10話 空欄に名前を書く

教室へ戻ると、窓際の黒板に貼られた競技予定表が、誰かの手で斜めになっていた。

朝のうちに僕が端を揃えたはずの紙だった。けれど、今は画鋲の片方が浮き、紙の下辺が風もないのに小さく揺れている。

教室には、三年B組の半分ほどが集まっていた。

椅子に座っている者はいなかった。机を後ろへ寄せ、窓際に立つ者、廊下へ顔を出す者、スマートフォンを握ったまま黙り込む者。誰もが、僕の脇に抱えた走順表を見ていた。

僕の肩には、悠斗の腕が乗っている。

悠斗は右足をかばいながら、片方の靴だけで床を擦った。痛みを隠そうとしているのか、歩くたびに口元がわずかに上がる。その笑い方は、もう誰も騙せなかった。

「どうだった」

誰かが聞いた。

僕はすぐに答えなかった。

喉を鳴らさず、唇だけを閉じる。いつもの癖だった。けれど今日は、その一拍を長くしてはいけない気がした。

「悠斗は、走らせない」

教室の空気が、窓を閉めたように止まった。

「先生の判断で、アンカーを変更する。走る人間はこれから決める」

「誰が?」

「まだ決まってない」

言った瞬間、何人かの視線が僕から外れた。

決まっていない。その言葉が、朝からずっと僕の足元に置かれていた。もう使いたくなかったのに、口から出た。

悠斗が僕の肩を軽く叩いた。

「俺が走らないことは決まったんだろ。そこは前進だ」

「笑えないって」

「笑ってねえよ。これは愛想だ」

「それを笑ってるって言うんだよ」

悠斗が肩をすくめる。いつもの調子に近い。でも、教室にいる全員が、その軽口の下にあるものを聞いていた。

窓際にいた佐伯が、ゆっくり手を上げた。

陸上部ではない。長距離走の練習でいつも最後まで残っているが、短距離では目立たない。体育の授業でも、スタート直後に置いていかれ、後半で少しずつ差を詰めるタイプだった。

「俺、走る」

声は大きくなかった。

何人かが振り返る。

「佐伯、アンカー?」

「アンカーでもいい。最後まで走れる」

「速さは?」

別の誰かが聞いた。

佐伯は一度、床へ目を落とした。それから、悠斗を見た。

「速くはない。たぶん、今いる中で一番じゃない」

「それでいいのかよ」

「よくはないだろ」

佐伯は笑わなかった。

「でも、速い人が全員走れるわけじゃない。走れる人が走るしかないなら、俺は走れる」

その言葉に、教室の後ろで誰かが息を吐いた。

簡単な決意ではなかった。速くないことを自分から言うのは、ここでは負けを先に名乗るようなものだった。それでも佐伯は、言い直さなかった。

悠斗が、彼の前へ一歩だけ進む。右足を床につけた瞬間、顔の端が硬くなった。

「佐伯」

「何」

「アンカーは、最後に一番きついところを持つ」

「知ってる」

「俺の代わりになる必要はない」

「それも知ってる」

「じゃあ、何になる」

佐伯は少し考えた。

「最後に走る人になる」

悠斗の表情が変わった。

悔しさが消えたわけではない。けれど、その悔しさの隣に、別の色が差したように見えた。

「それなら、頼む」

短い言葉だった。

僕は走順表を開いた。アンカー欄の下にある空白へ、佐伯の名前を書こうとする。

ペン先が紙に触れたところで、手が止まった。

教室の全員が見ている。

佐伯の名前を書く。それだけのことなのに、書いた瞬間、僕はこの判断を撤回できなくなる。誰かが不満を言っても、結果が悪くても、悠斗が最後まで走れなかったことを悔やんでも、僕はこの紙を差し出した人間として残る。

ペン先から、インクが小さく滲んだ。

「蓮」

悠斗が呼んだ。

「書けよ」

「お前は、これでいいのか」

「いいかどうかは、走ってから決める」

「走れないくせに」

「だから、見て決める」

悠斗は僕の手元を覗き込んだ。

「お前が迷ってる間に、佐伯が走る準備を始めてる。俺が止める理由はない」

佐伯はすでに靴ひもを結び直していた。速く走るためではなく、ほどけないための結び方だった。二度、指先で結び目を押さえる。その動作が妙に悠斗と似て見えた。

僕は名前を書いた。

佐伯航。

黒い文字が空欄を埋める。

紙の上では、たった五文字だった。けれど、その五文字を書き終えた途端、教室の空気がわずかに動いた。誰かが椅子を戻し、誰かが赤い襷を持ち上げる。

「走順変更、これで出す」

僕は言った。

「アンカーは佐伯。悠斗はテント横で、受け渡しの位置と戻ってくる選手の誘導を頼む。足を使わなくてもできることはある。僕は選手招集と変更の連絡をする」

「蓮は?」

窓際の女子が聞いた。

「僕は、全体を見る」

「走らないの?」

その問いは、責めるようでも、期待するようでもなかった。

僕は一度、走順表を見た。そこに自分の名前はない。朝なら、そこへ自分の名前を書いてしまえばよかった。悠斗の代わりになり、勝敗の責任を自分の脚へ集めれば、迷いは一つ減る気がしていた。

「走らない」

僕は言った。

「走る人間を、走れるようにする」

教室の後ろで、誰かが小さく笑った。

「蓮らしい」

それが褒め言葉なのか、逃げだと言われたのか、僕には分からなかった。分からないままでも、今日は聞き返さなかった。

早川先生が教室の入口に立っていた。

手には変更用紙と、赤いテープで補強されたクリップボードがある。先生は僕の書いた走順表を受け取り、名前と時刻を確認した。

「佐伯、走る準備はできそう?」

「はい」

「蓮、招集場所への連絡は?」

「今から行きます」

「では、行っておいで」

先生はそれだけ言い、変更用紙をクリップボードへ固定した。紙の端が揃っている。悠斗の名前が消えた欄も、佐伯の名前が入った欄も、同じ一枚の上に収まっていた。

廊下へ出る前に、母からメッセージが届いた。

弁当、蓋は閉めてある。水分とって。

短い文だった。

僕は画面を見て、少しだけ息を吐いた。母は、僕が走るかどうかを聞かなかった。勝てるかどうかも聞かなかった。ただ、食べることと飲むことだけを残した。

僕は返信を打った。

決めた。行ってくる。

送信すると、すぐに既読がついた。

返事はなかった。

それでよかった。

グラウンドへ続く階段を下りる。段数を数えそうになり、途中でやめた。朝、悠斗が足を捻った場所を通ると、手すりの金属が陽に熱くなっていた。

階段の踊り場には、赤い襷の端が落ちていた。

僕は拾い上げた。土がついている。端の糸が一本だけ伸びていた。

指で引きちぎることはできた。けれど僕は、伸びた糸を結び目の内側へ押し込んだ。見た目は少し歪んだままだった。

それでも、肩にかけられる形には戻った。

外では、招集を知らせる放送が始まっていた。

僕は襷を抱え、グラウンドへ走った。今度は、誰かの代わりになるためではない。名前を書いた者として、その名前が最後まで走れる場所を作るために。

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