4話 空欄の縁

古い帳面へ手を伸ばした指先が、綴じ糸に触れた。

紙は乾いているように見えた。けれど触れた瞬間、冷たい湿りが指の腹へ移ってきた。水に濡れた紙の冷たさではない。長いあいだ光の届かない場所に置かれていたものだけが持つ、体温を拒むような冷えだった。

私は引き出しを、音のしないよう少しずつ開いた。

帳面の束は三つあった。いちばん上には、表紙の角が擦れた年度別の宿帳。その下に夕食の記録、さらに古い客室の修繕記録が重なっている。どれも墨の匂いを含んでいたが、束の底にある帳面だけは、紙そのものから湿った土のような臭いがした。

廊下の奥で、板が一枚鳴った。

私は手を止めた。

信濃の足音ではない。信濃は歩くとき、床のどこへ体重を置くかまで決めているような音を立てる。今の音は、置いた足をすぐに引く音だった。そこにいてよいか確かめるような、短い軋み。

私は振り返らず、帳面を一冊だけ引き出した。

表紙には、かすれた筆跡で「昭和四十七年 秋」とあった。年代を見ても、私には遠い昔としか思えない。けれど、帳面の角に挟まっていた小さな紙片を見たとき、胸の奥が急に狭くなった。

紙片には、部屋番号だけが書かれていた。

九。

墨は水を含んでにじみ、紙の端には乾いた泥がこびりついている。私はそれを覚え帳のあいだへ挟み、帳面を膝の上に置いた。

頁を開く。

古い客の名前が、日付の順に並んでいた。住所、人数、食事の数、入湯の有無。今の宿帳より欄が少なく、文字も大きい。何人もの筆跡が重なっているのに、行の間隔だけは几帳面に揃っていた。

記録は、人が泊まった順番に続いていた。

九月二十一日。晴れ。

二十二日。曇り。

二十三日。雨。

その日の頁だけ、右端が波打っていた。紙をめくると、墨がところどころ滲んでいる。雨漏りでもしたのかと思ったが、濡れた範囲は一つの行に沿って細長く続いていた。

宿泊者の欄に、四人の名前がある。

大人が三人。子供が一人。

子供の名だけが、白く削られていた。

爪でこそげたような傷が、紙の繊維を逆立てている。完全に消すなら、もっと深く削ることもできたはずだ。けれど削った人は、途中で手を止めていた。消したいのに、消しきれない。あるいは、消してしまうことを恐れたのかもしれない。

私は頁を傾けた。

薄い墨の跡が、削られた縁にわずかに残っている。ひらがなのような曲線。漢字の払い。指先で紙を撫でると、そこだけがわずかに凹んでいた。

小松。

そう読めた。

私は息を止めた。

もう一度、前後の行を確認する。上の欄には父親らしい名前があり、下には母親らしい名前がある。子供の年齢を書く欄だけが空白だった。夕食の欄には、大人三人分の膳と、子供用の小さな膳が一つ。湯の欄には、四人分の印が押されている。

いる。

この帳面の中には、確かにその子がいた。

それなのに、名前だけが抜け落ちている。

削られた箇所の下に、別の筆跡で小さな印があった。帳場の確認印ではない。朱ではなく、煤を混ぜたような黒い丸だった。丸の中心に、針の先ほどの白い点が残っている。

その白い点を見つめていると、背後で紙を閉じる音がした。

「そこまでです」

信濃が立っていた。

私は振り向いた。いつからいたのか分からない。帳場の灯りが眼鏡に反射し、目元が見えなかった。彼は私の顔ではなく、開かれた頁を見ていた。

「すみません」

反射的に謝ったが、帳面を閉じることはできなかった。

「謝る必要はありません。戻してください」

「この子の名前が、削られています」

「古い記録です」

「名前が削られていることを、古いというだけで済ませるんですか」

「済ませているのではありません。扱いを決めているのです」

信濃は朱塗りの机の前まで来ると、頁の角に指を添えた。私から帳面を奪うことはしなかった。ただ、指先を紙の端へ置いた。その姿勢は、記録を読むというより、崩れかけたものを押さえているように見えた。

「帳面は事実を残します。事実を残すからこそ、読む者が勝手に意味を足してはいけない」

「でも、ここには子供がいた」

「宿帳にそう書かれているなら、そうでしょう」

「名前はありません」

「書かれていないものを、書かれていることにはできません」

「それなら、この子は誰なんですか」

信濃の指が止まった。

帳場の外では、沢の水音がしていた。雨は降っていないのに、谷の奥から湿った風が入り込み、机の上の紙を一枚だけ揺らした。

「志乃さん。あなたは記録を大事にすると言っていましたね」

「はい」

「ならば、記録の外にあるものを、あなたの感じたまま書き足してはいけない。帳簿は願いを書く場所ではありません」

「願いではありません。目の前にいるものを、目の前にいるものとして扱いたいだけです」

「目の前にいるものが、誰にとっても同じものだとは限らない」

「それは、見た人が違うからですか」

「見た時刻が違う。見た場所が違う。見たあとに何をしたかも違う。記録というのは、そういう違いを削って、宿の中で扱える形にするものです」

「削るんですね」

自分の声が、思ったより硬くなった。

「人を、扱える形にするために」

「そうしなければ、宿は回りません」

「回すために、こぼれた人を置いていくことも?」

信濃は答えなかった。

沈黙が長くなるほど、帳面の削り跡が目に焼きついていく。誰かがここに名前を書いた。別の誰かが、それを消した。消したあとも紙の中には凹みが残り、削られた文字の影だけが、時間を越えて戻ってきている。

「この子は、今も宿にいます」

私は頁から目を離さずに言った。

「湯気の中に現れる。濡れた足跡を残す。九番の前へ行く。私は名前を聞きました」

「聞いたのですか」

信濃の声が初めてわずかに揺れた。

「小松遼、と」

名前を口にした瞬間、帳場の奥で何かが落ちた。

紙ではない。木のような、軽い音だった。

信濃は振り返らなかった。けれど眼鏡の奥で、目がわずかに細くなった。

「その名を、どこで」

「九番の間の前です。少年が自分の胸を指して、そう言いました。私には、そう聞こえました」

「聞こえた、だけですか」

「あなたは、聞こえたものをなかったことにするんですか」

「私は、聞こえたものを記録に移す前に、確かめます」

「確かめるために、消したんですか」

信濃の顔から薄い笑みが消えた。

私は初めて、その人の表情が変わるところを見た。怒りではない。もっと深いところで、何かを閉じたままにしておく力が軋んだようだった。

「私が消したとは言っていません」

「では、誰が」

「誰が消したかを知ることが、あなたの仕事ですか」

「目の前の客を、存在しないことにしないのが私の仕事です」

「その子は客ではありません」

「なら、何ですか」

信濃は答えなかった。

私は帳面の削り跡へ指を置いた。紙の凹みが指先に触れる。文字をなぞっているのに、触れているのは名前ではなく、名前を消そうとした人の手の迷いだった。

そのとき、帳場の横の廊下で、小さな足音がした。

一度。

間を置いて、もう一度。

信濃の指が頁の上から離れた。

私は顔を上げた。廊下には湯気が流れている。浴場から来たものにしては冷たく、床の低いところを這うように薄い白さが溜まっていた。

湯気の向こうに、少年がいた。

青い格子の浴衣。濡れた裾。片手には、あの古びた紐。少年は信濃を見ていた。私を見るときのように手元を確かめることはしない。ただ、信濃の顔を見上げている。

信濃も少年を見ていた。

互いのあいだに、声のない時間が流れた。

「……遼」

信濃の口から、名前がこぼれた。

少年の肩が大きく震えた。

信濃はすぐに目を伏せ、帳面を閉じた。けれど閉じる手つきは、いつものように紙の端を揃えなかった。頁が一枚、わずかに外へはみ出している。

「信濃さん」

「今日はもう戻りなさい」

「今、名前を呼びましたよね」

「聞き間違いです」

「私は聞きました」

「聞き間違いです」

「では、なぜあの子は――」

「志乃さん」

声は大きくなかった。大きくないのに、帳場の空気が一度で固まった。

「宿には、聞かない方がいいことがあります。聞かないことは、忘れることとは違う。忘れないために、口を閉じる場合もある」

「でも、口を閉じたままでは、その子はずっとここにいる」

「だから、余計なことをしないでください」

「余計なことではありません」

私は帳面を胸元へ引き寄せた。

「名前を削ったままにすることが、宿を守ることなら、私はこの宿の守り方を信じられません」

信濃の視線が、初めて私の手元へ落ちた。帳面を抱える私の指が震えている。怖い。けれど、ここで返せば、少年の名前もまた、削り跡の中へ戻ってしまう気がした。

「返してください」

「返します」

「今すぐに」

「ただし、その前に写させてください」

信濃の眉がわずかに動いた。

「何をするつもりです」

「名前を覚えておくためです。書き写すだけなら、帳簿を書き換えることにはなりません」

「記録は一つであるべきです」

「人の記憶は一つではありません。書かれているものが消されても、見た人間が覚えていれば、全部が消えるわけではない」

「覚えていることは、記録ではありません」

「それでも、何もないよりは重いです」

信濃は黙った。

湯気の向こうで、少年の姿が薄く揺れている。彼は私たちの言葉を理解しているのか、ただ音だけを聞いているのか分からない。けれど、名前が出るたびに、目元の緊張が少しずつほどけていく。

私は覚え帳を開いた。

紙の端を折っていた頁に、筆記具を走らせる。

小松遼。

四文字を書いただけなのに、墨が紙へ沈むまでに時間がかかった。最後の「遼」の字を書くと、帳場の空気がかすかに温んだ。濡れた木の匂いの奥から、炊きたての飯に似た、淡い甘い匂いがした。

少年が一歩、こちらへ近づいた。

足音はしなかった。

代わりに、閉じた古い宿帳の表紙へ、濡れた指の跡が一つ増えた。

信濃はそれを見ていた。見ているのに、手を伸ばさなかった。

「それを、どこへ持っていくつもりですか」

「まだ分かりません」

「分からないまま持つのは危険です」

「分からないから、持っているんです」

信濃は長く息を吐いた。吐いた息が、眼鏡の内側をわずかに曇らせる。

「今夜、雨が来ます」

「雨が?」

「谷の雲が低い。九番の間の音が増えるでしょう」

「何が起きるんですか」

「起きるのではありません。戻ってくるんです」

その言葉の意味を問う前に、帳場の奥から草履の音がした。

一度。

間を置いて、もう一度。

今度は近かった。

少年は廊下の角を見た。そこには九番へ続く階段がある。彼は私の覚え帳を見て、それから階段へ歩き出した。濡れた跡が、足元から細く伸びる。

私は反射的に立ち上がった。

「志乃さん」

信濃の声が背中へ刺さった。

私は足を止めた。

「勝手に動かないこと、ではありませんでしたか」

「ええ」

「それでも行くんですか」

私は覚え帳を閉じ、紙の端を指で押さえた。名前を書いたばかりの頁が、まだ乾いていない。

「今度は、戻すものがあるので」

信濃は答えなかった。

少年の足跡は、帳場から階段へ続いている。濡れた板の上で、ひとつひとつが淡く光っていた。私はその跡を追い、廊下の角を曲がった。

背後で、信濃が古い宿帳を閉じる音がした。

けれど今度は、紙の端を揃える音がしなかった。

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