第7話 祠前の呼び声

雨が上がった朝、私はいつもより早く目を覚ました。
屋根から落ちる雫の音が、夜のあいだじゅう、途切れずに続いていた。眠りの浅いところへ、ぽつり、ぽつりと入り込んできた音だった。目を開けても、しばらく自分がどこにいるのか分からなかった。薄暗い天井、湿った畳の匂い、遠くで流れる湯の音。瑞雲楼の朝は、外の山より先に、建物の内側から始まる。
私は布団をたたみ、白い手拭いを手に取った。
昨夜、少年のあとを追って裏口まで来たとき、雨に濡れた廊下の向こうに、源泉の白い湯気が見えていた。足跡は祠の方角へ続いていた。私はその先へ進まなかった。源一に言われたことが、まだ身体の中に残っていた。
呼ぶなら、帰す覚悟を持て。
古い宿帳は、枕元の覚え帳と一緒に風呂敷へ包んでいた。信濃に返すべきものだった。それでも、昨夜の少年の指が空中をなぞった場所を思い出すと、帳面を帳場へ戻すことができなかった。
名前の削られた頁。
四人分の湯の印。
子供用の小さな膳。
その欄外に残された、黒い丸と、針の先ほどの白い点。
私は風呂敷の結び目を確かめ、立ち上がった。
廊下へ出ると、板の冷たさが足袋越しに伝わってきた。夜の湿気がまだ抜けていない。障子の向こうから朝の光が薄く差しているのに、瑞雲楼の中は夕暮れのように暗かった。
帳場の前を通ると、信濃の姿はなかった。朱塗りの机の上には、今朝の配膳札が並び、角がきちんと揃えられている。けれど一枚だけ、裏返しの札があった。
私は足を止めた。
札の裏には何も書かれていない。ただ、端が湿っている。指で触れれば、紙の繊維が柔らかく崩れそうだった。
私は札を表へ戻さず、そのまま通り過ぎた。
帳場を出ると、裏口へ向かう廊下に白い湯気が溜まっていた。源泉は朝の冷えに押し戻されるように、低いところを這っている。湯気の中を歩くと、頬に細かな水滴がついた。首筋へ流れた雫が冷え、私は手拭いで拭おうとしたが、途中で手を止めた。
少年が、そこに立っていた。
裏口の障子の向こうだった。
青い格子の浴衣。濡れた裾。片手に、結び目のほつれた古い紐を握っている。外は雨上がりなのに、少年の足元だけが水に濡れていた。草履は片方が少し擦り減り、右のつま先が斜めに傾いている。
私を見ると、少年はすぐには動かなかった。
まず私の手元を見た。白い手拭い。風呂敷。名札。いつものように、私が自分を見ているのかを確かめている。
私は一拍置いてから、障子を開けた。
冷たい風が入り込み、湯気が細くほどけた。
「おはよう、遼くん」
少年は返事をしなかった。
けれど、目だけが少しやわらいだ。笑う前に目元が緩む、いつもの笑い方だった。
「祠へ行くの?」
少年は、源泉の方へ顔を向けた。
私は返事を待たず、裏口から外へ出た。
石畳は雨を含み、足を置くたび靴底がぬめった。源泉小屋の脇を抜けると、苔に覆われた石段が現れる。石段の下には、昨夜までなかった細い草履の跡が一筋だけ残っていた。
跡は濡れているのに、周囲の石は乾き始めている。
私はその前で足を止めた。
少年は私の少し後ろに立っていた。近づきすぎると姿が薄くなり、離れると足音だけがはっきりする。私は振り返らずに、彼の気配を感じていた。
「この跡を追っていいの?」
少年は一拍黙った。
それから、石段を上った。
草履の音はしなかった。けれど、一段上がるたび、濡れた跡だけが石の上へ残っていく。私は白い手拭いを握り、少年のあとを歩いた。
石段の脇には、雨に打たれた山草が倒れていた。葉の先に溜まった雫が、朝の光を細く弾いている。源泉から立ち上る湯気は、谷から上がる霧と混じり、どこまでが水蒸気で、どこからが山の息なのか分からない。
上へ進むほど、宿の音が遠ざかった。
厨房の鍋が触れ合う音も、帳場の紙を揃える音も消えていく。代わりに、岩の下を流れる湯の音が大きくなる。地面の奥で、何かが眠りながら身じろぎしているようだった。
石段の先に、古い祠があった。
小さな屋根は黒ずみ、扉の前には白い布が結ばれている。縄は雨を吸って重く垂れ、結び目の隙間に泥が入り込んでいた。祠の周りだけ、苔の色が濃い。石の表面は濡れているのに、そこへ足を置くと、靴底の冷たさより先に湯の熱が伝わってきた。
少年は祠の前で立ち止まった。
扉は閉じている。
それなのに、内側から息をひそめるような静けさが漏れていた。音がないのではない。音を押し殺したものが、扉の向こうでじっとこちらを聞いている。
私は膝をついた。
風呂敷をほどき、古い宿帳を取り出す。表紙に触れた指先が冷えた。帳面を開くと、削られた名前の頁が、朝の薄明かりの中で浮かび上がる。
小松遼。
削られた跡の周りに、黒い墨が毛羽立っている。名前は消えているのに、消そうとした手の迷いだけが、紙の中に残っていた。
私は頁を見つめたまま、少年へ目を向けた。
少年は祠ではなく、帳面を見ている。
その顔から、子供らしい柔らかさが少しずつ引いていた。怖がっているのかもしれない。けれど逃げない。自分の名前がそこにあるのか、ないのか、確かめるために立っているようだった。
「遼くん」
呼びかけると、少年の肩がわずかに揺れた。
私はすぐに続けられなかった。
名前を呼ぶことは、戸を開けることより重い。
源一の声が蘇る。呼ばれたものを、どこへ返すかまで決められる者は少ない。私は、少年を帰す場所を知らない。どこから来たのかも、ここで何を失ったのかも、まだ全部は知らない。
それでも、目の前にいる。
濡れた足跡を残し、湯気の中で目だけをやわらげ、私の名を小さく繰り返した少年が、ここにいる。
私は帳面を閉じなかった。
「……小松遼」
声は、帳場で書類を読むときよりずっと小さかった。
それでも、祠の前では十分に響いた。
風が止まった。
木の葉から落ちかけていた雫が、途中で宙に留まったように見えた。湯気が石段の下から這い上がり、少年の身体を薄く包む。
少年の肩が、風もないのに震えた。
顔を上げる。
目が、私を見た。
「遼くん」
私はもう一度呼んだ。
「小松遼くん。あなたは、ここにいる」
少年の唇が動いた。
声にはならなかった。けれど、何かを言おうとしているのが分かる。返事をすることに慣れていない口元だった。誰かに呼ばれたあと、返してよいのかを確かめている。
私は手拭いを握り直した。
「返事をしなくてもいいよ。聞こえているから」
少年の目元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「無理に笑わなくてもいい。怒っていてもいいし、怖くてもいい。ずっと待っていたなら、待っていたと教えて。誰にも言えなかったことがあるなら、言えるところからでいい」
少年は帳面へ目を落とした。
それから、祠の扉を見た。
細い指が、古びた紐の結び目を撫でる。何度もほどこうとして、ほどけなかったものを確かめるような手つきだった。
「ここから、出たいの?」
少年は首を横に振った。
私は息を止めた。
「出たくない?」

今度も、少年はすぐには答えなかった。
首を傾け、祠の扉へ手を伸ばす。触れる前で指を止め、そのまま手を引いた。
やがて、少年は首を横に振った。
「出たいのでも、出たくないのでもないの?」
少年の指が、自分の胸を二度叩いた。
りょう。
声にはならない。
次に、その指は祠を指した。それから、遠くに見える瑞雲楼を指す。宿の屋根から、白い湯気が細く流れていた。
「宿にいることが、帰ることなの?」
少年は黙っている。
「それとも、宿にいるから帰れないの?」
今度、少年の目が揺れた。
答えの代わりに、彼は自分の袖口をつまんだ。子供が怒られたあと、何を言えば許されるのか分からず、布を握るような仕草だった。
私はその手元を見て、胸の奥に冷たいものが触れるのを感じた。
「遼くん。私は、あなたをここから追い出したいわけじゃない」
少年の目が上がる。
「でも、ここに置いておきたいわけでもない。置いておくことが、あなたの望みなのか分からないから。みんな、あなたを守ろうとしていたのだと思う。お駒さんは食べものを置いた。信濃さんは帳面を閉じた。源一さんは縄を結び直した。誰も、あなたを忘れていたわけではない」
少年の肩が、わずかに強張った。
「けれど、忘れていないことと、あなたをここに残しておくことは、同じではないと思う」
湯気が、少年の顔の半分を隠した。
「あなたの名を呼ばないでいることが、あなたを守ることだったのかもしれない。返事を聞いたら、誰かが決めなければならなくなるから。ここに置くのか、外へ返すのか。帰る場所があるのか、もうないのか。決めるのが怖くて、みんな、手を止めた」
私は古い宿帳へ目を落とした。
「でも、手を止めたままでも、あなたはずっとここにいた。雨が降るたび、足音を立てて、誰かが気づくのを待っていた。私は、それをもう、ただの音として拭えない」
少年の目から、涙は落ちなかった。
代わりに、足元の石へ小さな水滴が一つ落ちた。
湯気から出た水なのか、少年の身体から落ちたものなのか、私には分からなかった。
「帰る場所を探すなら、一緒に探す」
私は言った。
「けれど、あなたがここにいたことは、帰る場所が見つかっても消さない。名前を書き直す。誰が消したとしても、誰かが呼んだことを残す。帳面だけでは足りないなら、祠にも覚えてもらう。湯にも、宿にも」
少年は私を見つめた。
その目に、初めてはっきりした子供らしさが戻った。甘えてよいのか迷う顔。手を伸ばしても、途中で引っ込める顔。
「それで、いい?」
私は尋ねた。
少年は返事の前に、一拍黙った。
それから、ほんの少し頷いた。
笑おうとしたのだと思う。けれど笑いは最後まで形にならず、目尻だけがやわらいだ。
私は帳面を胸へ抱えたまま、少しだけ湯気の厚い方へ身を寄せた。
触れられない距離だった。
手を伸ばせば届きそうなのに、指先を進めるほど少年の輪郭は薄くなる。代わりに、源泉の熱だけが白い蒸気を通して手の甲を撫でた。冷えた石の上に膝をついているのに、身体の内側だけがぬるく温まっていく。
祠の縄が、朝の湿りを吸って重く垂れていた。
少年はその縄を見ていた。
「これを、ほどけば帰れるの?」
少年は首を横に振った。
「では、結び直せば?」
今度も、首を横に振る。
私は縄の結び目へ視線を移した。古い繊維の間に、黒い泥が詰まっている。誰かが何度も触れ、結び、ほどこうとして、最後には手を止めた跡のようだった。
「結び目だけでは、だめなんだね」
少年は小さく頷いた。
そのとき、祠の内側で、何かが擦れた。
木の板を、濡れた指でなぞるような音だった。
私は反射的に身体を固くした。少年は逃げなかった。祠の扉を見つめたまま、私の方へ片手を伸ばした。触れられない距離の途中で、指先が止まる。
私は手拭いを広げ、その手の近くへ置いた。
少年の指は、布には触れなかった。
けれど、白い手拭いの端が湯気に濡れ、そこへ小さな水の輪が広がった。
「大丈夫」
自分に言っているのか、少年に言っているのか分からなかった。
「今日は、名前を呼んだだけ。すぐに帰すとは言わない。すぐに留めるとも言わない。あなたがどこへ行けるのか、私も一緒に確かめる」
少年の輪郭が、朝の霧へ溶け始めた。
「遼くん」
呼ぶと、今度は消えかけた顔がこちらを向いた。
「また呼んでもいい?」
少年は一拍置いた。
それから、頷いた。
湯気が厚くなる。
青い格子の浴衣も、濡れた髪も、握られた古い紐も、白い蒸気の向こうへ少しずつ沈んでいく。最後まで残ったのは、少年の目だった。
その目が閉じる前に、唇が動いた。
「……しの」
私は聞き逃さなかった。
「うん。志乃だよ」
「しの」
「ここにいる」
少年の目尻が、ほんのわずかに下がった。
次の瞬間、湯気がほどけた。
祠の前には、私と古い宿帳だけが残っている。白い手拭いは石の上で湿り、そこに小さな指の跡が一つついていた。
私はすぐには立ち上がれなかった。
膝の冷たさが、ようやく身体へ戻ってくる。源泉の音が急に大きくなり、谷の風が濡れた髪を撫でた。宿の方から、朝の仕込みを知らせる鐘が一度鳴った。
仕事へ戻らなければならない。
それでも、古い宿帳を閉じることができなかった。
削られた名前の上へ、私は指先を置く。紙の凹みは、まだ消えていない。誰かが消そうとした跡も、私が呼んだ声も、同じ頁の上に残っている。
石段の下で、草履が板を叩くような音がした。
一度。
間を置いて、もう一度。
けれどそこには、誰もいなかった。
私は帳面を風呂敷へ包み、白い手拭いを拾い上げた。湿った布を胸元へ押し当てると、湯の匂いに混じって、ほんの少しだけ甘い菓子の匂いがした。
祠の縄は、朝の風の中で静かに揺れていた。
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