6話 お駒の茶碗

その夜、お駒はいつものように音を立てずに現れた。

帳場の脇にある小さな休憩所で、私は濡れた手拭いを膝に置き、覚え帳を開いたまま座っていた。紙の上には、何度も書き直した文字がある。

小松遼。

書いた字を指でなぞるたび、九番の間の前で震えた少年の肩が浮かんだ。名前を呼ばれることを待っていたのか、それとも、呼ばれることを恐れていたのか。あのときの目は、子供のものにしては深すぎた。

茶碗が、私の前に置かれた。

音がしなかった。畳が受け止めたというより、置かれる前からそこにあったようだった。私は気づくのが一拍遅れ、顔を上げた。

お駒が盆を抱えて立っている。

腰は少し曲がっているのに、背中の線には迷いがない。使い込まれた前掛けの裾から、細い糸が一本だけ垂れていた。お駒はそれを指でつまみ、切るでもなく、前掛けの内側へ押し込んだ。

「顔が青いねえ」

「そうでしょうか」

「鏡を見てから言いな。自分で見ても、たぶん納得するよ」

お駒は私の返事を待たず、急須から茶を注いだ。湯気は薄かった。木と煤、それに少し甘い匂いが混じっている。砂糖を入れているわけではないのに、鼻の奥に、乾いた麦を煎ったような香りが残った。

茶碗を持ち上げると、掌にぬるい熱が移った。熱すぎない。けれど冷めてもいない。誰かが口をつける時刻を見計らったような温度だった。

「湯場で、遼くんの声を聞きました」

お駒は向かいへ腰を下ろした。座るときも、畳を押す手のひらがほとんど沈まない。

「そうかい」

「九番の間の前でも見ました。あの子は、名前を呼ばれるのを待っています」

「そうかもしれないねえ」

「お駒さんは、知っているんでしょう」

茶を一口飲んだ。苦みが舌に残り、あとからかすかな甘さが追いついてくる。

「何をだい」

「小松遼のことです。昔からいる子だと言いましたよね。昔からいるなら、いつからいるのか知っているはずです」

「昔からいる子は、昔からいるのさ」

「それでは、何も分かりません」

「分からないことを、分からないまま置いておくのも仕事だよ」

「それは、仕事ではなくて、見ないふりではありませんか」

言葉が少し強くなった。お駒は怒らなかった。ただ、茶碗の位置を半歩だけずらした。私の肘が当たらない場所へ、慎重に。

「若いねえ」

「すみません」

「謝ることじゃないよ。若い者が怒らなくなったら、宿はもっと早く腐る」

お駒は茶筒の蓋を開け、残った茶葉を覗いた。中身を確かめるような目つきだった。

「ただね、怒鳴れば出てくるものばかりじゃない。古いものは、声を大きくすると奥へ逃げる。名前も、記憶も、人の気持ちもね」

「では、どうすれば出てくるんですか」

「手を動かすのさ」

「手を?」

「茶を淹れる。濡れた床を拭く。食べられそうなものを小皿に分ける。布団が湿っていれば干す。そうしているうちに、しまわれたものの方から、少しだけ顔を出すことがある」

「それで、遼くんをずっと留めてきたんですか」

お駒の指が、茶筒の蓋の上で止まった。

「留めたつもりはないよ」

「でも、出ていけないままです」

「出ていけないものを、出ていけと言って追うのは、送り出すこととは違うからねえ」

「だったら、送り出すために何が必要なのかを教えてください」

お駒はしばらく黙った。

障子の外で雨が降り始めていた。屋根を打つ音はまだ細い。けれど一つ一つの雫が、どこか遠いところから運ばれてきたように重かった。

「山が荒れた夜があったのさ」

お駒は、茶碗の縁を指でなぞりながら言った。

「沢がふくれて、裏の石垣を越えた。今みたいな雨じゃない。屋根も床も同じ音を立てて、誰がどこにいるのか分からなくなる雨だった」

私は茶碗を置いた。

「その夜に、遼くんが来たんですか」

「来たのか、連れてこられたのか。そこから先は、言い方が難しいねえ」

「誰が連れてきたんですか」

「客の家族だろうさ。濡れた子供を抱えて、宿へ駆け込んできた。ここは湯があるから、冷えた身体を温められると思ったんだろうね」

「それなら、宿は助けたんでしょう」

「助けようとはしたよ」

お駒の声には、言い訳の響きがなかった。それがかえって苦しかった。

「宿の者は皆、手を動かしていた。火を起こす者、乾いた布を探す者、増水した廊下へ板を渡す者。帳場では客の人数を合わせていた。外へ出す者と、残す者を決めなきゃならなかった。峠道は崩れ、沢は橋を呑みかけていたからね」

「遼くんは?」

「九番の間へ運ばれた」

「なぜ、九番へ」

「一番奥で、外の水音が少し遠かったからさ。あそこは昔、病人を休ませる部屋にも使っていた。窓の戸が二重で、風が入りにくい。あの夜は、布団を重ねれば、ひとまず子供を置いておけると思った」

「ひとまず、というのは」

お駒は顔を上げた。

「ひとまず、はねえ、時々ひどく長くなるんだよ」

雨音が強まった。

お駒は茶を飲まなかった。冷めていく湯気を見つめたまま、先を続けた。

「私も九番へ行った。濡れた浴衣を脱がせて、乾いたものを着せた。けれど、あの子は泣かなかった。大人が走り回っているのに、声を上げず、ずっと戸の方を見ていた。誰かが迎えに来ると思っていたのかもしれない。あるいは、もう誰も来ないと知っていたのかもしれない」

「お駒さんは、声をかけなかったんですか」

「かけたよ。何度もねえ」

「名前は?」

お駒は答えなかった。

茶碗の中で、表面に浮いた細かな茶葉が揺れている。私はその揺れを見ていた。揺れが止まるまで、私たちは互いに口を開かなかった。

「名前を聞こうとした」

ようやく、お駒が言った。

「でも、廊下の向こうで信濃の声がした。客の数を確認するから、余計なことはするなって。あの頃の信濃は、今よりずっと若くてねえ。帳場を手伝い始めたばかりだった。数字を間違えないことが、宿を守ることだと信じていた」

「それで、聞けなかった?」

「聞けなかったんじゃない。聞かなかった」

その言葉だけが、雨音の中でもはっきり聞こえた。

お駒は茶碗を両手で包んだ。指の節が白くなっている。

「遼くんは、私の袖を掴んだ。小さな手だったよ。冷えていて、爪の間に黒い泥が入っていた。それでも、泣かずに掴んだ。私は、すぐ戻るからね、と言った」

「戻ったんですか」

「戻ったよ」

お駒は言った。

「戻ったけれど、戻ったときには、あの子はもう返事をしなかった」

胸の奥に、冷たいものが落ちた。

お駒は淡々と語っている。けれど、その淡々とした声の下には、何十年もかけて固まった泥のようなものが沈んでいた。

「外の水が引くまで、誰も九番へ行けなかった。橋が落ちて、救助を呼ぶにも下の町へ下りられない。宿の中にいた客を安全な部屋へ移すので精一杯だった。朝になって、ようやく戸を開けた」

「遼くんは、そこにいた」

「いたよ」

「それなのに、名前が削られた」

お駒は目を伏せた。

「名は、消えるときに音がしないのよ」

前にも聞いた言葉だった。けれど今度は、その意味が少し違って聞こえた。誰かが墨を擦る音も、紙を削る音も、泣き声をかき消すほど大きくはない。だから、消えたことに気づくのが遅れる。

「どうして削ったんですか」

「穢れを嫌った者がいた。死んだ子を宿帳に残せば、宿そのものに死が染みつくと言った。客が戻ってこなくなる。湯の霊験が損なわれる。そう言って、名前を削った」

「遼くんを守るためではなく、宿を守るために?」

「最初は、宿を守るためだったろうねえ」

お駒は自嘲するように、ほんの少し笑った。

「けれど、人は自分のしたことを、いつまでも醜いまま覚えていられない。だから後から、あの子を鎮めるためだった、祟りを外へ出さないためだった、名を伏せておけば遼くんも静かに眠れる、と言い方を変えた。そうすると、手を合わせているだけで、手を下ろさずに済むからね」

「祈っているふりをして、閉じ込めた」

お駒は否定しなかった。

「やさしさは、ときどき戸締まりの形をするよ」

その言葉が、胸へ刺さった。

私は覚え帳を開いた。紙に書かれた小松遼の四文字が、雨の明かりの中で濃く見える。まだ乾いていない墨が、わずかに光っていた。

「お駒さんは、今も遼くんに食べ物を置いているんですか」

「食べられる日にはね」

「お茶も?」

「子供は大人より舌が敏い。熱い茶は飲めないし、濃い茶は残す。ぬるくして、少し甘いものを添える」

「それは、迎えていることになりませんか」

「そうかもしれないねえ」

「なら、どうして帳簿には」

「帳簿に載せれば、宿はあの子の帰る場所になる。けれど、帰る場所になったものは、いつか送り出さなきゃならない。私たちは、その先を決められなかった」

「決めるのが怖かったんですね」

お駒は、しばらく私を見た。

「そうだよ」

今度の返事は早かった。

「怖かった。あの子を外へ返して、何も残らなかったらどうする。ここに置いたままなら、少なくとも足音は聞こえる。雨の夜には姿も見える。お駒さん、と呼ばれることはなくても、そこにいると分かる。人はねえ、死んだ者のためと言いながら、自分が失わずに済む形を選ぶことがあるのさ」

お駒の手が、茶碗の底を撫でた。

「私はあの子を置いた。信濃は記録を閉じた。湯守は祠の縄を結んだ。皆が少しずつ手を動かして、誰も最後の一歩を引き受けなかった」

「源一さんも?」

「源一は、その頃まだ子供だったよ。けれど、あの夜の足音を聞いたことはあるだろうねえ。湯守の家は、聞こえたものを聞こえないことにはできないから」

障子の向こうで、草履が板を叩いた。

一度。

私の肩が強張った。

お駒は振り返らなかった。代わりに、私の茶碗を指で少しだけこちらへ寄せた。

「飲みな。冷めるよ」

「遼くんが、外にいるかもしれません」

「廊下にいるねえ」

「呼んだ方がいいんでしょうか」

「呼びたいなら、呼べばいい」

「でも、源一さんは、名前を呼ぶなら帰す覚悟を持てと言いました」

「それは正しいよ」

「お駒さんは、送り出したいんですか。それとも、ここにいてほしいんですか」

お駒は目を閉じた。

その顔から、いつもの穏やかさが少しだけ抜け落ちた。そこにいたのは、六十年以上この宿で働き、何度も布団を敷き、何度も茶を淹れ、何度も誰かの帰りを待ってきたひとりの女だった。

「いてほしいと思ったことは、あるよ」

声が掠れた。

「雨の夜に足音がすると、ああ、まだいると思ってしまう。あの子がいなくなれば、私があの日、袖を掴まれたまま離れたことまで、本当に終わってしまう気がするからねえ」

「終わらせることは、忘れることではありません」

私は自分でも驚くほど、はっきり言った。

「名前を書き直して、いたことを残して、それから帰れる場所へ返す。そうすれば、終わったあとも、遼くんがいたことは消えないと思います」

「帰れる場所が、あるのかい」

「それを、確かめるんです」

「誰が」

「私が」

お駒の目が、私の覚え帳へ落ちた。

「ひとりで決めるのはおやめ」

「ひとりで決めるつもりはありません。信濃さんにも、源一さんにも、話します」

「それでも、最後に声を出すのは、あんたになるかもしれない」

「怖いです」

初めて、自分からそう言った。

「名前を呼んで、返事があったら、私はどうしていいか分かりません。呼ばなければ、ずっとここに残るかもしれない。でも、怖いから黙るのは、もう嫌です」

お駒は私を見た。

それから、盆の端に置かれていた小さな菓子を一つ取った。薄い焼き菓子だった。表面に砂糖がまばらにまぶされている。

「これを、廊下の角に置いておやり」

「今ですか」

「今夜は雨が強くなる。音が宿の中を歩く前に、食べられるものを置いておくといい」

「それで、遼くんが来るんですか」

「来るかどうかは、あの子が決めることだよ」

お駒は菓子を私の手のひらへ載せた。

温度はなかった。けれど、紙に包まれていたせいか、乾いた甘い匂いが残っている。

「食べ物を置くことと、迎えることは違うんじゃなかったんですか」

「違うよ」

「では、何が違うんですか」

「迎えると決めるのは、こちらだ。食べられるように置いておくのは、相手が来る余地を残すこと。あの子が自分で歩いてくるなら、そのときは戸を閉めないことだねえ」

私は菓子を両手で包んだ。

廊下へ出ると、空気がひやりと肌へ触れた。茶の匂いが背中から追ってくる。障子の外では雨が本降りになり、沢の音が宿の床下を揺らしていた。

角まで歩く。

廊下の板は湿っていた。私は足音を殺しながら進んだ。けれど、自分の足音を消そうとするほど、背後の音が大きく聞こえた。

一度。

間を置いて、もう一度。

振り返ると、誰もいない。

私は角の脇へ菓子を置いた。濡れないよう、壁際の乾いた板を選ぶ。そこは、少年がいつも立ち止まる場所だった。

「遼くん」

声を出す前に、一拍置いた。

「ここに置いておくね。食べたかったら、持っていって」

返事はなかった。

雨音だけが、屋根と窓と床下で重なっている。私はその場を離れようとした。

そのとき、角の向こうから、小さな影が伸びた。

足ではない。湯気のような白さが板を這い、菓子の包みへ近づいてくる。包み紙が、風もないのにかすかに震えた。

私は息を止めた。

白い浴衣の袖が、角の向こうから現れた。少年は姿を半分だけ見せている。片目と、濡れた髪、それから細い指先。指は菓子へ伸びたが、触れる寸前で止まった。

私は動かなかった。

少年は私の顔を見た。次に、覚え帳を見た。名前が書かれた頁を、まるでそこにある傷を確かめるように見つめている。

「持っていっていいよ」

言うと、少年の指が包み紙へ触れた。

紙が湿る音がした。

少年は菓子を抱え、落とさないように両手で包んだ。けれどすぐには食べず、廊下の奥、九番の間の方へ顔を向けた。

「まだ、帰れないの?」

尋ねると、少年は首を横に振った。

私は喉の奥が詰まるのを感じた。

「帰れない?」

今度は、少年は答えなかった。

代わりに、自分の胸元へ指を置き、それから廊下のさらに先を指した。九番の間ではない。宿の裏手、源泉と祠のある方角だった。

湯気が濃くなった。

少年の輪郭が薄れ、指先だけが最後まで残った。その指が、何も書かれていない頁をなぞるように空中を動く。

私は覚え帳を開いた。

小松遼の名の下に、震える字で書き足す。

帰れない。祠へ。

書き終えたとき、包み紙の擦れる音がした。

少年の姿は消えていた。

床には、砂糖の白い粒が三つ落ちている。菓子そのものはなくなっていた。けれど、濡れた足跡は九番の間へ向かわず、源泉のある裏口へ続いていた。

私はその跡を見下ろした。

お駒の茶は、もう冷めているはずだった。それでも舌の奥には、苦みのあとに残る淡い甘さがあった。私は手拭いを折り直し、覚え帳を胸へ抱えた。

雨の中で、宿はまた音を拾っていた。

今度の足音は、待っている音ではなかった。

どこかへ導くための、細い合図のように聞こえた。

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