2話 湯気の向こうの肩

浴場へ向かう廊下に入ると、空気の温度が一段上がった。

それまで肌にまとわりついていた山の冷えが、背中からゆっくり剥がれていく。代わりに、濡れた木と古い石、それから鉄に似た湯の匂いが鼻の奥へ入り込んできた。廊下の先には女湯の赤い札が掛かっている。札の向こうから流れてくる湯気が障子の灯りをぼかし、白い膜のように床を這っていた。

私は手拭いを持ち直し、足音を殺して進んだ。

初日の仕事は、客の少ない時間に浴場と湯上がり廊下を見回ることだった。脱衣棚の乱れ、床の水気、忘れ物の有無を確かめる。信濃から渡された手控えには、確認する順番まで細かく書かれていた。

棚。籠。椅子。床。廊下。

覚えた順番を頭の中で繰り返しながら、私は脱衣所の入口で立ち止まった。湯気が濃い。さっき信濃に教えられたときより、白さが増しているように見える。天井近くへ昇るはずの蒸気が、今日は低いところに溜まっていた。

私は息を浅くした。

湯気の中では、物の輪郭が少し遅れて目に届く。棚の角も、障子の桟も、そこにあると分かってから形になる。熱が目の前のものを溶かし、見えるものと見えないものの境目を薄くしているようだった。

拭き布を濡らし、棚の上を順に拭いていく。木肌は熱を含んでしっとりしていた。布を返すたび、指の間に湯のぬるい感触が残る。脱衣籠を一つずつ揃え、忘れ物がないことを確かめ、最後に床へ目を落とした。

そこに、水音がした。

ぱしゃ、と小さく湯が跳ねる音だった。

私は手を止めた。

浴場の奥から聞こえた。客がまだ残っているのかもしれない。そう思ってから、いや、と身体のほうが否定した。人が湯船から上がった音なら、続いて衣擦れか、桶を置く音がする。けれど聞こえたのは水の音だけだった。

もう一度、ぱしゃ、と鳴った。

湯気の向こうで、白いものが動いた。

肩だった。

大人の肩ではない。小さな肩が、浴衣の白い布に包まれている。少年が湯気の切れ目に立っていた。

濡れた髪が額に張りついている。帯は少しゆるく、片方の手には古びた紐を握っていた。浴衣の柄は細かな青い格子だったが、湯気がその色をぼかしている。少年は私を見た。すぐに笑うのではなく、先に私の手元を見た。手拭い、札、濡れた床。それから胸元の名札へ視線を移した。

確かめている。

私が誰なのかではなく、自分を見ているのかどうかを。

「……お客様?」

声が、自分で思っていたより小さくなった。

少年は返事をしなかった。首を傾けるでもなく、逃げるでもなく、ただ一拍だけ黙っていた。その沈黙が、返事の代わりのように思えた。

私は一歩進んだ。

熱気が頬を濡らした。湯気が肌に触れ、すぐに水へ変わって首筋を流れていく。足袋の底には、板の冷たさが残っていた。熱い空気と冷たい床のあいだに立っていると、身体の片側だけが別の場所に置かれているようだった。

「お名前を……」

そこまで言ったとき、少年の目がわずかに揺れた。

湯気が厚くなった。

白い蒸気が二人の間へ滑り込み、少年の顔を隠す。私は反射的に息を止めた。見失ってはいけないと思った。見失えば、最初から誰もいなかったことになる気がした。

手を伸ばしかけた。

けれど指先が触れたのは、湿った空気だけだった。

少年の姿は消えていた。

浴場の奥から廊下へ、小さな濡れた足跡が続いている。二つ、三つ、四つ。水滴はまだ乾いていない。右足の跡だけが少し浅く、つま先を引きずったように細く伸びている。歩みと歩みの間隔も、子供にしては妙に長かった。

次に足を置いてもよい場所かどうか、毎回確かめながら歩いたような跡だった。

私は足跡を追った。

廊下の角を曲がると、湯気は急に薄くなった。障子の向こうに客室の灯りが浮かび、床板は乾いている。けれど足跡だけが、そこに人がいた証拠のように濃く光っていた。

曲がり角の先には誰もいなかった。

障子は閉まり、部屋札も揺れていない。廊下の先には裏階段へ続く暗がりがあるが、そこへ向かう足跡は途中で消えていた。乾いた板が水気を吸い取ったのか、それとも、足跡を残す必要がなくなったのか、私には分からなかった。

「志乃さん」

背後から声がした。

振り返ると、信濃が浴場の入口に立っていた。いつからそこにいたのか分からない。濃紺の作務衣には湯気の湿りもなく、眼鏡の奥の目だけが床の足跡を見ている。

「今、子供がいました」

「そうですか」

信濃は驚かなかった。

そのことが、足跡よりも怖かった。

「浴場の中に、七歳くらいの男の子が。浴衣を着ていて、髪が濡れていて、それで――」

「客室へ戻ってください」

「でも、子供客の札がありません」

「夕食札を確認すれば分かります」

「足跡があります。今も残っています。誰かが歩いた跡なら、確認をしないと」

「確認は私がします」

信濃はそこで初めて私の顔を見た。薄い笑みが浮かんでいる。けれどその笑みは、戸を閉めるときに手を添えるのと同じ、静かな動作に見えた。

「志乃さん。あなたは今日、ここへ来たばかりです。初日に覚えるべきことは、見えたものを追いかけることではありません。見えたものを、決められた場所へ戻すことです」

「戻す、というのは……」

「帳簿にない客を、あなたの判断で客にしない。札のない部屋へ案内しない。食事の数を勝手に増やさない。そういうことです」

信濃の声は穏やかだった。穏やかだから、反論の入り込む隙がなかった。

「では、あの子は」

喉が乾いた。湯気を吸い込んだはずなのに、胸の内側だけが冷えている。

「いないことにするんですか」

信濃の指が、作務衣の袖口で止まった。

長い沈黙が落ちた。遠くで源泉が流れている。壁の向こうから、細い水音が絶えず続いていた。

「あなたが判断することではありません」

「でも、私は見ました」

「見たことと、宿が迎えたことは違います」

「それなら、見た人間はどうすればいいんですか。見なかったことにして、仕事へ戻ればいいんですか」

「仕事へ戻ることが、見なかったことになるとは限りません」

信濃はそう言って、廊下の端に置かれた雑巾を取った。湿った布を私に差し出す。

「床が濡れています。誰が歩いたかを確かめるより、客が滑らないようにする。それが今のあなたの仕事です」

正しい言葉だった。

私は雑巾を受け取った。布は冷たく、指の節へ水が染みた。

足跡を拭く。

そう思ったのに、手が動かなかった。

小さな跡が、板の上に並んでいる。ひとつずつが、そこにいた時間を抱えているように見えた。拭き取れば、床は整う。宿の仕事としては、それが正しい。けれどその正しさは、少年の存在を水と一緒に板の中へ押し込むことと、どこか似ていた。

「雑巾を置いて、夕食札を見なさい」

信濃はそれだけ言い、帳場の方へ戻っていった。

私はしばらくその背中を見送った。

廊下には、湯気の薄い残り香と、濡れた木の匂いが漂っていた。私は足跡を避けて歩き、帳場へ戻った。

夕食札を一枚ずつ並べる。部屋番号、人数、膳の種類。二人、三人、四人。子供用の膳はない。宿帳にも、少年の名は見当たらない。

最後の札の角に、水滴が一つついていた。

指で触れると、紙は柔らかくふやけていた。誰かが濡れた手で触れた跡だった。

私は札を拭かず、そのまま元の位置へ戻した。

夕食の片づけが終わった頃、お駒が茶を運んできた。腰は少し曲がっているのに歩みは軽く、盆の上の茶碗はほとんど揺れなかった。彼女は私の向かいへ座ると、湯飲みを半歩だけずらして置いた。

「初日は疲れるねえ」

「はい」

「足が冷えてる。湯場の廊下は、慣れないと骨まで冷えるよ」

「お駒さんは、あの廊下を怖くないんですか」

訊いてから、私は自分の言葉が幼く聞こえた。

お駒は笑わなかった。茶筒の蓋を閉め、指先で蓋の縁を一周なぞった。

「怖いかどうかは、歩いてるときには考えないねえ。転ばないようにする。火を消さないようにする。客の布団が濡れていないか見る。怖がるのは、手が空いてからでいい」

「子供を見ました」

「そうかい」

「帳簿にはいません。夕食札にもいませんでした」

「昔からいる子だよ」

「昔から、というのは、いつからですか」

お駒は茶を注いだ。細い湯気が立ち、彼女の顔の下半分を隠す。

「昔からさ」

「それでは分かりません」

「分からないことを、分からないまま置いておくのも仕事だよ」

「でも、名前がありません」

「名前がないからって、目の前から消えるわけじゃない」

「では、どう扱えばいいんですか。客でもない。従業員でもない。帳簿にも書かれていない。それなのに、湯に入って、廊下を歩いて、足跡まで残している」

言葉を重ねるほど、胸の内側が硬くなった。私は手拭いの端を指でつまんだ。角を折り、また開く。

「宿は人を迎える場所ではないんですか。書かれていない人は、迎えなくてもいいんですか」

お駒はすぐに答えなかった。

雨が屋根を細かく叩いている。遠くの沢が増水しているのか、低い水音が床下から響いていた。

「迎えることと、数えることは違うよ」

「違う?」

「数えれば、そこにいると決められる。部屋を与えて、膳を出して、帰る時間を確かめる。そういう約束ができる。でもね、約束を結べないものを、形だけ帳面へ押し込めたら、それで救われるとは限らない」

「それでも、書かれないままでは、いないのと同じです」

「そう思うかい」

「私は、そう思います」

お駒はしばらく私を見た。穏やかな目の奥に、古い夜の影が沈んでいる。湯気越しに見るその顔は、生きている人のものなのに、長いあいだ雨にさらされた木のようだった。

「見たなら、見たようにしておけばいい」

お駒は静かに続けた。

「湯が熱そうなら、少し水を足す。廊下が濡れていたら拭く。腹が減っていそうなら、食べられるものを残しておく。そばに来るなら、追い払わない。名を聞けるときが来たら聞く。聞けないうちから、無理に札を掛けてしまわない」

「それでは、何も変わらないのではありませんか」

「変わらないことにも、変えない理由はあるよ」

「昔からそうだから、ですか」

私がそう言うと、お駒の指が湯飲みの縁で止まった。

「その言葉は、便利だからねえ。誰かを守るときにも使えるし、誰かを黙らせるときにも使える。だから、若い人は簡単に信じちゃいけない」

その声には、初めてはっきりした疲れがあった。

「名前はねえ、呼ばれなくなったから消えるんじゃないよ」

お駒は湯飲みを見つめたまま言った。

「誰かが呼ばないと決めたときに、消えたことにされるのさ」

私は返事ができなかった。

茶の苦みが舌の奥に残っている。湯気が消えると、部屋の空気は急に冷えた。

そのあと私は、もう一度湯場へ戻った。

浴槽の縁に手をかざす。湯は熱かった。客には少し熱すぎるかもしれない。私は信濃に言われた手順を思い出しながら、ほんのわずかに水を足した。湯面が揺れ、白い蒸気が立ち上る。

湯気の向こうに、あの少年の肩が現れる気がした。

私は目を逸らさなかった。

けれど、そこには誰もいない。

廊下の先で、草履が板を叩いた。

一度。

間を置いて、もう一度。

私は振り返らなかった。見れば、また追わなければならない気がした。それでも耳だけは、音の行方を追っていた。

足音は浴場から離れ、帳場の方へ向かっていく。

ひとつ。

間。

もうひとつ。

まるで、自分がそこにいてよいかを確かめながら歩いているようだった。

音が朱塗りの帳場机の前で止まった。

そのあと、何かが紙の表面を撫でる音がした。

私は手拭いを握り、廊下を戻った。帳場には誰もいない。宿帳は閉じられている。信濃の姿も見えなかった。

ただ、朱塗りの机の引き出しが一段だけ開いていた。

中には古い帳面の束がある。新しい宿帳より紙が黄ばんでいて、墨の匂いに湿った土の匂いが混じっていた。引き出しの縁には、濡れた小さな指の跡が二つ残っている。

私はその跡へ指を近づけた。

冷たい。

水ではない。湯気の中で触れたはずなのに、墓石のような冷たさだった。

信濃の声が、遠い廊下の向こうで聞こえた気がした。

勝手に動かないこと。

私は引き出しの中の帳面を見つめた。

書かれていないものを確かめるのは、規則を破ることなのだろうか。それとも、規則が守るはずだったものを拾い直すことなのだろうか。

答えはまだ、どちらの側にもなかった。

私は古い帳面へ手を伸ばし、濡れた指の跡を消さないように、そっと引き出しを開いた。

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