」
「階段の途中だから結ぶんだろ。平地でほどけるより、危機感がある」
「意味が分からない」
「意味が分からないことをやるのが、体育祭だよ」
悠斗は笑った。その笑い方に、昨日までなら何も感じなかったはずだ。けれど今日は、笑いが少しだけ前のめりだった。自分を追い立てるように、声を先に出している。
僕は走順表を脇に挟み、しゃがもうとした。
「いい。俺がやる」
「でも――」
「蓮は紙を持ってろ。お前が落としたら、三年B組の全員が迷子になる」
そう言って、悠斗は階段を一段上がった。
靴底が、段の角を擦った。
次の瞬間、右足が変な角度で止まった。
「……あ」
声は、笑いにも文句にもならない薄い息だった。
悠斗の身体が前へ傾く。僕は反射的に腕を伸ばし、肩をつかんだ。腕章が手すりに引っかかり、赤い布がぴんと張る。走順表が胸から滑り落ちかけ、慌てて片手で押さえた。
「悠斗!」
「待て、騒ぐな」
「騒いでない」
「今の声は十分騒いでる」
悠斗は笑おうとした。口元だけが上がり、目がついてこなかった。
右足が一段に残っている。靴の中で足首がどうなっているのか、見なくても分かった。さっきまで軽かった彼の身体が、急にこちらへ預けられている。僕の手のひらに、制服越しの肩の硬さが伝わった。
「立てる?」
「立てる立てる。俺を誰だと思ってる」
「相良悠斗」
「そう。三年B組の最速――」
悠斗が足を動かした。
顔から笑いが消えた。
歯を食いしばる音まで聞こえた気がした。階段の踊り場には、生徒たちの靴音や外の金具の音が流れ込んでいるのに、僕の周りだけ音が一枚のガラス越しになった。
「……最速?」
「今日は、まだ名乗ってない」
「名乗らなくていい。立てないなら、立てないって言って」
言ったあとで、言い方がきつかったと思った。悠斗の指が僕の腕をつかむ。痛みのせいか、苛立ちのせいか分からない。
「蓮」
「なに」
「その顔やめろ」
「どんな顔」
「俺がもう終わったみたいな顔」
僕は返事をしなかった。
悠斗は目を伏せた。ほどけた靴ひもが、階段の上で白く伸びている。いつもなら、走る前に何度も結び直すひもだ。結び目の固さを指先で確かめ、最後に一度だけ引く。その動作を、僕は何度も見てきた。
「保健室、行くよ」
「大げさだって」
「歩けない人が言うことじゃない」
「歩ける。たぶん」
「たぶんで階段を下りるな」
「じゃあ、肩を貸せ」
悠斗は短く言った。
僕はその言葉に少し驚いた。悠斗は、誰かに頼ることを嫌う。頼る前に自分でやり、失敗してからも自分のせいにする。だから、素直に肩を貸せと言われると、それだけで足首の腫れより重いものを渡された気がした。
「最初からそう言えばいいのに」
「最初から言うと、俺が負けたみたいだろ」
「怪我は勝ち負けじゃない」
「分かってるよ」
声が低くなった。
「分かってるけど、今日だけはそういう顔で見られたくない。最後の体育祭だぞ。アンカーだぞ。昨日まで俺が何て言ってたか知ってるだろ」
「絶対に抜かれない」
「そう。絶対に抜かれないって言った。言った以上、走るつもりだった」
「だった、って言うなよ」
「じゃあ、走るつもりだ」
「無理なら?」
悠斗の手が、僕の腕から離れた。
その瞬間、身体が傾いた。僕は慌てて背中を支えた。悠斗の息が耳元で乱れる。汗で貼りついた襟元から、朝の冷えとは違う熱が伝わってきた。
「無理なら、蓮が決めろ」
「僕が?」
「実行委員補佐だろ」
「補佐だよ。決めるのは先生とか、キャプテンとか――」
「逃げるときだけ役職を小さくするな」
胸の奥に、階段の段差がもう一段増えたような気がした。
僕は走順表を見た。アンカーの欄に、黒いボールペンで相良悠斗と書かれている。昨日、悠斗が僕のシャープペンを勝手に使って、名前の横に小さな丸をつけた。僕が消そうとすると、「そこは消すな。気合いが逃げる」と言った。
丸は、まだ残っている。
「歩ける?」
「今度はちゃんと貸せ」
僕は悠斗の右腕を肩に回した。彼の体重が片側に乗る。普段なら足音の軽い男なのに、今は一歩ごとに床を探っている。階段を下りるたび、彼の指が僕の肩口をつかみ直した。

一段。
足を下ろす前に、悠斗の呼吸が浅くなる。
二段。
僕は手すりと彼の足元を交互に見た。
三段。
校庭から太鼓の試し打ちが聞こえた。ドン、と低い音が腹に響く。外では今日を始めるための音が、もう十分に揃いつつある。なのに僕たちは、たった数段を下りることさえできずにいた。
「蓮」
「なに」
「俺のスパイク、持ってきてる?」
「教室のロッカー。替えるつもりだったの?」
「一応な。今日のために、昨日、紐も新しくした」
「靴ひもも?」
「靴ひもは同じ。そこまで新品にしたら、走り方まで変わりそうだろ」
「変わるのは、走り方じゃなくて足元だよ」
「そういう細かいところを気にするから、お前は速くならない」
「僕は走る予定じゃない」
「だからだよ」
悠斗はまた笑おうとした。今度は、かすかに成功した。
けれど、その笑顔の奥にあるものを、僕は見てしまった。悔しさという言葉だけでは足りない。走ることを奪われるかもしれない恐怖と、今まで自分が背負ってきたものが、突然誰かの手へ落ちてしまう恐怖。その両方が、彼の目の奥でぶつかっていた。
僕たちは昇降口を抜け、廊下へ入った。
そこには、体育祭用に貼られた赤組の案内紙が並んでいた。誰がどこへ集合するのか、何時に移動するのか、雨天時はどうするのか。僕が昨日、何度も位置を直した紙だった。端が少し浮いているものを見つけ、僕は反射的に立ち止まった。
「何してる」
「剥がれかけてる」
「今?」
「今」
僕は片手で悠斗を支えたまま、もう片方の指で紙の角を押さえた。粘着テープの端が爪に触れ、ざらついた感触が残る。早川先生なら、こういうとき予備のテープをすぐ出す。僕の腕章のポケットにも、細く切ったテープが何枚か入っている。
しかし、今は悠斗の足が腫れている。
紙の角を直すことと、友達を保健室へ運ぶこと。どちらも必要で、どちらを先にすべきかだけが決まらない。
「蓮」
悠斗の声が、今度は笑っていなかった。
「紙は後でいい」
「分かってる」
「分かってない顔してる」
「分かってるって」
「じゃあ、こっちを見ろ」
僕は顔を上げた。
悠斗は、いつものように前を見ていなかった。痛めた足ではなく、僕の目を見ていた。
「俺が走れなかったら、俺のせいにしていい」
「何言ってるんだよ」
「階段で転んだ。準備不足だった。靴ひももほどけてた。全部、俺のせいでいい。だから、お前まで俺を庇って、何も決めないのはやめろ」
「庇ってない」
「じゃあ何だよ」
言葉が詰まった。
僕は人の顔を見るのが苦手だった。正確には、見すぎるのが苦手だった。目の動き、口元の硬さ、手の置き場所。相手が何を言わずに飲み込んでいるのかが、見えてしまう。だから、見えたものを傷つけないように、いつも言葉を選び、順番を整え、誰も怒らない場所へ話を戻してきた。
でも、悠斗の顔だけは、見えたものを戻せない。
「何も決めたくないんじゃない」
僕は言った。
「決めたら、誰かを外すことになる。お前を走らせないって決めたら、お前の今日を奪う。代わりを入れたら、その人に勝つ責任を押しつける。順番を変えたら、今まで練習してきた人の時間を崩す。僕は、誰か一人を選んで、他の誰かを置いていくのが嫌なんだよ」
「それで、全員を置いていくのか」
「……」
「蓮、お前はいつもそうだ。誰かが怒らないようにして、誰かが傷つかないようにして、最後まで自分だけが決めない。けど、決めないってことは、誰も傷つけないことじゃない。誰かに決めさせることだ」
廊下の窓から、風が入り込んだ。掲示物の紙が一斉に揺れ、端の一枚が乾いた音を立てた。
「俺はさ」と悠斗が続けた。「俺が走れば、何とかなると思ってた。ずっと。実際、何とかなったし、何とかしてきた。でも今日、足がこうなって、初めて分かった。俺がいなくても、リレーは始まる。俺がいなくても、みんなは走る。そこから逃げたくなったんだよ」
「逃げたくなった?」
「俺がいない状態で勝負が進むのを見るのが嫌だ。俺の名前が消されて、別の誰かがアンカーになる。そいつが抜かれたら、俺がいないせいになる。勝ったら勝ったで、俺がいなくてもよかったってことになる」
「そんなふうに考える人はいない」
「考えるさ。俺は考える」
悠斗の声は、怒鳴っていないのに、階段の手すりより硬かった。
「だから、俺の代わりを探すだけじゃ足りない。お前が決めろ。俺を外すなら外せ。走順を変えるなら変えろ。俺に気を遣って、アンカーの欄を空けたままにするな。空欄は、俺が一番嫌いなんだ」
僕は走順表を見下ろした。
紙の端が、僕の汗で柔らかくなっている。アンカーの欄には、相良悠斗という文字と、その横に小さな丸。丸の周囲だけ、インクが少し滲んでいた。
「保健室まで行く」
「決めるのは?」
「まだ決めてない」
「おい」
「でも、決める。お前を運びながらでも、紙を持ったままでも、誰かに嫌われても、決める」
悠斗が黙った。
僕は彼の腕を肩に掛け直した。さっきよりも、体重が重く感じる。けれどそれは、悠斗の身体が急に重くなったからではない。僕が初めて、その重さを自分の側へ引き受けようとしているからだった。
「今の、録音したかったな」
悠斗が言った。
「何を」
「蓮が自分で決めるって言ったところ」
「忘れて」
「無理。今日の記念品にする」
「走れないくせに、そういうところだけ元気だな」
「走れないとはまだ決まってない」
「先生に診てもらうまでは、何も決めない」
「ほら、またそれだ」
「違う。今は先生に診てもらうって決めた」
悠斗は一瞬、目を丸くした。
それから、ほんの少しだけ笑った。
「一段目だな」
「何が」
「お前が決めたの。階段の一段目」
「くだらない」
「でも、最初の一段目を踏まないと、上にも下にも行けない」
保健室へ続く廊下の先で、白い扉が見えてきた。窓の向こうから、グラウンドのざわめきが押し寄せている。放送、太鼓、走り回る靴音。校舎全体が、僕たちを待たずに体育祭へ向かっている。
扉の前で、僕は一度だけ立ち止まった。
走順表の角を揃える。腕章を直す。悠斗の肩を支える手に力を込める。
それから、白い扉を開けた。
消毒液の匂いと、窓際の冷たい光が、こちらへ静かに流れてきた。
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