1話 谷を上がる雨足

瑞雲楼へ着いたのは、谷あいに雨が残る午後だった。

峠道を上ってくる乗合車を降りたとき、足袋の鼻先には泥が乾かないまま貼りついていた。雨はもう止んでいるのに、山肌から落ちてくる雫が、杉の枝を伝い、細い道の上で絶えず音を立てている。ぴたり、ぴたり、と間を置いて落ちる音を聞いていると、山全体がまだ雨の中にいるようだった。

門の脇に立つ石灯籠は苔で縁どられ、その向こうに木造三階建ての宿が見えた。屋根の端から白い湯気が流れている。山の霧なのか、源泉から上がる蒸気なのか、遠目には区別がつかなかった。

私は母から譲られた巾着の紐を確かめ、それから新しい名札に触れた。胸元に掛けた札はまだ硬く、角も折れていない。瑞雲楼の文字だけが、雨に濡れた景色の中で妙に鮮明だった。

門をくぐると、湿った杉の匂いが強くなった。

玄関のたたきには、客の傘が何本も並べられている。柄の向きまで揃えてあるのに、一本だけ先が畳からはみ出していた。私は反射的にしゃがみ、傘を数センチ内側へ寄せた。

「そこは後でいい」

声に振り向くと、帳場の前に男が立っていた。

細身で、濃紺の作務衣を着ている。四十代半ばほどに見えた。髪には雨の湿気などないように整っていて、眼鏡の奥の目は、私ではなく、まず私の足元と名札を見た。

「志乃さんですね」

「はい。本日からお世話になります」

頭を下げると、男はわずかに顎を引いた。

「信濃です。帳場を預かっています。荷物は部屋へ運ばせますから、まずこちらへ」

帳場には朱塗りの机が置かれていた。塗りはところどころ擦れているのに、手を触れる場所だけが妙に滑らかだ。机の上には宿帳、部屋札、夕食札、鍵束が、決められた間隔で並んでいる。信濃は一枚ずつ指先で確かめ、私の前に薄い手控えを差し出した。

「部屋の配置です。客室は一階が一から四、二階が五から八。九番の間は使いません」

「九番は、どこにありますか」

訊いてから、私はすぐに余計なことを言ったと思った。信濃の指が、手控えの端で止まったからだ。

「二階の奥です。近づかないように」

「掃除も、でしょうか」

「掃除も、確認も、戸を開けることも。札が掛かっているでしょう」

信濃の声は静かだった。静かすぎて、注意というより、すでに何度も失敗した者へ向ける言葉のように聞こえた。

「はい」

返事をすると、信濃は帳場の宿帳を開いた。紙をめくる音が、雨だれより乾いて響く。

「この宿では、帳簿と札を揃えます。客室へ案内したら、必ず名前を確認する。食事を運ぶときは人数と札を照合する。名前を曖昧にしないこと。客が自分から名を告げなかった場合も、勝手に補わない」

「補わない、というのは」

「聞き直します。聞き直せない事情があるなら、帳場へ戻ってください」

私は手拭いを折り直した。白い布の角がずれる。もう一度広げ、端を合わせる。

「何かあっても、勝手に動かないこと」

信濃は宿帳から顔を上げずに言った。

「ここでは、よかれと思ってしたことが、別の誰かを困らせる場合があります。宿というのは、人の親切だけでは回りません。記録と手順があって、初めて客を守れる。あなたが真面目な人なら、なおさら手順を覚えてください」

言葉は正しかった。正しいからこそ、胸に引っかかった。

私の家では、名前を書き残すことが、何度も誰かを助けた。逆に、書かれなかったものが、いつの間にか最初からなかったことにされるのも見てきた。だから私は、記録の扱いにだけは神経質だった。仕事の手順を間違えることより、名前や数を曖昧にすることの方が怖い。

「はい。覚えます」

信濃はようやく私を見た。薄い笑みが浮かんでいる。けれど、その目は笑っていなかった。

「では、館内を案内します」

彼の後ろを歩き、私は廊下へ出た。

磨かれた板は雨を吸って、ところどころ暗く濡れている。足裏に冷たさが返ってくるたび、山の湿気が身体の中へ入り込むようだった。信濃は足音をほとんど立てずに進む。私は置いていかれないように歩幅を合わせたが、曲がり角で一度、壁に掛けられた札の位置が気になって足を止めた。

四番の札が、ほんの少し傾いている。

掛け直そうと手を伸ばしたとき、信濃が振り返った。

「札には触らないでください」

「すみません。傾いていたので」

「傾きにも理由があります」

「……理由が?」

「札は客の目線に合わせて掛けています。廊下のこちら側から見て揃っていても、部屋の中から見れば違う。勝手に直すと、別の場所で狂いが出る」

信濃はそう言って、札を指一本分だけ持ち上げた。傾きは直らなかった。けれど彼はそれ以上触れず、手を下ろした。

「整って見えることと、整っていることは違います。覚えておいてください」

その言い方が、札の話だけではないように聞こえた。

客室の配置、配膳口、裏階段、従業員用の洗い場。信濃は余計な説明をせず、必要なことだけを順に教えていく。私は小さな覚え帳に書き留めた。部屋番号、客の人数、夕食の時間。書き終えるたびに、文字の並びを見て、抜けがないか確かめた。

浴場へ向かう廊下に入ると、空気が変わった。

熱い湯の匂いが木の匂いに混ざっている。硫黄のような強さはない。むしろ、濡れた石と古い鉄を思わせる匂いだった。女湯の前には赤い札が掛かり、脱衣所の奥から湯気が流れてくる。白い蒸気が廊下へ薄く溜まり、障子越しの灯りをぼかしていた。

「湯場の見回りは、客の少ない時間に」

「湯温は私が見てもよろしいでしょうか」

「勝手には触らないでください。湯守が管理します」

そのとき、浴場の奥で水音がした。

ぱしゃ、と小さく湯が跳ねる音だった。

私は反射的に目を向けた。湯気の向こうで、誰かの肩が動いたように見えた。大人のものではない。白い浴衣の布が、蒸気の幕の向こうで一度だけ揺れた。

息が浅くなる。

私は目を凝らした。湯気が流れ、輪郭がほどける。そこに立っていたのは、七歳くらいの男の子だった。

濡れた髪が額に張りついている。浴衣の帯は少しゆるく、片方の手に古びた紐を握っていた。少年は逃げなかった。私を見て、すぐには笑わず、まず袖口と手元を確かめるように視線を落とした。

それから、目だけをやわらげた。

私は声をかけようとした。けれど、信濃の「勝手に動かないこと」という言葉が喉に残っていた。

「……お客様?」

少年は返事をしなかった。

湯気がひときわ濃くなり、視界が白く塞がる。私は手拭いを握ったまま、一歩だけ前へ出た。熱気が頬を濡らす。肌にまとわりついた蒸気が冷え、首筋を細く伝った。

少年の姿は、もうなかった。

代わりに、板の上に濡れた足跡が残っていた。

小さな足跡が二つ、浴場の奥から廊下へ向かって続いている。水滴はまだ乾いていない。片方の足が少しだけ引きずられていて、歩みの間隔も妙に長い。誰かが、次の一歩を置いてよい場所かどうか、毎回確かめながら歩いたような跡だった。

私は足跡を追いかけた。

廊下の角を曲がると、湯気は薄くなった。足跡だけが、板の上で濃く光っている。けれど、その先には誰もいない。障子は閉まり、部屋札は一枚も揺れていなかった。

後ろから信濃の声がした。

「志乃さん」

振り返ると、信濃は浴場の入口に立っていた。視線は私ではなく、床の足跡へ落ちている。

「どうしました」

「今、子供が」

「客室へ戻ってください」

言葉を重ねる前に遮られた。声は穏やかだったが、さっきより硬い。

「でも、足跡が――」

「濡れた床は滑ります。清掃を」

「人が歩いた跡です」

「その判断を、あなたがする必要はありません」

信濃は廊下の端に置かれた雑巾を取り、私へ差し出した。受け取った布は冷たく湿っていた。

「夕食の札を確認しなさい。子供客がいるかどうかは、それで分かります」

私は雑巾を見つめた。確かにそれが手順だった。帳簿と札を見れば、宿にいる人間の数は分かる。分からないものを追うより、書かれたものを確かめるべきなのだ。

私は帳場へ戻った。

夕食札を一枚ずつ並べ直す。部屋番号、人数、食事の内容。二人、三人、四人。子供用の膳が付いている部屋はなかった。宿帳にも、子供の名前はない。

ただ、最後の札の角だけが、濡れていた。

拭いたばかりのような水滴が一つ、紙の端から落ちた。

その夜、まかないの膳を片づけていると、お駒が茶を運んできた。腰は少し曲がっているのに、歩く音がしない。茶碗を置くときも、畳が受け止める前に手を離しているようだった。

「初日は疲れるねえ」

「はい」

私は答えながら、湯気の向こうで見た少年を思い出していた。薄い浴衣。濡れた髪。返事の前の一拍。

「あの、お駒さん」

「何だい」

「浴場の廊下で、子供を見ませんでしたか」

お駒は急須の蓋を直した。私の顔を見ないまま、茶を少しだけ足す。

「子供なら、昔からいる子だよ」

「宿帳には名前がありませんでした」

「そういう子もいるさ」

「夕食札にもありません。食事をしていないということですか」

「食べる日もあるし、食べない日もある。人間だってそうだろう」

お駒はそこで初めて私を見た。穏やかな目だった。けれど、奥に古い疲れが沈んでいる。

「宿の者が気にかけているなら、客として数えているのと同じじゃありませんか」

「数えることと、迎えることは違うよ」

私は茶碗の縁に指を添えた。

「では、私はどうすればいいんでしょう」

「見たなら、見たようにしておけばいい。湯が熱そうなら、少し水を足す。廊下が濡れていたら拭く。腹が減っていそうなら、食べられるものを置く。名を聞けるときが来たら聞けばいい。聞けないうちから、無理に帳面へ押し込むものじゃない」

「それでは、いないのと同じになりませんか」

お駒は返事をしなかった。

雨が、屋根の上で細かく鳴っている。茶の湯気が二人の間を横切り、向かいに座るお駒の顔を一瞬だけ白く隠した。

「名前はねえ、呼ばれなくなったから消えるんじゃないよ」

お駒の声は、茶碗の中へ落とした息のように小さかった。

「誰かが呼ばないと決めたときに、消えたことにされるのさ」

それ以上、お駒は話さなかった。

私は湯場へ戻り、浴槽の縁に手をかざした。湯は熱かった。客には少し熱すぎるかもしれない。私は水をほんのわずかに足し、温度を確かめた。

そのとき、廊下の向こうで、草履が板を叩いた。

一度。

間を置いて、もう一度。

私は振り返らなかった。見れば、また追わなければならない気がした。それでも耳だけは、音の行方を追っていた。

足音は浴場から離れ、帳場の方へ向かった。

朱塗りの机の前で止まる。

しばらくして、何かが紙を撫でる音がした。

私は手拭いを握り、廊下を戻った。帳場には誰もいない。宿帳は閉じられている。けれど、机の引き出しが一段だけ開いていた。

中には古い帳面の束が見えた。墨の匂いと、湿った紙の匂いが混じっている。

私は手を伸ばした。

信濃の声が、どこか遠くで聞こえた気がした。

勝手に動かないこと。

けれど、引き出しの隙間から、濡れた小さな指の跡が、朱塗りの縁に二つ残っていた。

私はその跡を見つめたまま、手を引かなかった。

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