4話 写真帳の紙背

藤堂が帰った翌日の午後、みどりから電話があった。

駅舎の電話は、受話器を取る前から相手の気配が分かることがある。呼び出し音の間隔や、鳴り終わったあとの沈黙の長さで、急いでいるのか、ためらっているのかが違う。みどりの電話は三度目で切れた。私は二度目の音が鳴ったところで受話器を取った。

「はい」

「今、店に来られる?」

挨拶はなかった。

「何か見つかった?」

「見つかったというより、見せておいたほうがいいものがある」

「小包に関係する?」

「たぶん。けれど、あんたが見てから決めたほうがいい」

みどりはそこで一度、息を止めたように黙った。

「写真帳を出すから」

電話が切れたあとも、受話器の向こうに残っていた沈黙が、しばらく耳の内側に貼りついていた。

私は駅舎の戸締まりを確認し、今年の小包の控え紙を封筒へ入れた。紙片そのものは藤堂が預かっている。私の手元にあるのは、品名と状態を書き写した台帳だけだった。それでも、封筒を持つ指は重かった。

外へ出ると、雨が細く降っていた。

駅前の道は黒く濡れ、商店跡のシャッターから落ちる雫が、歩道の端に小さな筋を作っている。バス待合所には誰もいなかった。ベンチの木は水を吸って暗くなり、座面の窪みに溜まった雨が、薄い空をそのまま映していた。

跨線橋の階段を上ると、靴底から湿った音が返ってきた。錆びた手すりには、細かな水滴がびっしり並んでいる。指で触れれば、赤茶色の粉がつくだろう。私は手を伸ばしかけ、やめた。

子どもの頃にも、同じ手すりを見た気がした。

前を歩く小さな肩。片方の袖をつまむ手。手すりに結ばれた赤い紐。

記憶は、階段の途中で途切れた。

喫茶店のガラス戸を開けると、扉の鈴が乾いた音を立てた。店内には客がいなかった。豆を挽く音も、ラジオの声もない。みどりはカウンターの奥で、古い写真帳を布で拭いていた。

「雨の日に呼び出すなんて珍しい」

「雨の日だから」

「それだけ?」

「雨の日は、古い紙の匂いが戻るから」

みどりは写真帳の表紙から手を離した。

「そういうことを言うようになったのは、今年に入ってからだね」

「前から言っていたかもしれない」

「言ってない。前のあんたは、匂いのことを訊かれても、紙が湿っただけだと言っていた」

みどりはカウンターの端にある欠けたカップを取り、湯を注いだ。私の分ではなく、自分の分だけだった。白い湯気が立ち上がり、彼女の顔を一瞬隠す。

「藤堂さんに、写真のことを話した?」

「まだ」

「どうして」

「写真だけでは証拠にならない」

「証拠になるかどうかを決めるのは、あんたじゃないでしょう」

「写っている人物が誰か確定していない。撮影日も、撮影者も分からない。裏書きもない」

「だから、見せる価値がない?」

私は封筒をカウンターへ置いた。

「見せる価値がないとは言っていない」

「じゃあ、何を怖がってるの」

みどりはそう言って、写真帳を私の前へ押し出した。

表紙は濃い茶色の布張りで、角が丸く磨り減っていた。背表紙の糸は一箇所だけ浮き、そこに黒い埃が溜まっている。触れると、古い糊と乾いた珈琲豆、それから雨に濡れた木のような匂いがした。

私は手袋を外し、右手の人差し指で表紙を撫でた。

「これ、いつから店に?」

「祖母の代から。店の帳面や写真を、何でも一緒に挟んでいた。写真帳というより、町のものを捨てられなかった人の箱みたいなものだね」

「写真以外もある?」

「ある。領収書、切符、新聞の切り抜き、誰かのメモ。だから、順番はあまり信用しないで」

「順番を信用しない写真帳を、どうして見せる」

「順番が崩れているから分かることもあるよ。きれいに並んでいるものは、並べた人の都合しか残さない」

みどりはカップを置いた。

「透。あんたの台帳も、きれいすぎる」

「仕事だから」

「仕事にすることで、見たくないものまで整えたんじゃないの」

返事を考えているあいだに、みどりは写真帳を開いた。

最初の数頁には、炭鉱がまだ動いていた頃の町が写っていた。作業服姿の男たち。駅前に並ぶ荷車。屋根の低い商店。線路の向こうに積み上げられた石炭の山。写真のどれにも、現在の町にはない人の密度があった。

笑っている者もいる。疲れた顔をしている者もいる。だが、写真に写る人間は皆、誰かの隣に立っていた。

ページをめくる。

駅前の祭り。喫茶店の開店日。廃線が決まった年の集合写真。白い布をかぶせた慰霊碑。写真の端に、いつも同じ少女がいた。

早瀬栞。

栞は中心に立たない。看板の陰、柱の脇、窓際。視線もカメラへ向けないことが多かった。誰かが差し出した切符を受け取る手。机の端から落ちかけた紙を拾う手。細い赤い紐を、指先で結び直す手。

「顔より、手が残っている」

私が言うと、みどりは頷いた。

「栞は、顔を撮られるのが嫌いだったわけじゃない。人の顔は、そのときだけのものだからって言ってた。手のほうが長く覚えている、と」

「子どもが、そんなことを?」

「子どもは、時々大人より正しいことを言うよ。大人は正しいことを言うと、あとで困るから言わなくなるだけ」

ページの隅に、栞が紙片を二つ折りにしている写真があった。折り目を爪で押さえ、さらにもう一度折る。紙を濡らさないよう、息を止めているようにも見える。

私は、その仕草を知っていた。

古い紙片を手にしたとき、私も同じように折り目をなぞる。小包の紙片を初めて開いたときも、私は無意識に同じ動きをしていた。

「この写真、いつ撮った」

「裏を見て」

みどりは写真を剥がそうとはせず、帳面ごとこちらへ向けた。

写真の裏には、青い鉛筆で数字が書かれていた。

日付のようで、日付ではない。七、七、二。数字の間に細い線が引かれ、その下に「駅前」とある。筆圧は弱く、最後の「前」だけが濃かった。

「七月七日?」

「たぶんね」

「たぶんでは記録にならない」

「そう言うと思った」

みどりは写真の角を布で押さえた。

「でも、これは日付を書くための写真じゃない。栞が何かを覚えておくために、裏へ数字を残したんだと思う」

「栞が書いた?」

「字が違う。栞の字は、もっと右上がりだった」

「誰の字?」

「知らない。祖母の字でもない。事故のあと、店に出入りしていた誰かの字だと思う」

「真鍋か」

「名前を急がないで」

「栞は、事故の日に駅へ行った。小包には、深見駅の臨時停車印が押された切符が入っていた。写真の裏に七月七日と駅前。偶然として片づけるには、重なりすぎている」

「重なっているからこそ、間違いも重なりやすい。切符の日付が本物でも、写真の数字が撮影日とは限らない。駅前の写真でも、事故の日に撮られたとは限らない。栞が何かを見たとしても、それが事故に関係するとは限らない」

「それを確認するために、私は調べている」

「違うね」

みどりの声が低くなった。

「あんたは、確認する前に記録へ逃げている。調べている人は、自分に都合の悪い答えが出る可能性も一緒に持つ。あんたは、答えが出る前に紙へ移して、自分から遠ざけようとする」

「記録すれば、遠ざかるわけではない」

「そう思っているなら、どうして自分のことだけ何も書かないの」

店内の空調が止まった。湯気がまっすぐ上へ伸び、天井近くで消える。

私は写真帳の頁を押さえた。指先に、古い糊のざらつきが伝わる。

「私の記憶に、書けることはない」

「ないんじゃなくて、書かないんでしょう」

「覚えていない」

「覚えていないことと、何もなかったことは違う」

「分かっている」

「分かっていないから、十年も小包を受け取り続けて、栞の名前が出たときだけ字を細くしている」

私は控え紙の束を取り出した。

「名前が出た年なんて、記録にはない」

「あるよ。ここ」

みどりは写真帳から指を離し、私の控え紙の一枚を裏返した。そこには、私が書いた年ごとの小包の一覧がある。八年前の欄。「子どもの字による紙片」とだけ記されている。

その行の下に、私が書いた覚えのない小さな文字があった。

しおり。

ひらがな四文字。赤鉛筆ではなく、薄い灰色の鉛筆で書かれている。私の字に似ていたが、線の終わりが違った。

「これは……」

「駅の控え紙を整理していたときに、裏側から透けて見えた。表には、あんたが上から別の紙を貼っていた」

「私が?」

「そう。忘れていたんじゃない。見えないようにしていた」

私は紙を裏返した。糊の跡が二本、平行に残っている。貼り替えたのは私だ。糊の乾き方まで、自分の仕事の癖と一致していた。

胸の奥で、古い金属がゆっくり擦れた。

一、二、三。

その先に、誰かの声があった。

戻ってきなさい。

私は椅子から立ち上がりかけ、膝へ手を置いた。

「この写真帳のどこに、私がいる」

みどりはすぐには答えなかった。

「見たい?」

「見せてほしい」

「見たら、戻せないかもしれないよ」

「戻す必要があるのか」

みどりは、ほんの少し目を伏せた。

「ない。戻す必要はない。でも、見たものをなかったことにするのは、前より難しくなる」

彼女は最後の数頁を開いた。

駅前の写真だった。

撮影日は分からない。空は薄曇りで、駅舎の屋根が濡れている。跨線橋の手すりに、赤い紐が結ばれていた。写真の左端に栞が立ち、少し離れた場所に、ひとりの少年がいる。

少年は顔を背けていた。

だが、肩の傾きと、右手に抱えた小さな布包みは、私の記憶に残るものと同じだった。

私は写真へ指を伸ばした。

触れる寸前に、みどりが言った。

「裏を見て」

私は写真の端をつまみ、ゆっくり裏返した。

そこには、写真の表からは見えない紙片が、糊で仮留めされていた。薄い紙を剥がすと、下から別の文字が現れた。

七月七日。駅へ返す。

その筆跡は、今年の小包に入っていた紙片の「しおりへ」と同じだった。

私は息を止めた。

「小包の送り手は、この言葉を受け継いでいる」

「そうかもしれない」

「栞が書いた?」

「たぶん違う。けれど、栞が誰かに渡した言葉を、誰かが覚えていた」

「誰が」

「それを探すんでしょう」

みどりは紙片を私の前へ置いた。

「ただし、ひとつだけ覚えておいて。小包を送っている人は、町を責めたいだけじゃない。責めるなら、もっと簡単な包み方をする。名前を書いて、役場へ送りつけて、新聞社へ持っていく。なのに毎年、同じ結び目で、ひとつずつ物を戻している」

「戻す?」

「栞が見つけたものを、栞のいた場所へ戻しているのかもしれない。駅へ。誰かが待っていた場所へ」

私は写真の少年を見た。

少年の足元には、白い花が一輪落ちている。写真では小さすぎて種類までは分からない。けれど、今年の小包に入っていた押し花と同じ形に見えた。

「みどり。私はこの少年を知っているのか」

「写真の中のあんたは、栞の隣にいる。それ以上は、私には言えない」

「言えないのか、言わないのか」

「どちらでもあるよ。記憶を他人の言葉で埋めると、あとで本当の記憶が戻ってきたとき、どちらを信じればいいか分からなくなるから」

その言葉は、みどりにしては長かった。声の底に、これまで語らずにいた年月の重さが沈んでいた。

「私は、透の家族が事故のあと町を出たことを知っている。あんたが駅前で、誰かを待っていたことも知っている。けれど、その誰かが栞だったと、私は今まで一度も断言しなかった。断言すれば、あんたの人生を私の記憶で決めてしまうから」

「では、なぜ今話す」

「今年の小包に、名前が入ったから。十年も物だけだったのに、今年は『しおりへ』と書かれていた。送り手が、もう物だけでは足りないと思ったんだよ。あんたにも、名前を受け取る準備ができたと判断したのかもしれない」

「私に準備なんてない」

「そうだね。準備ができるのを待っていたら、町の人間は誰も過去に触れられない」

みどりは写真帳を閉じた。

「だから、せめて触れるところから始める。見る。読む。手で確かめる。怖くても、そこにあるものを一度は自分の目で見る」

私は、剥がした紙片を封筒へ入れた。

「持っていっていい?」

「写真帳は置いていって」

「紙片は?」

「それは、あんたが受け取るものだと思う」

店を出る頃には、雨が少し強くなっていた。軒先から流れ落ちる水が、道の端で白く跳ねている。私は封筒を胸元へ入れ、跨線橋の下を通った。

錆びた手すりの赤い粉が、雨に溶けて階段へ流れていた。

駅舎へ戻ると、窓を少しだけ開けた。濡れた木の匂いと、遠い煤の匂いが入ってくる。旧事務室の机で、私は台帳を開いた。

今年の小包の欄へ、紙片の文言を書き加える。

七月七日。駅へ返す。

その下に、写真帳の紙背より採取した紙片、と記した。

書き終えたあと、私はいつものように一度だけ息を止めた。

けれど、次の頁は開かなかった。

台帳の余白に残っていた細い空白を、私は初めてそのままにした。空白を埋めることが、記録することだとは限らない。今は、そこに何が隠れているのかを、隠れたまま見ておく必要がある。

机の引き出しから、幼い頃から持っている小さな布包みを取り出した。

布の端には、赤い糸が一本だけ残っている。

私はそれを写真の裏から剥がした紙片の隣へ置いた。

雨音の向こうで、廃線跡の草が一斉に揺れた。風は見えなかったが、誰かが遠くを通り過ぎたような気配があった。

私は布包みを、元の引き出しへ戻さなかった。

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