3話 濡れた足跡の行き先

翌日の昼過ぎ、雨は一度上がった。

谷の底に溜まっていた白い霧が、屋根の高さまでゆっくり昇っていく。瑞雲楼の裏手にある沢は、昨夜より水かさを増していた。流れの音が床下から響き、建物そのものが遠い水の中に浮かんでいるように感じられる。

私は二階の六番の間へ膳を運んだ。

客は老夫婦だった。奥さんは膝が悪いらしく、座布団を少し厚くしてほしいと頼んだ。私は押し入れから予備の座布団を出し、畳の縁にかからないよう位置を整えた。旦那さんは窓の外を見ながら、明日の峠道の具合を信濃に尋ねていた。

「朝には通れるでしょうかね」

「雨量次第です。帳場で確認しておきます」

信濃が答える声が、廊下の向こうから聞こえた。私は膳の置き場所を決め、湯飲みの向きを揃えた。仕事は昨日より少しだけ速くなった。けれど手順を覚えるほど、手順から外れたものが目につくようになった。

廊下の突き当たりに、少年がいた。

障子と壁の角に背を寄せ、こちらを見ている。客室の前を歩くときは、姿が薄い。湯気の中で見たときよりも、輪郭が乾いていた。

私は膳を置き終えるまで、少年から目を離さなかった。

客に挨拶をし、襖を閉める。向き直ると、少年はまだそこにいた。

「待っていたの?」

声をかけると、少年はすぐに笑わなかった。まず私の手元を見た。膳を運んできた手、袖口、そこに掛けられた小さな覚え帳。それから、私の顔へ目を戻す。

返事の前に、一拍の沈黙があった。

「お腹、すいてる?」

少年は首を傾けた。肯定とも否定ともつかない仕草だった。

「昨日は、少し食べたでしょう」

私がそう言うと、少年の目元だけが緩んだ。笑い声は立てない。笑うことを、誰かに許されるかどうか確かめているようだった。

「今日は、何を食べたの」

少年は廊下の先へ視線をやった。そこには配膳口へ続く角がある。私はその方向を見て、また少年を見る。

「こっち?」

少年は一歩だけ動いた。

草履の底が、板をかすかに擦った。濡れているようには見えないのに、歩いたあとに薄い水の跡が残った。私は後ろからついていった。

配膳口の脇には、客へ出す膳のほかに、まかない用の小さな器が並んでいた。煮物の残りと、崩れた豆腐、それに朝の飯を握った小さな塩むすびが二つある。私はそのうち一つを手に取り、少年へ差し出した。

少年はすぐには受け取らなかった。

「ここに置いておくね。食べたくなったら、食べていいよ」

器を廊下の端へ置く。少年は私の顔を見たまま、手を伸ばした。落とさないようにではなく、どこかへ置いていかないように、両手でそっと塩むすびを抱えた。

「名前は?」

問いかけた瞬間、少年の指が止まった。

濡れた紙を握ったように、塩むすびの海苔が少しだけ歪む。少年は私の顔を見て、それから廊下の角を見た。誰かが来るのを待つような視線だった。

「言いたくないなら、無理に言わなくていい」

私は声を落とした。

「でも、私は志乃。志乃っていうの。覚えておいて」

少年の唇が動いた。

「……しの」

声はひどく小さく、湯気の切れ端のようだった。

「そう。志乃」

「しの」

もう一度繰り返すと、少年は頷いた。自分の名を言うかわりに、私の名を確かめているようだった。

「あなたの名前も、いつか教えて」

少年は答えなかった。塩むすびを抱えたまま、廊下の奥へ歩いていく。曲がり角の手前で立ち止まり、こちらを振り返った。その場所に立つと、急に姿が濃くなった。

そこには、何かを待つための空白があった。

少年は角の向こうへ消えた。

しばらくして、廊下に塩むすびの包み紙だけが残っているのを見つけた。飯粒は一つも付いていなかった。

夜、洗い場から戻る途中、私は二階の奥へ向かう廊下に出た。

見回りの順番は、一階の浴場、二階の客室前、帳場の確認だった。九番の間を避ければ、何も問題はない。手控えにも、そう書いてある。

けれど、二階の奥から雨の匂いが流れてきた。

外の雨はまだ降っていない。窓も閉じている。それなのに、廊下の空気だけが湿っていた。濡れた土と、古い木の匂い。遠くで沢が鳴っている。

九番の間の前に、煤けた木札が掛かっていた。

使うな。

文字は墨が潰れ、端の方が黒く膨らんでいる。札の下には、細い水の筋が一本、床へ落ちていた。天井から漏れたのかと思って見上げたが、板は乾いている。

扉の向こうで、何かが動いた。

す、と布が擦れる音。

私は足を止めた。

「誰か、いるの?」

言ってから、返事を期待してはいけないと思った。ここには客はいない。信濃にも、扉の確認はするなと言われている。

それでも、扉の向こうから小さな笑い声がした。

声というより、息が弾んだ音だった。子供が、誰かの顔を見つけたときに漏らすような、短い笑い。

続いて、草履が板を叩いた。

一度。

間を置いて、もう一度。

音は扉の内側から聞こえた。私は木札に手を伸ばしかけたが、指先は札の手前で止まった。墨の匂いがした。濡れた紙と、煤けた布を煮たような匂いだった。

「そこにいるの?」

返事はない。

代わりに、扉の下から水が滲み出した。

細い筋がこちらへ伸び、板の木目に沿って流れてくる。足跡ではない。ただの水に見えた。けれど水の先端は、私の足元で二つに分かれ、子供の足の形に近い輪郭を作った。

私は息を止めた。

すぐ後ろで、板が鳴った。

振り返ると、少年が立っていた。

いつからいたのか分からない。青い格子の浴衣は乾いているのに、裾だけが濡れていた。手にはあの古びた紐を握っている。少年は九番の扉を見ていなかった。私の後ろ、廊下の向こうを見つめている。

「ここ、入ってはいけないの?」

少年はしばらく黙った。

やがて、首を横に振る。

「入らない?」

今度は、縦に動かした。

入ってはいけないのか。入らないのか。どちらなのか分からない。少年は扉の前まで歩き、木札へ指を伸ばした。けれど触れる前に、指を引っ込めた。

その仕草を見て、私は胸の奥が締まるのを感じた。

触れたいのに、触れてはいけないと覚えさせられた手だった。

「中に、何があるの」

少年は扉の向こうを見た。

「……りょう」

私は聞き間違いかと思った。

「今、何て言ったの?」

少年は答えなかった。代わりに、自分の胸元へ手を置き、そこを指先で二度叩いた。

りょう。

そう聞こえた気がした。

「遼、なの?」

少年の顔から、笑いが消えた。

廊下の空気が急に冷えた。湯場から離れているのに、皮膚が湯気に濡れたようにべたつく。少年の輪郭が薄くなり、九番の扉の木目と重なっていく。

「小松……遼?」

名前を口にした瞬間、扉の内側で何かが強く擦れた。

少年の肩が跳ねた。

それは喜びではなかった。怯えでもない。呼ばれることを待ち続けた身体が、呼ばれたことを信じてよいのか迷っているような震えだった。

「遼くん」

私はもう一度呼んだ。

少年は、初めてはっきり私を見た。

目だけが、子供のものではないほど深く沈んでいた。

廊下の奥で、信濃の足音がした。

私はとっさに一歩下がった。少年の姿は消えていた。扉の前には、水の跡だけが残っている。細い足跡が二つ、九番の間から廊下へ出て、私の足元を通り過ぎ、階段の方へ続いていた。

信濃が角を曲がってくる。

私は足跡を見た。信濃も見たはずなのに、何も言わなかった。

「何をしているんです」

「見回りです」

「九番の前で?」

「足音がしたので」

信濃は木札へ視線を向けた。表情は変わらない。ただ、いつも揃っている袖口が、わずかに乱れていた。

「音は、聞かなかったことにしてください」

「それで済むんですか」

「済ませるために、ここではそうしている」

「でも、足跡があります」

「明日の朝には消えます」

「消えるまで、誰も触らないんですか」

信濃の薄い笑みが、ほんの少しだけ歪んだ。

「触らないのではありません。触れないようにしているんです」

「違いが分かりません」

「触れれば、こちらも触られる。あなたはまだ、この宿で何を守っているのか知らない」

「守っているのは、宿ですか。それとも、何かを閉じ込めているんですか」

信濃はすぐに答えなかった。

雨が降り始めた。屋根を叩く音が、遠くから近づいてくる。九番の扉の向こうで、子供の草履が一度だけ鳴った。

信濃は扉を見たまま言った。

「志乃さん。名前を呼ぶことは、戸を開けることより重い場合があります。呼んだ名前が、どこへ帰るものか分からないうちは、呼ばない方がいい」

「では、名前を消しておけばいいんですか」

「消したのではありません」

「同じです」

私の声が廊下に響いた。

「書かれていないものを、いないことにするのも、消したことと同じです。名前を呼ばないまま、そこにいるものだけを閉じ込めておくのは、守っているとは言えません」

信濃は私を見た。

怒ってはいなかった。むしろ、私の言葉が届いてしまったことを隠そうとしている顔だった。

「あなたは、何も知らない」

「知りません。だから、見たものを見たままにしておけないんです」

「知らないまま手を出すのは、正しさではありません」

「見て見ぬふりをするのが正しさなら、私はそれを覚えたくありません」

信濃の沈黙は長かった。

雨音が強くなる。廊下の窓が震え、障子の桟に細かな影が走った。信濃はやがて木札の下へ手を伸ばした。触れはしない。ただ、水の筋を避けるようにして、札の位置を確かめる。

「明日の朝、帳場へ来なさい」

「何をするんですか」

「掃除の手順を教えます」

「九番の間の?」

「その先を知りたいなら、まず宿の手順を知ることです」

信濃はそれだけ言い、先に廊下を戻っていった。

私は足跡の前に残された。

水の跡は、階段へ向かっていた。私は追わなかった。追えば、少年が望んでいるのか、それともまた置いていかれるのか、分からなくなりそうだった。

翌朝、雨は止んでいた。

廊下を掃き清めるため、私はいつもより早く起きた。窓の外では、谷から上がる霧が木々の間を這っている。板廊下は冷えていた。昨夜の湿気が抜けきらず、裸足で触れれば冷たさが骨まで届きそうだった。

九番の間へ続く廊下には、濡れた足跡が一列だけ残っていた。

浴場からではない。

九番の扉の前から始まり、階段を避け、廊下の中央をまっすぐ進んでいる。小さな右足の跡が浅く、間隔は長い。角の手前で、足跡は一度途切れていた。

そこから先には、何もない。

私は雑巾を手にしたまま立ち尽くした。水滴が板の上で光っている。窓から差し込んだ朝の明かりが、足跡のひとつひとつに薄い輪郭を与えていた。

拭かなければならない。

客が滑る。宿の仕事としては、それが正しい。

けれど、雑巾を一度押し当てれば、この跡は消える。消えたあとで、私は少年の姿を思い出せるだろうか。湯気の向こうで目だけをやわらげた顔を、返事の前の一拍を、濡れていない床に残った水の冷たさを。

私は屈み、足跡のひとつへ指を近づけた。

水は冷たかった。

それなのに、指先の奥には、湯の熱が残った。

掃除道具を持ったお駒が、廊下の端に立っていた。いつからいたのか分からない。彼女は足跡を見ても驚かず、私の手元だけを見た。

「拭かないのかい」

「拭いた方がいいですか」

「客が通るならねえ」

「この跡は、どこへ行ったんでしょう」

お駒は足跡の途切れた角を見た。

「行けなかったのかもしれないねえ」

「九番の間から出てきたのに?」

「出てきたから、帰れるとは限らないよ」

「お駒さんは、あの子の名前を知っているんですか」

お駒はすぐに答えなかった。腰を曲げ、掃き箒の先で板の目をなぞる。足跡には触れず、周りの埃だけを静かに集めていく。

「名前を知っている人が、呼べるとは限らない」

「でも、私は聞きました。小松遼、と」

お駒の箒が止まった。

ほんの一瞬だった。それでも、昨日から何度も見てきた沈黙の中で、いちばん深い沈黙だった。

「そうかい」

「違うんですか」

「違わないよ」

「では、なぜ誰も、そう言わないんですか」

お駒は顔を上げた。薄い朝の光が、皺の間に溜まっている。

「呼んだら、返事をするからさ」

その言葉の意味を、私はすぐには理解できなかった。

お駒は箒を壁へ立てかけ、濡れた足跡の手前にしゃがんだ。

「返事をされたら、聞いた側は手を止められない。何があったのか、どこにいたのか、どうして帰れないのか。ひとつ聞けば、次を聞くことになる。聞いたら、世話をしなきゃならない。世話をしたら、帰すのか、置くのか、決めなきゃならない。人はねえ、決めるのが怖いとき、聞こえなかったふりをするんだよ」

「それで、あの子をここに置いておくんですか」

「置いたのか、置かれたのか。もう、誰にも分からない」

「分からないままにしていいことではないでしょう」

「そうだねえ」

お駒の声は静かだった。

「だから、あんたが来たのかもしれないねえ」

私はその言葉を否定しようとした。けれど、否定するには、目の前の足跡があまりにも確かだった。

お駒は雑巾を私へ差し出した。

「拭くなら、跡を消すつもりで拭きな。残したいと思いながら拭くと、板にも手にも、余計なものが残るから」

「拭きたくありません」

「そうかい」

「でも、ここは宿です。誰かが滑るかもしれない。仕事としては、拭かなければいけない」

「それなら、仕事として拭けばいい」

私は雑巾を受け取った。

お駒は、私の背中を押すように、ほんの少し手を添えた。

「名前まで拭わなければ、それでいいよ」

私は足跡の脇へ雑巾を置いた。

跡の形を避け、板の乾いたところから拭き始める。水は布へ吸われ、木目の中から消えていった。最後に一つだけ残った足跡へ、私は手を伸ばした。

「小松遼」

声に出すと、廊下の奥で障子が揺れた。

誰もいない角の向こうから、草履が板を叩いた。

一度。

間を置いて、もう一度。

私は雑巾を止めた。

足音は九番の間へ戻らなかった。階段にも向かわなかった。ただ、角の向こうで、こちらの返事を待つように消えずにいた。

宿の朝は、いつものように始まっていた。帳場では紙を揃える音がし、厨房から味噌汁の匂いが流れてくる。客室では布団を上げる物音がする。誰もがそれぞれの仕事へ戻っていく。

その日、私は足跡を拭き取った。

けれど、角の向こうに残った小さな音だけは、拭うことができなかった。

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