第8話 帳簿を守る手、帳簿を開く手

信濃が帳場から来たのは、私が古い宿帳を祠の前に広げたころだった。
石段の下から、規則正しい足音が近づいてくる。濡れた石を踏む音なのに、信濃の歩みには迷いがなかった。足を置く場所も、体重を移す速さも、帳場の机へ書類を運ぶときと同じように決まっている。
私は顔を上げた。
信濃は濃紺の作務衣の裾を少し濡らしていた。朱塗りの帳場机の前で見るときより、身体の線が硬い。眼鏡の奥の目は、まず私の顔を見て、それから膝元の宿帳へ落ちた。
眼鏡を押し上げる指が、ほんの短く止まる。
「それを、どこから持ち出しました」
「帳場の引き出しです」
「返してください」
「まだ、読んでいません」
「読んだかどうかを聞いているのではありません」
信濃は石段を一段上がり、宿帳の前で足を止めた。祠の白い布が、風のない朝にかすかに揺れている。源泉から流れる湯気が石段を這い、私の手の甲を撫でた。温かいのに、指先は冷えたままだった。
「ここは帳場ではありません。帳簿を開く場所ではない」
「では、帳簿を閉じる場所なんですか」
言ってから、私は手拭いの端をつまんだ。信濃を責めたいわけではなかった。けれど、削られた名前を前にすると、どんな言葉も責める形になった。
信濃は返事をしなかった。
私は宿帳を開いたまま、削られた頁を彼の方へ向けた。
「この跡は、誰がつけたんですか」
「古い記録の扱いについて、あなたに説明する必要はありません」
「小松遼という名前が、ここにあった。四人分の湯の印があって、子供用の膳の記録もある。それなのに、名前だけが削られている。これは、ただの記入漏れではありません」
「記入漏れなら、訂正します」
「訂正ではないでしょう。消したんでしょう」
信濃は削除痕へ指を伸ばした。すぐには触れず、紙の端から数ミリ離れたところで指を止める。触れてしまえば、指先に残るものを恐れているようにも見えた。
「帳面は宿の骨です」
信濃はようやく言った。
「骨は、傷ついても外からは見えません。ですが、一本折れれば、立っているもの全体が歪む。宿帳も同じです。名前を一つ書けば、その客の滞在、食事、部屋、帰り道まで、宿の責任になります。書かれたものは、宿が引き受けたという証です」
「それなら、小松遼という名前が書かれていた時点で、宿はあの子を引き受けたんですね」
「……そうです」
「引き受けたのに、あとから消した」
「消したのではありません。扱いを変えた」
「名前を削って、宿帳から外すことが?」
「記録から外すことと、存在を否定することは違います」
「私には同じに見えます」
信濃は薄く息を吐いた。白い湯気が、眼鏡の縁でほどける。
「あなたはまだ、記録を一つの意味でしか見ていない」
「どういう意味ですか」
「記録は、残すためだけにあるのではありません。残すことで、そこに縛ることもある。名前を書かれた者は、宿の管理下に置かれる。怪我をすれば世話をする。帰るときには確認する。死んだ者の名を残せば、その死まで宿が背負うことになる。宿に客を預ける人間は、そこまで考えて帳簿を見るわけではない。だからこそ、帳場が判断しなければならない」
「判断して、なかったことにした」
「違います」
「では、何が違うんですか」
信濃の口元から、いつもの薄い笑みが消えた。
「なかったことにしなかったから、九番の間を閉じた」
私は言葉を失った。
信濃は祠ではなく、宿の方を見た。屋根の端から立ち上る湯気が、谷の低い空へ細く伸びている。
「本当に消したいなら、九番の間を使い続ければよかった。客を入れ、布団を敷き、雨漏りを直し、何もなかったように部屋を戻せばよかった。ですが、そうしなかった。部屋を閉め、札を掛け、夜に足音がしても誰も近づかないようにした。あの子がいた場所を、宿の中に残したのです」
「残したと言いながら、名前は削った」
「名前を残せば、誰かがあの子を迎えたことになります。迎えたなら、帰す責任が生じる。あの夜の宿には、帰す場所がありませんでした」
「だから、ここに置いたんですか」
「置いたのではありません。置くしかなかった」
「それは、置いた人の言い方です」
自分の声が震えていた。怒っているのか、怖いのか分からない。古い宿帳の紙は膝の上で冷えきっている。けれど削られた文字の凹みだけが、指先へはっきり伝わってきた。
「置くしかなかった、と言えば、仕方がなかったことになる。仕方がなかったと言えば、誰も手を止めずに済む。でも、遼くんはずっとここにいる。九番の間から出られず、雨が降るたび足音を立てて、誰かが名前を呼ぶのを待っている。これが、守った結果ですか」
信濃は私を見た。
「あなたは、あの子を見た」
「はい」
「話した」
「はい」
「名前を呼んだ」
「はい」
「なら、もう分かっているでしょう。名前を呼ぶだけでは、何も終わらない」
その言葉の奥に、別の夜があった。
信濃は帳面の角へ指を置いた。今度は触れた。紙の繊維が指の腹に引っかかる。
「私も、あの夜に名前を聞きました」
声は低く、雨上がりの水音に紛れそうだった。
「九番の間の前で、子供が泣いていた。お駒さんが中にいて、私は帳場から客の数を確認していた。増水で避難させる部屋を決めるためです。戻ってきたお駒さんが、あの子の名前を聞こうとした、と言った。ですが、そのときにはもう、あの子は返事をしなかった」
信濃の指が削除痕から離れた。
「翌朝、宿帳を閉じるとき、子供の欄だけが空いていた。誰が書かなかったのか、誰が消したのか、今でもはっきりしません。私が消したわけではない。ですが、消された頁を見て、何も言わなかったのは私です」
「言えなかったんですか」
「言わなかった」
信濃は訂正した。
「言えば、宿はあの子を客として扱わなければならない。客として扱えば、死んだ子をどこへ返すか、決めなければならない。私はその決定を、誰か別の人間がするのを待ちました。先代が決めるのを待ち、湯守が決めるのを待ち、お駒さんが何か言うのを待った。誰も言わなかった。だから、私も帳簿を閉じた」
「それは、信濃さんが守ったんですか」
「守ったと思っていました」
その言葉だけが、ひどく疲れて聞こえた。
「帳簿を閉じておけば、宿の形は崩れない。形が崩れなければ、宿は次の客を迎えられる。客を迎えられれば、働く者の暮らしも続く。宿が続けば、九番の間も祠も、あの子がいたことも残る。そう考えました。ですが、続けることは、終わらせないことと同じではありません」
「信濃さんは、あの子を忘れていない」
「忘れていません」
「それでも名前を呼ばなかった」
「呼べば、返事があるからです」
信濃は目を伏せた。
「返事があれば、帳場の人間は帳簿を開かなければならない。死者の名前を、客の欄へ戻さなければならない。その瞬間、私は宿の規則だけでなく、自分のしたことにも向き合うことになる。だから私は、正確さを守るふりをして、怖さを隠していた」
私は古い宿帳を見つめた。
規則は、冷たいものだと思っていた。人を分類し、札を掛け、数を合わせ、空白を許さない仕組み。けれど信濃が守ってきたのは、冷たさではなく、壊れない形だった。壊れない形の中に、ひとりの子供を置いたままにしていた。
「帳面を守ることと、あの子を守ることは、同じではありません」
私は言った。
「でも、別のものでもない」
信濃はゆっくりと顔を上げた。
「あなたは、そう思いますか」
「思いたいんです。帳簿に書けば救える、と単純には言えません。書いた名前が、誰かを縛ることもある。でも、書かないままなら、あの子が何を望んでいるのかさえ、誰も受け取れない。記録は人を閉じ込めるためだけのものではないでしょう。いたことを、他の人へ渡すためにもあるはずです」
「誰に渡すのです」
「宿に。祠に。これからここで働く人に。雨の夜に足音を聞く人に」
声を出すほど、胸の奥の震えが大きくなった。
「それから、遼くん自身に。あなたはここにいた、と。誰かが勝手に消したのではなく、誰かが呼び直した、と」
背後で、草履が板を踏んだ。
一度。
間を置いて、もう一度。
私は振り返らなかった。信濃だけが、私の肩越しに廊下を見ている。
湯気の向こうに、小松遼が立っていた。
青い格子の浴衣。濡れた裾。古びた紐を握った手。少年は私ではなく、信濃を見ていた。

信濃は少年から目を逸らさなかった。
長い時間が、湯気の中で動かなかった。
「……遼」
信濃の口から、名前が落ちた。
少年の肩が震えた。嬉しいのか、怯えているのか、私には分からない。ただ、名前を呼ばれた身体が、どうしてよいか分からず立ち尽くしているように見えた。
「信濃さん」
呼びかけると、信濃は片手を上げた。
止めるためではなかった。少年へ向けて、これ以上近づかなくていいと伝えるための手だった。
「私は、あの夜、名前を聞かなかった」
信濃は少年へ向けて言った。
「聞けなかったのではない。聞かなかった。帳簿を合わせることを優先した。宿を守るためだと考えたが、実際には、自分が決めるのを避けただけだった」
少年は黙っている。
「お前の名を消したのは、私ではない。だが、消されたあとに戻さなかった責任は、私にある。帳面を閉じたままにして、誰も呼ばないようにした。お前がここにいることを、宿の規則の外へ押し出した」
信濃の声は乱れていなかった。けれど、紙の端を揃えるときのような確かさはなかった。
「遼。私は、お前を客として迎えることも、死者として送ることもできなかった。だから、九番の間に残した。残したまま、守ったつもりになっていた。すまない、という言葉で足りるとは思っていない。だが、もう一度だけ言う」
信濃は一拍置いた。
「小松遼。お前は、瑞雲楼にいた」
少年の唇がかすかに動いた。
声は聞こえなかった。
それでも、信濃の顔が変わった。目の奥で、何かを受け取ったのだと思う。
信濃は宿帳を閉じようとした。けれど、私がその頁を押さえた。
「閉じないでください」
「帳面は、ここで閉じるものです」
「今度は、開いたままにしておきたいんです」
「記録を開いたままにすることは、決めていないということです」
「決めるために、開いておくんです」
私は削除痕へ筆先を置いた。持ってきた筆記具は、紙へ触れる前に震えた。信濃の視線が手元へ落ちる。
「何を書くつもりです」
「まだ、名前は書きません」
「では、何を」
「空白があることを」
信濃は眉を寄せた。
「空白は、すでに見えています」
「見える人にしか見えません。書いておけば、次に開く人が、ここで誰かが名前を消したことを知る。削られた跡まで消してしまえば、また同じことが起きるかもしれない」
「帳簿に傷を残すのですか」
「傷を隠すために、名前まで消したんでしょう」
信濃は答えなかった。
私は削られた欄の下へ、細い字で書き込んだ。
この欄には、かつて子供の名があった。 名は削られたが、存在まで失われたものではない。
筆先が紙を擦る音だけが、祠の前に響いた。
信濃は文字を読み、長い沈黙のあとで言った。
「これは、正式な記録ではありません」
「分かっています」
「帳場の印もありません」
「まだ、もらっていません」
「私が印を押すと思いますか」
「押してもらいます」
信濃は私を見た。
「あなたは、ずいぶん勝手になりましたね」
「はい」
「初日に、勝手に動かないよう言ったはずです」
「覚えています」
「帳簿を持ち出し、九番の間へ近づき、名前を呼び、今度は記録を書き換えようとしている」
「書き換えるのではありません。開けるんです」
「同じことです」
「いいえ」
私は筆を置いた。
「書き換えるなら、都合の悪いところを消して、整って見える形に戻します。私は逆です。消された跡も、迷った手も、誰も決められなかった時間も、残したい。きれいな記録ではなく、折れたままの記録を、宿の骨として置きたいんです」
信濃は目を閉じた。
風が山の斜面を下り、祠の白い布を揺らした。湯気が一度だけ濃くなり、少年の姿を隠す。けれど、足音はしなかった。
信濃はやがて、懐から小さな印章を取り出した。
古い木の持ち手が擦り減り、朱肉の跡が縁に黒く残っている。彼は印面を布で拭い、私の書いた文字の下へ置いた。
「正式な追記は、私ひとりでは決められません」
「分かっています」
「源一の確認が要る。祠に関わる記録だからです。お駒さんも、立ち会わせるべきでしょう」
「はい」
「そして、名前を戻したあと、何が起きるかは保証できません。帳簿に名を戻せば、あの子が安らぐとは限らない。九番の間の封が崩れるかもしれない。湯の流れが変わり、宿そのものが不安定になる可能性もある」
「それでも、戻すんですか」
私が訊くと、信濃は印章を見つめた。
「戻すのではありません。戻せるかどうかを、皆で決める」
「信濃さんは、決めるのが怖くないんですか」
「怖いですよ」
その答えは、驚くほど静かだった。
「怖いから、手順を作る。怖いから、ひとりで決めない。怖いから、記録を残す。規則は、臆病な人間が責任を分けるために作ったものです。私は今まで、それを責任から逃げるために使っていた」
信濃は印章を握り直した。
「ですが、逃げるための規則でも、使い方を変えられるなら、まだ役に立つ」
少年が一歩近づいた。
足音はなかった。湯気が揺れ、青い格子の袖だけが見える。信濃はそれを見て、印章を紙へ押した。
朱い丸が、削除痕の下に残った。
押しつけた時間が長かったのか、印は少し滲んだ。信濃はいつものように紙の端を揃えようとしたが、途中で手を止めた。
「帳面は宿の骨です」
彼はもう一度、同じ言葉を口にした。
「骨が折れたままでも、宿は立つ。だが、折れた場所を隠したままでは、次に同じところへ体重がかかったとき、また崩れる」
私は印の乾くのを待ちながら、少年を見た。
遼は信濃の手元ではなく、朱い印を見ていた。自分の名そのものではない。消された跡の下に、もう一度置かれた色を見ている。
「遼くん」
私は呼びかけた。
少年の目がこちらを向く。
「今日は、あなたの名前をここへ戻す準備をしたよ」
少年は返事をしなかった。
けれど、湯気の向こうで、目だけが少しやわらいだ。
信濃は宿帳を閉じた。今度は紙の端を揃えなかった。頁が一枚、わずかに外へはみ出している。
そのはみ出した紙を、私は押し戻さなかった。
石段の下から、源一の足音が近づいてきた。濡れた土を踏む、重く短い音だった。信濃は顔を上げ、私は覚え帳を胸へ抱えた。
祠の白い布が、朝の風に揺れている。
名前を戻すには、まだ越えなければならないものが残っていた。けれど、閉じられていた頁は、もう完全には閉じていない。
湯気の奥で、少年の足元から小さな水滴が落ちた。
その音は、石の上で消えずに残った。
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