第5話 雨が降ると、宿は音を拾う

雨の匂いが強くなった晩、私は浴場の脱衣棚を拭く役を任された。
夕方から降り始めた雨は、屋根を叩く音を絶やさなかった。細い雨ではない。山の上から一度に落ちてくるような重い音で、軒先の樋が受けきれない水を絶えず吐き出している。谷の向こうはすでに暗く、窓に映るのは、室内の灯りと、流れ落ちる雨の筋だけだった。
浴場へ入ると、湯気がいつもより低いところに溜まっていた。
天井へ昇るはずの白い蒸気が、脱衣所の床近くを這い、籠の脚や椅子の下へ入り込んでいる。熱いはずなのに、足元だけは冷たかった。木の床が湿りを吸い、足袋の裏へじっとり貼りついてくる。拭き布を絞ると、指の間からぬるい水が流れ、手首まで熱が伝わった。
棚。籠。椅子。床。廊下。
信濃に教えられた順番を、私は頭の中で繰り返した。
棚の上に残った水滴を拭き、脱衣籠の向きを揃える。籠の取っ手が一つだけ外側へ傾いていたので、私は手を止め、角度を確かめてから元へ戻した。昨日なら、すぐに直していた。けれど今は、信濃の言葉が身体の中に残っている。
傾きにも理由があります。
私は籠へ触れた指を離し、しばらくそれを見つめた。たった数センチの乱れが、誰かの動いた跡なのか、ただの偶然なのか、それさえ決められない。整って見えるものの裏側には、見えない手順がある。そう思うと、ここにあるすべての物が、私の知らない決まりに従って黙っているようだった。
拭き布を折り直した。
そのとき、九番の間の方から、子供の笑い声がした。
短い声だった。
くす、と息が弾んだだけのような笑い。けれど、誰かを見つけたときにこぼれる笑い方だった。私は布を持ったまま、身体を固くした。
次の瞬間、草履が板を叩いた。
一度。
間を置いて、もう一度。
濡れたものが、床の上を小さく押しつけるような音だった。軽いはずなのに、音だけが妙に深く、板の下まで落ちていく。
私は脱衣棚の前で息を止めた。
音のした方へ目を向ける。女湯の入口から二階へ続く廊下は、湯気で白く曇っていた。障子越しの灯りが水に沈んだように滲み、廊下の端と壁の境目が分からない。
障子が揺れた。
風ではない。
紙が外から押されたのではなく、内側から呼吸をするように、ふくらんでは戻っている。ふくらむたび、障子の桟の影が伸び、戻るたび、湯気の中へ沈んだ。
私は手拭いを握り直した。濡れた布の冷たさが、指の関節へ食い込む。
「遼くん?」
呼びかけると、廊下の奥で音が止まった。
返事はない。
けれど、止まったこと自体が返事のように思えた。
私は一歩、廊下へ出た。床の冷たさが足裏から上がってきた。浴場の熱気に包まれていた身体が、ほんの少しずつ外の冷えへ戻っていく。首筋にはまだ湯気の水滴が残っているのに、背中には薄い寒気が走った。
湯気の向こうに、誰かの肩が見えた気がした。
白い浴衣の肩。濡れた髪の黒さ。こちらを振り返る前の、ためらう姿勢。
私は足を止めた。
肩は動かなかった。代わりに、廊下の先から草履の音がした。
一度。
間。
もう一度。
少年は歩いているのではない。足を置くたび、そこがまだ自分を拒んでいないか確かめている。そんな音だった。
私は音を追いかけた。
廊下を曲がると、湯気が少し薄くなった。九番の間へ続く側廊下の障子が、雨の明かりを受けて白く浮いている。床板には水の筋があった。まだ足跡にはなっていない。ただ、何かが通ったあとだけ、木目の色が濃くなっている。
曲がり角の向こうから、人の気配が近づいてきた。
私は身構えた。
現れたのは、源一だった。
濃い色の作務衣の袖をまくり、手拭いで指先を拭いている。髪の生え際に細かな水滴が残っていた。源泉の見回りから戻ったのか、草履の底には黒い泥が薄く付着している。彼は私を見るより先に、廊下の端と、湯気の流れを見た。
「何か聞こえましたか」
私は尋ねた。
源一はすぐに答えなかった。視線を床へ落とし、指先を拭いていた手拭いを一度畳み直す。それから、廊下の奥へ顔を向けた。
「今日は湯が落ち着かない」
「湯、ですか」
「温度が三度下がった。流れも重い」
「それは、雨のせいでは」
「雨なら、いつも下がる。今日は下がり方が違う」
源一は湯気の向こうを見ていた。人の姿を探しているようにも、見ないようにしているようにも見えた。
「さっき、子供の笑い声がしました。九番の間の方から、草履の音も」
「そうですか」
「源一さんも聞いたんですか」
「聞いた」
「なら、どうして誰も何も言わないんです」
源一は手拭いを折り、濡れた面を内側へしまった。
「言うと、音が形を持つ」
「形を持つ?」
「口にしたものは、そこへ寄ってくる。名を呼べば、なおさらだ」
「でも、もうここにいます」
「いるものを、いると認めることと、こちらから呼ぶことは違う」
「その違いが、私には分かりません」
源一はようやく私を見た。目は黒く、雨の夜の石のようだった。冷たいのではない。熱を溜めたまま、表面だけが固くなっている。
「分からなくていい」
「分からないまま、何もしないのが正しいんですか」
「何もしないわけではない。湯を見て、流れを確かめて、縄を結び直す。床が濡れていれば拭く。水が溢れれば止める。見えないものに対しても、やることはある」
「それは、閉じ込めておくためですか」
源一の視線が、私の手拭いへ落ちた。
「何を」
「小松遼を」
その名を口にした瞬間、湯気が廊下の奥から押し寄せてきた。
白い蒸気が、床の上を一気に広がる。足首に触れた湯気は熱く、次の瞬間には冷たい水になって肌を濡らした。源一の背後の障子が、内側から叩かれたように揺れる。
源一は身じろぎしなかった。
ただ、袖口を直した。
「その名を、どこで聞いた」
「本人からです」
「本人が、そう言ったのか」
「そう聞こえました。九番の間の前で、胸を指していました。私は、間違えていないと思います」
「思うだけでは、足りない」
「では、何があれば足りるんですか。宿帳に書かれていれば? 夕食札に膳があれば? 誰かが大きな声で、この子はここにいると言えば、それで認められるんですか」
「記録は人を守る」
「信濃さんも、そう言いました」
「守る。だが、守るためのものが、いつも人を救うとは限らない」
源一の声は低かった。短い言葉なのに、雨音の下で妙に明瞭だった。
「湯も同じだ。熱ければ身体を温める。熱すぎれば傷める。冷えれば眠れない。だから測る。毎日、同じ場所で、同じやり方で。人の都合で今日は大丈夫だと思えば、次の日には湯の方が答えを変える」
「では、あの子は湯の答えなんですか」
「違う」
源一はすぐに否定した。
「人だ」
その一言が、廊下の空気をわずかに変えた。
源一は九番の間の方へ顔を向けたまま、ゆっくりと言葉を続けた。
「人だから、手順だけでは扱えない。だが、人だからこそ、感情だけで触れてはいけない。あの子を留めているものが何か、まだ全部は分からない。封を解けば帰れるとは限らない。逆に、封を固くすれば、静かになるとも限らない」
「それでも、聞こえた足音をなかったことにはできません」
「できないなら、どうする」
「確かめます」
「確かめて、何をする」
問いが返ってきた。
私は答えを持っていなかった。名前を呼べばいいと思っていた。帳簿へ書けばいいと思っていた。けれど、それだけで少年が帰れるのか、私は知らない。知らないまま、名前だけを手にしている。
「分かりません」
喉の奥が乾いた。
「分からないから、確かめたいんです」
源一は目を伏せた。廊下の端に溜まった水が、湯気を映して揺れている。
「それでいい」
「え?」

「分からないものを、分かったふりで動かすよりはいい」
源一は一歩、九番の間へ近づいた。扉の手前で足音を止める。いつもなら歩いている者が、そこだけは境目を測るように立ち止まった。
「だが、今夜は触れない方がいい」
「どうしてですか」
「雨が宿の中まで入っている」
源一は扉ではなく、その下の隙間を見た。
木札の下から、細い水が滲み出している。水は廊下の木目に沿って流れ、途中でいくつかに分かれていた。まるで指を広げた手のようだった。
「九番の間は、使わない部屋ではない」
「では、何の部屋なんですか」
「戻ってくる音を、置いておく部屋だ」
「音を?」
「昔の足音。呼ばれなかった声。閉めた戸の向こうに残ったもの。そういうものを、外へ出さないために使っている」
「それは、守っているとは言えません」
言葉が自然に出た。
「音を閉じ込めて、誰にも聞かせないなら、それは忘れるのと同じです」
「忘れるためではない」
「では、何のためですか」
源一は長いあいだ黙っていた。
雨が屋根を打ち、樋から水が落ちる。湯の流れる音と雨の音が混じり、どちらが建物の内側で、どちらが外側なのか分からなくなる。源一は祠のある方角へ一度だけ視線を向けた。
「忘れないためだ」
「閉じ込めておくことが?」
「外へ出せば、人はまた見ないふりをする。宿の外では、誰かの名前はすぐに別の音へ埋もれる。だから、ここに置いた。雨が降れば、音が戻る。戻れば、まだ忘れていないと分かる」
「それで、あの子はずっとここにいる」
「……そうだ」
短い返事だった。
その声の奥に、源一自身が長いあいだ同じ問いを抱えていたことが滲んでいた。封を守ることが、誰かを留めることと同じになっている。その矛盾を、彼は湯の温度や縄の結び目に隠して、毎日手入れしてきたのだろう。
「それなら、もう一度考え直すべきです」
「簡単に言うな」
「簡単ではありません。怖いです。扉の向こうに何があるか分からないし、名前を呼んだあと何が起きるかも分からない。でも、怖いからという理由で、ずっと誰かを置いておくのは違うと思います」
「お前は、この宿に来てまだ三日だ」
「三日でも、聞こえたものは聞こえたままです」
「ここで働く者は、聞こえないふりを覚える」
「私は覚えたくありません」
源一は私を見た。
その目に、わずかな苛立ちが浮かんだ。けれどそれは私への怒りというより、かつて自分が聞こえないふりをした何かへ向けられたものに思えた。
「覚えないなら、手を動かせ」
「何をすれば」
「浴場へ戻れ。脱衣所の床を拭く。客が来る前に、足を滑らせないようにする。湯温が下がっているから、勝手に水を足すな。私が見る」
「九番の間は」
「今夜は近づくな」
「源一さんは、行くんですか」
「行く」
「一人で?」
「一人で行く仕事だ」
「それで、何か変わるんですか」
源一は扉の木札へ手を伸ばした。触れずに、指先を数センチ手前で止める。湯気がその指を包み、輪郭をぼかした。
「変えるために行くわけではない。崩れていないか確かめる」
「崩れていたら?」
「結び直す」
「誰かが中にいるかもしれないのに」
「だから、触れない」
その言葉が、妙に重く響いた。
「触れなければ、傷つけないと思っているんですか」
「触れなければ、傷つける場所を増やさずに済む」
「でも、触れられないままの人は、ずっとそこに残ります」
源一の手が、木札の前で下がった。
しばらく、雨音だけが続いた。
やがて九番の間の中で、子供が板を踏んだ。
一度。
間を置いて、もう一度。
扉の下の水が、こちらへ伸びてくる。源一はそれを見下ろし、私の方へ半歩だけ身体を寄せた。止めるためではない。水の筋と私の足の間に、自分の草履を置くためだった。
「戻れ」
源一は扉へ向かって言った。
声は静かだった。
「今夜は、まだ戻れない」
扉の向こうから、笑い声がした。
今度は笑いではなかった。息が詰まる前にこぼれた、小さな声だった。
私は少年の名を呼びかけた。
けれど、源一の手が私の袖口を掴んだ。
強くはない。ただ、そこから先へ行けば、戻るための手順を失うという力がこもっていた。
「触れない方がいい」
「呼ぶだけです」
「名前は、触れるより深く届く」
「それでも――」
「呼ぶなら、帰す覚悟を持て」
源一は私を見ずに言った。
「ここへ呼び戻すだけなら、誰にでもできる。名前を口にすれば、音は寄ってくる。だが、寄ってきたものをどこへ返すかまで決められる者は少ない。お前は、あの子を帰す場所を知っているのか」
私は答えられなかった。
少年の足音が、扉の内側で止まった。
湯気が薄くなり、木札の文字が見えた。
使うな。
その二文字は、命令というより、誰かが自分自身へ言い聞かせた言葉のようだった。
源一が袖口から手を離した。
「浴場へ戻れ」
「源一さん」
「志乃」
初めて、名前を呼ばれた。
その呼び方には、信濃のような規則も、お駒のような柔らかさもなかった。ただ、ここにいる人間として確かめる響きがあった。
「音を聞いたなら、覚えておけ。今夜のことを、明日の仕事に持っていけ。だが、今すぐ答えを出すな」
「どうしてですか」
「雨の夜は、宿が音を拾う。拾った音は、朝になるまで元の場所へ戻らない」
源一はそれだけ言うと、九番の間の前に立った。
私は彼の背中を見ながら、浴場へ戻った。
廊下を歩くたび、足元の板が小さく鳴った。湯気が背後から追ってくる。熱い空気が首筋を濡らし、冷えた水滴が背中を細く流れた。
脱衣所へ戻ると、拭き布は棚の上に置いたままだった。
私はそれを手に取り、床へ膝をついた。濡れた板を端から拭いていく。水は布に吸われ、木目の中へ消えていった。けれど、九番の方角から聞こえる音までは消えなかった。
一度。
間。
もう一度。
草履が、誰かを待つように板を叩いている。
私は拭き布を止めずに、声には出さず、その音の主の名を心の中で繰り返した。
小松遼。
小松遼。
雨は夜更けまで降り続いた。
そして宿の中では、誰も歩いていないはずの廊下が、何度も小さく軋んでいた。
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