第10話 返せない音

翌日の放課後、音楽室の前には、誰もいなかった。
廊下の窓が少し開いていて、海の匂いが入ってきている。風に押されたカーテンが膨らみ、戻る。そのたびに、窓際に積まれた譜面の端がぱらぱらと鳴った。
私は扉の前で立ち止まった。
ポケットの中に、片方だけのイヤホンがある。昨日から何度も触っているせいで、コードの一部が指の形を覚えたみたいに柔らかくなっていた。
扉を開けると、蒼司がいた。
音楽室の後ろの机を寄せ、古いスピーカーと再生機器を置いている。譜面ケースは床に立てかけられ、蓋の隙間から、折り目のついた楽譜が覗いていた。
「早いね」
「時間通り」
「私が遅い?」
「三分」
「それ、早いって言わない?」
「遅くもない」
蒼司は再生機器の画面を見たまま答えた。
窓から入る風が、机の上の紙を一枚だけ動かした。私はそれを押さえ、空いている椅子へ鞄を置く。
「昨日、寝た?」
「寝た」
「何時に」
「二時」
「それは寝たって言うの?」
「寝ている」
「言葉の問題じゃなくて」
「ひよりも遅かった?」
私は返事をしなかった。
布団へ入ってからも、耳の奥に歌声が残っていた。外した音。そのあとで探された、少し頼りない次の音。何度も再生を止めようとして、結局、最後まで聴いた。
机の上に、歌詞ノートを開く。
最後のページには、昨日書いた二行がある。
外れたあとに、残る息。 ひとりでなくても、自分の声で。
その下には、今朝、鉛筆で書き足した文字があった。
誰に聴かせるかは、あとで決める。
「それ、曲?」
蒼司がノートを見た。
「まだ違う」
「歌詞?」
「それも、まだ」
「何なら決まってる」
「決まってない」
「昨日から、そればかりだな」
「蒼司だって言ってた」
「何を」
「決めなくていいって」
「俺は、決めたこともある」
「音楽室に来ること?」
「それと、聴くこと」
蒼司は再生機器を手に取った。いつものライブ音源ではなく、別のファイルを開いている。画面に並ぶ短い名前の中から、ひとつを選ぶ。
再生が始まった。
最初に聞こえたのは、音ではなく、誰かが椅子を引く音だった。次に、遠くで咳をする声。マイクへ近づく足音。観客のざわめきが、録音機の近くで小さく膨らむ。
私はイヤホンを受け取った。
片方を耳に入れる。蒼司はもう片方を持ったまま、再生ボタンの横へ指を置いている。
やがて、管楽器の低い音が入った。
不揃いだった。音の立ち上がりが揃っていない。ひとりだけ、息を入れるのがわずかに遅い。その遅れが全体を崩すほどではないのに、私はそこばかり気になった。
「吹奏楽?」
「前の学校の演奏」
蒼司の声が、イヤホン越しに近く聞こえた。
「蒼司もいる?」
「いる」
「どれ」
「わからないほうがいい」
「どうして」
「探すと、音じゃなくて人を見るから」
私は目を閉じた。
低い音の上に、別の音が重なる。誰かの指が少し遅れ、音の縁が揺れる。全体は整っているように聞こえるのに、細部にはいくつも傷があった。けれど、その傷があるから、録音の向こうにいる人数がわかる。
「これ、失敗した演奏?」
「本番の録音」
「同じじゃない?」
「違う」
蒼司はすぐに答えた。
「失敗した演奏を、失敗したまま録音した。それだけ」
「それを聴くの、嫌じゃないの」
「嫌だ」
「じゃあ、どうして持ってるの」
「捨てたら、なかったことになる」
昨日、私が言った言葉と似ていた。
私は目を開けた。蒼司は楽譜を見ている。表情は変わらない。けれど、紙を押さえる指先だけが、少し白くなっていた。
「蒼司は、音楽を続けたいのに、音楽室へ来るのが嫌なんだね」
「そういう日もある」
「続けたいのに、嫌になるのは変じゃない?」
「ひよりは、歌いたいのに歌うのが怖くないのか」
言葉が詰まった。
音源の中で、演奏が一度だけ大きく揺れた。誰かが入りを間違えたのか、指揮が乱れたのかはわからない。音は濁り、その濁りを押し戻すように、次の小節が始まる。
私はイヤホンを外した。
「歌う」
蒼司がこちらを見る。
「何を」
「歌いたいかどうかわからないけど、歌う。少なくとも、今は」
「理由は?」
「それを決めるために来た」
「決められる?」
「わからない」
「また」
「わからないままでも、声は出せるかもしれない」
私は椅子から立った。
音楽室の中央は、思っていたより広かった。誰もいないのに、床の木目がこちらを見ているように感じる。窓の外には、校舎の屋根と、その向こうの海が少しだけ見えた。
「何を歌う」
「まだ決めてない」
「決めてない曲は歌えない」
「知ってる」
「じゃあ」
「予選で歌った曲」
蒼司の視線が、私の譜面へ落ちる。
鞄から譜面を出す。何度も折り直したせいで、紙の中央に薄い線ができていた。予選のとき、歌い出しの位置へ赤い印をつけた。そこから先は、息継ぎの場所、強くする音、審査員が好みそうな語尾まで、細かな書き込みで埋まっている。
「それは、やめたほうがいい」
「どうして」
「お前が、あの曲を聴くたびに審査員を見るから」
胸の奥を、指で押されたような気がした。
「見てない」
「見ている」
「歌ってるときは、客席なんか見えなかった」
「目が見ていなくても、声が見ていた」
私は譜面を握った。
「じゃあ、何を歌えばいいの」
「俺に聞くな」
「蒼司がやめろって言った」
「やめろとは言ってない。今のまま歌うなと言った」
「同じでしょ」
「違う」
蒼司は椅子から立ち上がった。
「曲を捨てる必要はない。お前が曲に貼ったものを剥がせ」
「そんなに簡単じゃない」
「簡単だとは言ってない」
「だったら、どうすればいいの」
声が大きくなった。
音楽室の壁に跳ね返り、私の声が少し遅れて戻ってくる。その遅れが、自分で自分を責めているように聞こえた。
「勝ちたい気持ちも、認められたい気持ちも、消えない。審査員にどう聞こえるかだって、たぶん考える。蒼司に変だと思われたくない。結衣に、また歌えるんだって思われたい。家でも、好きにしていいって言われたけど、結局、ちゃんと結果を出したほうが安心される。そういうの、全部なくして歌えって言われても無理だよ」
蒼司は黙っていた。
「私は、きれいな理由だけで歌えるほど、まっすぐじゃない」
「知ってる」
「知ってるなら、直せなんて言わないで」
「直せとは言ってない」
「じゃあ何」
「混ぜたまま歌えばいい」
思ってもいなかった言葉だった。
蒼司は譜面の赤い印を見つめている。
「勝ちたい気持ちがあるなら、あるままでいい。認められたいなら、それも残せばいい。なくしたふりをすると、そこだけ音が薄くなる」
「でも、混ざったら、また何を歌ってるのかわからなくなる」
「わからなくなったら、聴き直す」
「誰が」
「お前が」
「蒼司は?」
彼は一度だけ私を見た。
「俺も聴く」
その返事は、約束というより、逃げ道を塞ぐための杭のようだった。
私は譜面を譜面台へ置いた。
最初の音を出す前に、喉へ手を当てる。いつもの癖だった。蒼司は何も言わない。
息を吸った。
声は、思ったより小さく出た。音程も安定しない。歌い出しの一音が少し低く、次の音へ移るときに息が引っかかった。
止めようとした。
けれど、蒼司が譜面台の端を指で二度叩いた。
待っている、という合図だった。
私は次の音を探した。
声はまだ震えていた。以前なら、震えを隠すために声量を上げていた。今日は上げなかった。震えたまま、言葉の終わりまで息を運ぶ。
歌い終えると、音楽室には風の音だけが残った。
「どうだった」
訊いてから、早すぎたと思った。
蒼司はすぐに答えなかった。窓の外を見て、それから私の譜面へ視線を戻す。
「最初の音は、逃げた」
「やっぱり」
「でも、二つ目で戻った」
「それだけ?」
「それが大事」
私は譜面を見下ろした。赤い印のついた歌い出しが、今はひどく他人の字に見える。
「もう一回、歌う」
「うん」
「今度は、最初から」
「うん」
私は再び息を吸った。
そのとき、廊下から足音が近づいた。
扉の小窓に、結衣の顔が現れる。手には、昨日の紙袋と、文化祭の装飾に使うらしい青い紙が抱えられていた。
「入っていい?」
私は蒼司を見た。
彼は一歩下がり、音楽室の中央を空けた。
「結衣が決めて」
「え、私?」
「聞くかどうかも」
結衣は小窓越しに私を見た。いつものように入ってくることも、明るく声をかけることもしなかった。
私は少し考えてから、扉を開けた。
「聞いて」
「うん」
「でも、終わってから何もまとめないで」
結衣は口元を引き結び、それから頷いた。
「わかった。今日は、聞くだけにする」
私は譜面台の前へ戻った。
三人分の呼吸が、音楽室にあった。揃ってはいない。結衣は少し緊張して浅く、蒼司は音を測るように静かで、私はその間で何度も息を探している。
それでも、誰も急かさなかった。
私は喉へ触れた手を下ろした。
最初の音が、まだ怖い。
だからこそ、逃げずに出してみる。
窓の外で海風が鳴り、譜面の端が揺れた。私はその揺れを見ながら、昨日より少し長く息を吸った。
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