2話 二日遅れの小包

翌朝、雨は上がっていた。

駅舎の軒先から落ちる雫が、一定の間隔で石のたたきを打っている。空は明るくなりかけていたが、山の稜線にはまだ薄い雲が残り、廃線跡の草むらから濡れた土と鉄の匂いが立っていた。

私はいつもより早く駅へ来ていた。

昨夜の電話のことを、台帳には書かなかった。短く一度だけ鳴り、受話器を取ったときには誰もいなかった。雑音の向こうに、遠い雨音のようなものがあった。あれを電話と呼んでいいのかも分からない。

ただ、駅舎の入口に立ったとき、旧ポストの扉が少し開いていることに気づいた。

旧ポストは、駅舎の壁に取り付けられたまま使われなくなっている。郵便局が移転したあとも撤去されず、赤い塗装は何度か塗り重ねられ、投入口の縁だけが金属の地肌を見せていた。鍵は壊れているが、扉を開けるには内側の小さな爪を押し下げなければならない。風で開くことはない。

私は足を止めた。

ポストの下には、濡れた跡があった。水たまりというほどではない。茶色い紙を一度置いて、持ち上げたような長方形の染みだった。

扉を開ける。

中に、小包が入っていた。

薄い茶色の包装紙。手のひらに載るほどの大きさ。麻紐は、左から右へ一度巻かれ、余った端が下へくぐっている。結び目の右側だけ、三ミリほど長い。

私は包みを持ち上げる前に、四隅を見た。

紙は湿気を吸って固くなっていた。表面は乾いているのに、指を近づけると、古い木箱の内側のような匂いがする。糊の跡は宛名の下に細く残り、右上の角だけがわずかに潰れていた。紐は去年までのものより赤みが強い。撚りは時計回り。だが結び方は同じだった。

私は包みを旧事務室へ運び、机の中央に置いた。

壁時計は午前八時十二分を指している。

七月七日に届くはずだったものが、二日遅れて七月九日に届いた。

私は控え紙の余白に、まず日付を書いた。

七月九日。旧ポスト内より発見。包装紙、淡褐色。湿気あり。麻紐、赤褐色。結び目、従来と同一。

そこまで書いて、ペン先を止めた。

「発見」という言葉が、妙に違って見えた。誰かが郵便受けへ入れたのなら、これは発見物ではなく郵送物だ。けれど差出人はなく、宛名は「深見駅遺失物係」とだけ書かれている。どこの郵便局を通ったのかも、いつ投函されたのかも分からない。

私は包みの裏側を見た。

消印はなかった。

郵便物として扱われた痕跡がない。ただ、紙の折り目の一箇所に、泥とも煤ともつかない黒い粉が入り込んでいる。指先で触れると、粉は乾いて崩れた。

私は赤鉛筆を置き、麻紐の結び目へ手を伸ばした。

ほどく前に、いつも一度だけ息を止める。

その手順を、誰に教わったのか私は知らない。小包が届き始めた十年前から、ずっとそうしてきた。結び目を切らず、紐を傷めず、元の状態を崩さない。そうしなければ、包んだ人が残したものを途中で失う気がした。

右端を指で押さえ、下へくぐった端を引く。

紐は抵抗なくほどけた。

包装紙を開くと、中には三つの物が入っていた。

最初に見えたのは、古い硬券切符だった。

深見駅から隣町へ向かう、片道の臨時乗車券。表面の印字は擦れているが、駅名印だけは残っている。深見駅。日付は昭和の終わり頃で、通常の時刻表にはない日付だった。

私は切符を持ち上げた。

紙の厚みが、指の腹にひどく鮮明だった。乾いた硬券特有のざらつき。角の一箇所だけ、何度も撫でられたように丸くなっている。反射的に私は視線を逸らした。

それから、もう一度見た。

駅名印の下に、薄い赤色の小さな印が押されている。臨時停車を示す印だった。

深見駅に臨時停車があった記録は、通常の駅務日誌にはない。

私は切符を台紙の上へ置き、次の包みを開いた。

駅前喫茶の紙ナプキンだった。端に、かつての店名が青いインクで印刷されている。今のみどりの店に残っている古いロゴと同じだが、紙はずっと薄く、繊維が粗い。

その中に、乾いた花が一輪入っていた。

白い小さな花。茎は短く切られ、押し花にされたあと、さらに薄紙で挟まれている。花びらの中央には、煤のような黒い点があった。

最後は、二つ折りの紙片だった。

子どもの字で、ひらがなが三文字だけ書かれている。

しおりへ。

文字を見た瞬間、喉の奥が閉じた。

私は紙片に触れたまま動けなくなった。古い紙の匂いの奥に、濡れた木の匂いが混じる。誰かの袖をつかんだ感触。窓の外を数えるような、幼い声。

一、二、三。

その先が思い出せない。

私は紙片を机に置き、両手を膝の上へ戻した。呼吸を整えようとしたが、肺の奥まで空気が届かない。台帳に何かを書かなければならない。品名、数量、状態。いつもならすぐに書ける項目が、目の前で濁っていた。

やがて、駅前の道路を走る車の音が聞こえた。

しばらくして、駅舎の扉が開いた。

藤堂修司だった。濃紺の上着は着ていたが、ネクタイは少し緩んでいる。手にしたメモ帳の角は擦れていた。彼は机の上の小包を見て、入口の近くで一度だけ深呼吸した。

「電話をいただいた件で来ました」

「電話をした覚えはありません」

「駅の固定電話から、管轄署に着信がありました。昨夜、六時三十一分。通話はありませんでしたが、記録に残っています」

藤堂はメモ帳を開き、時刻を書き込んだ。ペン先を二度、紙の端で試してから顔を上げる。

「それで、これは?」

「今朝、旧ポストに入っていました」

「差出人は」

「ありません」

「消された形跡は?」

「最初から書かれていません」

「消印は」

「ありません」

藤堂は小包を見た。包みをすぐには触らず、まず紙の四隅と紐の結び目を確かめた。

「開封済みですね」

「私が開けました」

「中身は、ここにあるものですべてですか」

「硬券切符、一枚。古い紙ナプキンに包まれた押し花、一輪。折り畳みの紙片、一枚」

「紙片には何と?」

私は少し黙った。

「しおりへ、と」

藤堂のペンが止まった。

「早瀬栞ですか」

名前を先に言われたことで、胸の奥に薄い金属が差し込まれたような痛みが走った。

「その名前を、どこで」

「町の古い行方不明者記録にあります。深見炭鉱の事故と同じ時期に、駅前から行方不明になった少女です」

「記録に、そう書かれているのですか」

「行方不明者届はあります。ただ、事故との関係は明記されていない」

藤堂はメモ帳に何かを書いた。文字は小さく、行間が狭い。

「桐生さん。これは、あなたが過去に保管した小包の続きですか」

「十年間、毎年届いています」

「なぜ、今まで届け出なかった」

「差出人がないだけで、事件性があるとは思わなかったからです」

「毎年、同じ日に届く。差出人がなく、内容が古い事故に関係しているかもしれない。それでもですか」

「中身が、誰かを傷つけたとは限りません」

「傷つけるものだけが、事件になるわけではありません」

藤堂はそう言ったあと、自分の言葉を確かめるように黙った。

私は切符を台紙ごと彼のほうへ向けた。

「この駅名印を見てください」

「臨時停車印ですね」

「深見駅に、通常の運行記録にはない臨時停車があった可能性があります」

「可能性、と言う根拠は」

「印影です。駅務用の印ですが、現在残っているものとは違う。古い形式です。それに、この日付は事故の記録と重なっている」

「事故の日付を、あなたは知っているのですか」

「まだ正確には」

「まだ?」

藤堂の声がわずかに低くなった。

「町史には事故の日付が載っています。でも、この切符の日付と一致しない。事故の発生は翌日になっている」

「切符が偽物という可能性は」

「あります」

「印影が本物でも、切符そのものが別の日に使われた可能性はある」

「あります」

「では、現時点では何も断定できません」

「分かっています」

藤堂は切符から紙片へ視線を移した。

「ただ、断定できないことと、調べなくていいことは別です」

その言葉に、私は顔を上げた。

藤堂はメモ帳を閉じた。机の上を空けるように、切符から少し離れた場所へ手を置く。

「私は昨日まで、これを古い行方不明者の話として処理するつもりでした。記録が古すぎる。証言も散っている。差出人もいない。そういう案件は、調べ始めるほど輪郭が崩れることがある」

「だから、調べない?」

「違います。だからこそ、最初に手順を決める。誰かの記憶や噂を、そのまま証拠にしない。小包は保全します。切符も紙片も、触れた人間と時刻を記録する。あなたの過去の控え紙も、可能なら見せてください」

「小包を、遺失物として保管できなくなりますか」

「事件性があると判断すれば、警察が預かることになります」

「持ち主が分からない物を、また持ち主のいない場所へ移すのですか」

藤堂は私を見た。

「保管することと、放置することは違います」

その言い方が、昨夜の北見の言葉と重なった。

記録は、残す側の事情を知らない人間に使われる。残した記録が人を守るとは限らない。

私は小包の中の紙片を見た。三文字のひらがな。しおりへ。誰かが誰かに渡そうとして、渡せなかったのかもしれない。あるいは、渡したつもりで、届かなかったのかもしれない。

「藤堂さん」

「はい」

「この切符を、町史の記録と照合したい」

「私も同行します」

「役場へ行くのですか」

「その前に、駅の保管庫を見ます。駅務日誌、臨時停車の記録、古い印章の管理簿。残っていればですが」

藤堂は小包を見下ろした。

「それから、久米さんにも話を聞きます」

「みどりに?」

「紙ナプキンが喫茶店のものなら、仕入れや旧店舗の記録があるかもしれない。あなたが知っていることを、先に教えてください」

「みどりは、噂を真実の代わりにはしません」

「だから聞く価値があります」

藤堂は切符を封筒へ戻した。封筒の口を閉じる前に、紙の角を揃える。その手つきは北見より簡素だったが、雑ではなかった。

私は紙片を台帳の横へ置いた。

子どもの字は、少し右上がりになっている。最後の「へ」だけ、筆圧が強い。急いで書いたのか、迷いながら書いたのかは分からない。

ただ、その字を見ていると、何かを渡す前に相手の顔を見る少女の姿が、記憶の底から浮かびかけた。

赤い紐。

濡れたレール。

隣に立つ、小さな肩。

私は思わず、紙片を裏返した。

裏には何もなかった。

それでも、紙の中央に指で押されたような浅い跡が残っていた。誰かが書いた文字を、もう一度上からなぞった痕跡。光の角度を変えると、かすかな凹みが見える。

私は机の引き出しから古い赤鉛筆を取り出した。

そして台帳の今年の欄に、ゆっくり記した。

七月九日。小包、到着。

その下に、品名を書き始める。

硬券切符、一枚。押し花、一輪。紙片、一枚。

少し迷ってから、私は最後に付け加えた。

紙片には「しおりへ」と記載あり。

書き終えると、私は一度だけ息を止めた。

駅舎の外で、旧ポストの扉が風もないのに小さく鳴った。藤堂が振り返る。私は立ち上がり、窓のほうへ歩いた。

濡れた木の匂いが、まだ残っている。

草に覆われた線路の向こうで、誰かが置き忘れた時間だけが、雨の雫を受けて鈍く光っていた。

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