3話 久米みどりの視線

藤堂が帰ったあと、私は小包の中身をそれぞれ薄紙に戻した。

切符は台紙の中央に置き、押し花は紙ナプキンの折り目へ戻す。紙片は、書かれていた文字が内側になるように二つ折りにした。元の状態へ戻すことが、保管の第一歩だった。物は、発見した人間の都合で形を変えてはいけない。

けれど、紙片だけは何度折り直しても、指先の感触が消えなかった。

しおりへ。

その三文字が誰の字なのか、私は知らない。知らないはずなのに、最後の「へ」の筆圧だけが、遠い場所から呼びかけてくるように残っていた。

私は小包を布の鞄へ入れ、駅舎を出た。

藤堂に言われたとおり、久米みどりの店へ向かうつもりだった。駅前の道は、昨夜の雨で黒く濡れている。商店跡の軒先から水が垂れ、閉じたシャッターの隙間には泥の葉が貼りついていた。バス待合所のベンチには誰もいない。背もたれの塗装が剥げ、雨粒だけが座っている。

跨線橋の階段を見上げると、錆びた手すりが薄い光を返していた。子どものころ、あの階段を誰かと上った気がする。濡れた靴底。前を歩く小さな肩。手すりに巻かれた赤い紐。

記憶は、そこで途切れた。

私は足元の水たまりを避け、駅前喫茶の扉を押した。

扉の上の鈴が、乾いた音をひとつ立てた。

店内には、豆を挽く音がしていた。みどりはカウンターの奥で、古いサイフォンの火を見ていた。私が入ってきたことには気づいているはずなのに、すぐには顔を上げない。先に、靴の裏についた泥と、私の手にある布鞄を見た。

それから、鞄の口から覗いていた麻紐に目を止めた。

「それ、駅から?」

「うん」

「雨の中を持ってきた割には、濡らしてないね」

「濡らさないようにした」

「そういうところは、昔から変わらない」

みどりはそう言って、火を止めた。声は穏やかだったが、その言葉の終わりだけが、カップの底に残った砂のように引っかかった。

私はカウンターの端に座った。

「コーヒーを」

「苦いのでいい?」

「いつものを」

「いつもの、って言うほど来てないけど」

みどりは笑わなかった。けれど、口元だけが少し動いた。豆を量り、紙フィルターを整え、湯を注ぐ。抽出の速度はいつも一定だった。彼女は何かを考えているときほど、手元の作業を正確にする。

カップが置かれた。

私は布鞄から小包を取り出し、紐の結び目が見える向きに置いた。

みどりはすぐに中身を見なかった。

「開けたんだね」

「藤堂さんに見せる必要があったから」

「見せたのは中身? それとも、届いたこと?」

「両方」

「そう」

みどりはカップの向きを私の正面へ合わせた。取っ手が右側に来るように、ほんの少しだけ回す。

「その結び方、知ってる?」

「毎年同じだ」

「毎年同じだから、知ってるってこと?」

「結び目の形は覚えている。麻紐は毎年違う。撚りも、太さも、赤の濃さも違う。だから同じ人が同じ材料で包んでいるわけじゃない。ただ、結び方だけを守っている」

「誰かに教わった結び方かもしれないね」

「誰に?」

「それを聞きに来たんじゃないの」

私は返事をせず、切符を取り出した。

台紙の上に置くと、みどりはようやく眉を動かした。印字を読むより先に、紙の縁を見ている。右上の角、擦れて丸くなった左下、駅名印の下に残る赤い印。

「それ、深見駅の古い臨時停車印だね」

「知っているのか」

「知ってるというほどじゃない。昔、店の帳面に同じ印が押された切符を見たことがあるだけ」

「店の帳面に?」

「祖母の帳面。仕入れの記録や、常連のツケを書いていたもの。切符を帳面に挟む癖があったの。紙が薄いから、しおり代わりにちょうどよかったんでしょう」

みどりはカウンターの下から、黒ずんだ布張りの帳面を出した。表紙の角は擦れて白くなり、背の糸が一箇所だけ浮いている。彼女はすぐに開かず、表紙を布で拭った。

「その帳面に、事故の日のことが?」

「事故の日のことを、誰かが書いていたとは言ってないよ」

「でも、切符はある」

「切符があるからって、そこに意味があるとは限らないでしょう。昔の町では、紙を捨てずに何でも挟んだ。レシートも、新聞の切り抜きも、子どもの書いた絵も」

「この切符の日付は、事故の記録と重なっている」

「事故の記録は、日付がひとつしかないの?」

私は切符を見た。

「町史では、発生は翌日になっている」

「町史は、そうなってるね」

みどりは帳面を開いた。紙が乾いた音を立てた。古いコーヒー豆の匂いと、紙の黴の匂いが混ざる。数ページめくったところで、彼女の指が止まった。

「これ」

帳面の間から、一枚の写真が落ちた。

みどりは拾い上げたが、すぐに私へ渡さなかった。写真の表面についた埃を指の腹で払う。写真には、古い駅前の風景が写っていた。商店の看板。まだ新しい喫茶店の軒。奥に深見駅の屋根があり、その向こうには、山肌に沿って炭鉱へ伸びる道が見えている。

写真の隅に、少女が立っていた。

赤い紐を手首に巻いている。

顔は半分、駅舎の柱の影に隠れていた。それでも、写真を見た瞬間に分かった。早瀬栞だった。

私は名前を口にしなかった。

写真のさらに端に、小さな少年が写っていた。駅舎の壁にもたれ、少女ではなく、地面に落ちた紙片を見ている。肩が片方だけ下がっている。手には、小さな布包みらしいものを持っていた。

その肩の線を、私は知っていた。

知っているというより、身体のどこかが覚えていた。

「この写真は、いつ撮った」

「裏を見れば分かる」

みどりは写真を裏返した。

日付はなかった。代わりに、青い鉛筆で短い記号が書かれている。祖母の字ではない。数字の並びのあとに、駅前、とだけあった。

「誰が撮った?」

「それも書いてない」

「栞は、いつもここにいたのか」

「いつも、じゃない。人が多いところにいるのが好きだった。でも、真ん中には立たなかった」

みどりは写真を表へ戻した。

「栞は、人の話を聞いているふりをしながら、手元ばかり見ていた。誰が何を持っているか、どこへしまったか、誰が何を隠したか。大人は口では嘘をつくけど、手は案外正直だからって、そう言ってた」

「その子が、何かを見た?」

「何かを見た、とは言っていた」

「何を」

「そこまでは言わなかった」

「みどり」

自分でも驚くほど、声が強くなった。

みどりはすぐには答えなかった。カップを置き、砂糖壺の蓋を指でなぞる。蓋の金属が、かすかに鳴った。

「透。あんたは、物を持ってくると、すぐに名前をつけたがる。誰のものか、いつのものか、何のためのものか。名前が分かれば、棚にしまえるし、帳面にも書ける。そうしておけば、自分の手から離せるから」

「仕事だから」

「仕事だけなら、夜中まで台帳の余白を揃えたりしない」

「……それは関係ない」

「関係あるよ」

みどりは窓の外を見た。濡れた跨線橋の手すりが、灰色の空の下で細く伸びている。

「栞がいなくなった日、店の中は変だった。客が少なかったとか、雨が降ったとか、そういう話じゃない。大人たちが、同じ場所にいるのに、互いの顔を見なくなった。話しかけても、返事が半拍遅れる。誰かが何かを聞くと、別の誰かが食器を洗い始める。町全体が、聞こえないふりを覚えたみたいだった」

「栞は?」

「昼過ぎに来た。濡れてはいなかった。だから、事故のあとに来たわけじゃない。店の隅の席に座って、氷の溶ける音を聞いていた。甘いものを頼むでもなく、帰るでもなく、ずっと窓の外を見ていた」

「誰かと一緒だった?」

「最初はひとり。あとから、男の人が入ってきた」

「誰?」

みどりは私を見た。

「名前を言うと、あんたはその名前だけを追うでしょう。そうなると、栞がいた時間が消える。私はそれが嫌なんだよ」

「でも、名前が必要だ」

「必要だよ。だから黙っているわけじゃない。ただ、名前をひとつ捕まえたら全部分かった気になるのが嫌なの」

声は静かだった。けれど、その静けさは拒むためではなく、崩れないためのものだった。

「栞はその男の人が帰ったあと、私に紙を見せた。小さい紙だった。何か書いてあったけど、すぐに折ってしまった。『これ、駅に持っていく』と言った」

「駅へ?」

「うん。誰に渡すのか聞いたら、『なくした人に』って」

私は切符へ視線を落とした。

駅に持っていく。なくした人に返す。

遺失物係として聞き慣れた言葉なのに、胸の奥には違う響きで落ちた。

「その紙は?」

「栞が持って出た」

「そのあと、どうなった」

「店を出たところまでは見た。駅のほうへ歩いていった。片方の袖をつまんで、いつものように。そこから先は……」

みどりの指が、カップの縁で止まった。

「見ていない?」

「見なかった」

短い答えだった。

私は、その言葉の中にある硬さを聞いた。

「本当に?」

「本当に、という言い方をされると困るね。見たものを全部覚えている人なんていない。私は店の中にいて、外を見ていた。栞が駅のほうへ行った。そこまでは覚えてる。そのあと、店の前に真鍋さんが立っていた」

真鍋宗一。

名前を聞いたとき、小包の紙より冷たいものが、指先から腕へ這い上がった。

「真鍋が?」

「当時は町役場の人だった。事故のことで、町の人間に同じ説明をさせて回っていた。事故は翌朝。駅前には誰もいなかった。炭鉱へ近づいた者はいない。栞という子は、事故の前から家を出ていた。そういう話を、あちこちでしていた」

「栞は事故のあとにいなくなった」

「そう聞いてる」

「みどりは、そう思っていない」

「思うことと、記録にすることは違うから」

「それでも、言えることはあるはずだ」

みどりは写真を見つめた。

「透。あんたが小さい頃、駅前で栞と一緒にいたことを覚えてる?」

喉の奥が急に狭くなった。

写真の少年。下がった肩。手の中の布包み。

私は首を振った。

「覚えていない」

「そうだね」

「何を知っている」

「知っていることは、そんなに多くないよ。あんたの家の人が、事故のあと、あんたを町の外へ連れていこうとしたこと。けれどあんたは、駅から動かなかった。栞を待つと言っていたらしい」

「誰が、そんなことを」

「祖母から聞いた。祖母も、誰かから聞いたんだろうね。町の記憶なんて、そうやって手渡されるうちに、肝心な名前だけが抜けていく」

「私は、栞を知っていたのか」

「知っていたかどうかは、あんたが決めることだよ。写真の中の自分を見て、何を感じた?」

私は答えられなかった。

少年の手にある小さな布包み。幼いころから持っている、由来の分からない布切れ。今も駅の机の引き出しに入っている。祖母のものだと思っていたが、確かな記憶ではない。

私は布鞄の中の小包へ手を置いた。

「この結び方は、栞のものか」

みどりは写真の隅にいる少女の手首を見た。

「赤い紐を、栞は自分で結んでいた。ほどけないように、でも、切ればすぐ外せるように。何かを縛る結び方じゃない。戻ってこられるように、目印をつける結び方だった」

「小包を送っているのは、栞ではない」

「そうだね」

「では、誰が」

「それを確かめるために、あんたは来たんでしょう」

みどりはカウンターの下から、古い紙ナプキンを一枚取り出した。小包に入っていたものと同じ、青いロゴが印刷されている。けれど、これはさらに古い。端が黄ばんで、折り目の一箇所に小さな赤い繊維が挟まっていた。

「これ、栞が置いていったもの」

「何が書いてある」

「表には何も。裏に、昔の店番が鉛筆で書いた」

みどりは裏返した。

薄い文字が残っている。

七月七日。駅へ。返す。

私はその三つの言葉を見て、紙ナプキンに触れた。ざらついた繊維の間に、乾いた花の茎が擦れた跡がある。小包に入っていた押し花と、同じ種類の花かもしれない。

「どうして、今まで見せなかった」

「見せる理由がなかったから」

「今年までは?」

「今年までは、あんたが見ないふりをしていたから」

みどりは、ようやく私の目を見た。

「小包が届くたび、あんたは中身を正確に書いた。でも、栞の名前が出た年だけ、字が細くなった。私は店の帳面でそれを見たわけじゃない。駅から戻ってきたあんたの顔を見ていた。人は、何も感じていないときには、そんなふうに手を固く握らない」

私は自分の手を見た。爪の跡が掌に残っている。

「私は、記録してきた」

「うん」

「十年分、全部」

「でも、探してはいない」

「探す必要があるとは思わなかった」

「必要って、いつも後から来るよ。誰かがいなくなったあと、誰かが死んだあと、町が空っぽになったあとで、ようやく」

みどりは紙ナプキンを折りたたみ、私の前へ置いた。

「持っていっていい」

「これは店のものだろう」

「もう店のものじゃない。ずっと誰かに返されるのを待っていた紙だよ」

私は紙ナプキンを受け取った。

乾いた紙の匂いがした。コーヒーと、古い木と、わずかな煤の匂い。小包の中身と同じだった。

「みどり」

「なに」

「写真の少年は、私か」

みどりはすぐには答えなかった。

窓の外で、雨の雫が軒先から落ちた。音は一度だけで、次が続かなかった。

「名前を呼べば、あんたは戻ってこられると思う?」

「分からない」

「なら、今は呼ばなくていい。名前は、記憶が戻ったときに使うものじゃない。記憶が戻らなくても、そこにいた人間を消さないために使うものだから」

私は写真を見た。

赤い紐を手首に巻いた少女が、こちらではなく、写真の外を見ている。隣の少年は足元の何かに手を伸ばしている。ふたりの間には、ほんのわずかな隙間があった。その隙間を、雨の光が細く縁取っていた。

店を出ると、空はまた曇り始めていた。

駅までの道を戻りながら、私は紙ナプキンを胸ポケットに入れた。跨線橋の下を通ると、錆びた鉄の匂いが強くなる。遠くでバスが発車し、濡れた道路に白い水煙を残していった。

駅舎の扉を開ける前、私は振り返った。

喫茶店の窓の向こうで、みどりがこちらを見ていた。手には、まだカップがある。彼女は手を振らなかった。私も振らなかった。

ただ、互いにその場を離れなかった。

旧事務室へ戻り、私は台帳を開いた。

今年の小包の記録の下に、紙ナプキンの文言を書き加える。

七月七日。駅へ。返す。

そこまで書いて、私は筆を止めた。

空白だった余白が、少しだけ狭くなっている。

それでも、最後まで埋めるには、まだ足りなかった。

← 横にスクロールして読み進められます

久米みどりの視線 - 封の記憶 - 誰でも作家life