第9話 同じ傷の位置

放課後、私は結衣の誘いを断った。
断った、といっても、はっきり言えたわけではない。結衣が鞄を肩にかけながら、「今日も一緒に帰る?」と訊いたとき、私は机の中の譜面を見たまま、少し長く黙った。
結衣は、その沈黙の長さを測るように私の顔を見た。以前なら、ここで「じゃあ途中までね」と勝手に決めていたはずだ。けれど今日は、髪を結び直しながら、返事を待っていた。
「今日は、ひとりで帰る」
「海のほう?」
「うん」
「そっか」
結衣はそれだけ言った。机の端に小さな紙袋を置く。昨日と同じ店の、まだ温かいパンだった。
「これは、置いとく。食べるかどうかは、ひよりが決めて」
「……ありがとう」
「うん」
結衣は笑おうとした。けれど、笑顔を作りきらないまま、教室を出ていった。
その背中を見送ったあと、私は紙袋を鞄にしまった。受け取ったからといって、すぐに食べなければならないわけではない。そう思えるだけで、少しだけ息がしやすかった。
校舎裏へ出ると、風が正面から吹いてきた。
昼間の熱を残したアスファルトの匂いに、潮と濡れたコンクリートの匂いが重なっている。窓の向こうでは、文化祭の準備をする生徒たちが動いていた。色画用紙を運ぶ音。誰かの笑い声。実行委員が時間を確認する声。
学校の中には、明日のために進んでいる人たちがいる。
私はその流れから外れたまま、坂道を下った。
海風の坂は、下るほど足を急かした。身体が前へ持っていかれる。止まりたくても、立ち止まるための理由が見つからない。街灯はまだ点いておらず、道の端に伸びた影だけが、坂の勾配を長く見せていた。
ポケットの中で、片方だけのイヤホンが揺れた。
蒼司から借りたまま、返せずにいる。
何度も返そうと思った。音楽室で机の上に置いておけばいい。彼の譜面ケースへ戻せばいい。けれど、そうしようとするたび、指先がコードを探してしまう。
耳へ入れれば、あの古い録音が流れる。
歪んだギター。遠い歓声。歌い手の、少し遅れた息。外れた音のあとに、それでも続いていく声。
防波堤の手前で、蒼司が待っていた。
制服の裾が風に揺れている。海側の手すりに片手を置き、親指で冷たい金属を押さえていた。私の足音が近づいても振り向かない。ただ、その指の動きが止まった。
「なんで、ここにいるの」
私が訊くと、蒼司はすぐには答えなかった。
防波堤の向こうで波が崩れる。白い泡が石の隙間へ入り込み、引いていく。風が頬を叩き、髪が目元へ貼りついた。指で払っても、すぐに戻ってくる。
「ここにいる理由が、必要?」
「必要。少なくとも、私には」
蒼司は一度だけ私を見た。
「学校だと、聞かれるから」
「何を」
「大丈夫か。次はどうするか。音楽は続けるのか。そういうこと」
「ここでは聞かれない?」
「聞かれても、風で消える」
「便利だね」
「便利だから来てる」
蒼司は防波堤の上へ腰を下ろした。私のために場所を空けたわけではない。ただ、彼の隣には、人ひとり分の幅が残っていた。
私は少し離れて座った。
コンクリートは昼の熱をまだ抱えていて、制服越しに太腿へじんわり伝わってくる。海面は夕方の光を失いかけ、灰色の上に赤い筋だけを残していた。
蒼司が再生機器を取り出す。
「また、あれ?」
「嫌ならやめる」
「嫌とは言ってない」
「言ってないだけ」
「そういうところ、腹が立つ」
「どこ」
「何でも、こっちに決めさせるところ。聴くかどうかも、話すかどうかも、嫌かどうかも。蒼司は自分で何も決めてないみたいに見える」
彼は再生機器の画面を見たまま、親指を止めた。
「決めてる」
「何を」
「ここへ来ること」
「それだけ?」
「音源を聴くこと。お前に貸すこと。返されても受け取らないこと」
「じゃあ、どうして理由を言わないの」
蒼司は顔を上げた。風に煽られた髪が、彼の額へかかっている。人前では姿勢を崩さない彼の肩が、今日は少し落ちていた。
「言ったら、理由がそれだけになるから」
「それだけ?」
「言葉にした理由は、ほかの理由を追い出す。俺は、それが嫌いだ」
私は蒼司の手元を見た。イヤホンのコードが指に絡んでいる。ほどこうとして、ほどかず、そのまま握っている。
「意味がわからない」
「お前は、歌う理由をひとつにしたいのか」
いきなり問いを返され、私は黙った。
蒼司は再生機器を操作した。曲の頭ではなく、少し前から始める。遠くで誰かがマイクを叩き、客席のざわめきが波のように膨らんでいく。
片方のイヤホンが差し出された。
私はすぐには受け取らなかった。
「蒼司が先に聴けば」
「聴いてる」
「片方だけ?」
「片方で十分」
「変なの」
「そういう音源だから」
私はイヤホンを受け取った。彼の指先が、私の指にほんの一瞬触れた。冷たいと思った。けれど次の瞬間には、触れた場所だけが熱を持っていた。
耳へ入れる。
音が身体の内側へ滑り込んできた。波音が遠のき、風の音が薄くなる。けれど、完全に消えるわけではない。ライブ音源のざらつきの下に、海の低い唸りが残っている。
歌い手が息を吸う。
その息が、私の耳のすぐそばで鳴ったように感じた。
「この人、歌うの嫌だったのかな」
私は音を聴きながら言った。
「どうして」
「息が苦しそうだから」
「苦しいのと、嫌なのは違う」
「じゃあ、歌いたかった?」
「それも、本人にしかわからない」
「また、わからない」
「わからないことを、わからないまま聴くんだろ」
「蒼司は、それが好きなの?」
「好きかどうかも、決めなくていい」
私は少し笑った。今度は頬だけが固まらなかった。
曲の途中で、歌い手が音を外した。
ほんのわずかなずれだった。けれど、その音は消えずに残った。次のフレーズへ入るとき、声の縁に薄く引っかかり、歌全体の形を変えている。
私はイヤホンを押さえた。
「私、この音が嫌いじゃない」
「うん」
「外したのに?」
「だから」
「外したから?」
「外したものを、なかったことにしてない」
蒼司は海を見たまま言った。
「俺は、前の学校で外されたとき、自分の音をなかったことにしようとした。選ばれなかったなら、最初から必要のない音だったことにすればいいと思った。そうすれば、負けたことを説明しなくて済む。怒ってないふりもできる。恥ずかしくないふりもできる」
「でも、できなかった」
「できなかった。音源を聴くと、まだ腹が立った。吹けないのに、音の立ち上がりだけは気になった。誰かが楽器を吹いていると、息の入り方を探した。やめたつもりでも、耳だけが続けていた」
「それで、転校しても音楽室に来てたんだ」
「最初は、来るだけだった」
「何か吹いた?」
「吹いてない」
「じゃあ、何をしてたの」
「聴いてた」
「私の歌を?」
「最初は」
胸の奥が小さく跳ねた。
「最初は、って何」
「お前が、歌う前に喉を押さえるから」
「見ないでって言ったよね」
「見ないようにしても、音が変わる」
「私の?」
「うん。喉を押さえたあと、お前は少しだけ声を大きくする。弱いと思われたくないときの音になる」
私はイヤホンを外した。
風が一気に耳へ入り込み、頬が冷えた。音源の向こうにあった歌声が消え、代わりに海が近くなる。
「蒼司は、私を見てたんだね」
「見ていた」
「いつから」
「転校して、二日目」
「そんな前から?」
「音楽室で歌っていた」
「覚えてない」
「覚えなくていい」
「私は覚えていたい。自分がどう見られてたのか知りたい」
蒼司は、少しだけ眉を動かした。
「知ってどうする」
「直す」
「また、それだ」
「何が」

「見られ方を直そうとする」
「だって、変に見られたくない」
「変じゃない」
「じゃあ、何」
蒼司はすぐに答えなかった。
手すりへ置いた彼の指が、金属を二度、軽く叩いた。一定の間隔だった。メトロノームのように正確で、その正確さがかえって彼の揺れを隠しているように見えた。
「歌ってるとき、音を外さないようにしている。でも、本当に怖がっているのは、音を外すことじゃない」
「何が怖いの」
「外したあとに、誰かの顔を見ること」
私は何も言えなかった。
その通りだった。
音を外した瞬間より、そのあとに起きることが怖い。審査員が顔を上げる。客席がざわめく。結衣が心配そうに目を見開く。蒼司が、何も言わずに自分の声を測る。
その一瞬を避けるために、私は次の音を正しくしようとする。なかったことにするために、声を作る。作った声は大きいのに、息がない。
「私、蒼司に負けたくなかった」
言葉にしてみると、思ったより静かだった。
「勝ったこともないのに?」
「だから、負けたくなかった。蒼司は何でもできるように見えた。テストも、楽器も、音を聴くことも。私が何度も練習してやっとできることを、蒼司は最初から知ってるみたいだった」
「知らない」
「知らないように見えた」
「それは、お前の問題だろ」
「そうだよ。だから、私の問題を蒼司のせいにしてる」
蒼司は私を見た。
「それでも、勝ちたかった?」
「うん。たぶん。勝って、蒼司の顔を見たかった。私のほうが上だって、思いたかった。そうすれば、自分の声を信じられる気がした」
「勝てば、信じられた?」
「わからない」
「お前も、わからないまま使うんだな」
「便利だから」
蒼司の口元が、ほんの少しだけ動いた。笑ったのか、息が漏れただけなのかはわからない。
私はもう一度、イヤホンを耳へ戻した。
音源の中で、歌い手が次のフレーズへ入る。外れた音は消えず、声の底に残ったままだった。それでも、歌は前へ進んでいる。
「蒼司は、選ばれたかった?」
「うん」
「今でも?」
「選ばれたいと思うことはある」
「じゃあ、音楽を続けたい理由は、まだ勝ちたいから?」
蒼司は長く黙った。
風が彼の制服の袖を膨らませ、手首が覗く。細い手首だった。音楽室で楽譜を押さえていた指先と同じように、力が入りすぎている。
「勝ちたいから始めても、勝つことだけが残るわけじゃない」
「どういう意味」
「最初は、誰かより上に行きたくて吹く。次に、昨日の自分よりうまく吹きたくなる。でも、どちらも一度負けると壊れる。最後に残るのは、負けたあとでも聴こえてしまう音だけだ」
「それが、蒼司の残したい音?」
「まだ決めてない」
「決めてないけど、聴いてる」
「うん」
「私も、そうなれるかな」
蒼司は海を見た。
「なれるかどうかを決めるのは、ひよりだ」
「また対等?」
「他に何がある」
「少しくらい、答えをくれてもいいのに」
「答えを渡したら、返せなくなる」
「返さなくていい」
「お前は、もらったものを返そうとする」
言われて、私は黙った。
イヤホンも、結衣のパンも、先生のカセットも。受け取ったままにしておくことができない。何かをもらったら、代わりに何かを渡さなければいけない。助けられたら、すぐに立ち上がらなければいけない。そうしないと、選ばれない自分が、誰かの負担になる気がした。
「返さないと、借りたままになる」
「借りたままでいいものもある」
「それ、蒼司が言う?」
「俺が言うから意味がある」
「自分は返さないんだ」
「返したら、音がなくなる」
その言葉に、私は蒼司を見た。
彼は何も説明しなかった。けれど、手元のイヤホンを握る力が少し強くなっていた。私に渡した片方と、彼が持つ片方。その二つが、最初から別々のものではなかったことを、今さら思い知らされた。
「蒼司」
「なに」
「私、まだ歌いたいかどうかわからない」
「うん」
「でも、歌いたくないわけでもない」
「うん」
「勝ちたい気持ちも、なくならないと思う」
「なくさなくていい」
「それで、また息が詰まったら?」
「詰まった音を、聴けばいい」
「自分の音を?」
「自分の音だけじゃない。外の音も。波も、誰かの呼吸も。ひとりで歌っているときも、完全にひとりではないから」
私は海を見た。
波が防波堤へ当たり、白い泡を残して引いていく。次の波が来るまでの短い空白に、イヤホンの中の歌声が入り込んでいた。片方の耳では歌声を聴き、もう片方では海を聴いている。二つの音は重ならない。それでも、どちらか一方だけより、今いる場所がはっきりした。
「これ、返す」
私はイヤホンを外し、蒼司へ差し出した。
彼は手を伸ばさなかった。
「返さなくていい」
「でも」
「まだ聴いてない」
「何を」
「お前の音」
私はイヤホンを握ったまま、蒼司を見る。
「聴かせてない」
「だから、持っていていい」
「蒼司は、私に歌えって言ってる?」
「言ってない」
「でも、聴きたいんでしょ」
「聴きたい」
短い言葉だった。
その一言だけで、胸の奥が妙に騒いだ。選ばれたいわけではない。勝ちたいわけでもない。ただ、彼に聴かせることが怖かった。外した音も、震えた息も、作る前の声も、全部見られる。
「下手だったら?」
「聴く」
「また外したら?」
「待つ」
「何を」
「次の音」
蒼司はそれだけ言った。
私はすぐに返事をしなかった。風が頬を撫で、耳のそばの髪を乱す。指先に残ったイヤホンの温度は、もう彼のものか私のものかわからなかった。
防波堤から降りる。
坂を上って帰る道は、来たときより暗くなっていた。港の灯りが背中側へ遠ざかり、校舎の窓が少しずつ高くなる。蒼司は先に歩かず、私の隣へ並んだ。
歩幅は、偶然ではなかった。
私が遅れると、彼も遅れた。私が少し早くなると、彼も同じだけ速度を上げた。肩が触れるほど近くはない。けれど、離れているとも思えない距離だった。
「明日」
蒼司が言った。
「なに」
「音楽室に来る」
「私が?」
「来たいなら」
「蒼司は?」
「いる」
「歌うの?」
「お前が歌うなら」
私は足元を見た。
街灯の光の中で、二人の影が並んで伸びている。風が強くなると、影の輪郭が崩れ、また別の形へ戻った。
「ひとりで歌うの、まだ怖い」
「知ってる」
「見ないで」
「見ない」
「でも、聴いて」
蒼司は返事をしなかった。
ただ、ポケットからイヤホンの片方を取り出し、私の手のひらへ戻した。今度は差し出すのではなく、握らせるような動きだった。指先が触れ、すぐに離れる。
私はそれを握った。
坂の上から、学校の音が聞こえてくる。誰かが窓を閉める音。遠くの廊下で、椅子を引く音。文化祭の準備はまだ終わっていないらしい。
海の音は、少しずつ遠ざかっていく。
それでも、片方の耳にはまだ、古いライブ音源の歌声が残っていた。外した音のあと、歌い手が探し当てた次の音。正確ではない。きれいでもない。けれど、そこに戻ってくるための息が、確かに聞こえた。
私は、その息を忘れないように歩いた。
落ちた場所は、まだ消えていない。
傷も、悔しさも、勝ちたい気持ちも、残ったままだった。
ただ、そのすべてを抱えたまま歩く隣に、もうひとつの足音があった。
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