7話 袖の中の呼吸

前夜祭当日の朝、潮見台高校の校舎は、始業時刻よりずっと早く目を覚ましていた。

廊下の壁には、昨夜までなかった青い紙片が貼られている。海を模したつもりなのだろうけれど、風にあおられて端がめくれ、波というより、剥がれかけた絆創膏に見えた。階段の踊り場には、誰かが運び忘れた段ボールが積まれている。体育館の裏からは、譜面台を引きずる音や、マイクスタンドの金属が床に触れる音が、短く途切れながら聞こえてきた。

学校全体が、ひとつの大きな舞台装置になっていた。

私はその装置の端にいた。

体育館の舞台袖は、表から見えないように黒い幕で仕切られている。幕の隙間から覗くと、舞台の中央に白い照明が落ちていた。まだ誰も立っていないのに、そこだけが先に人の視線を待っている。

選ばれた人たちは、舞台の上へ上がるために動いていた。

ギターケースを抱えた男子が、友人にコードの確認を頼んでいる。演劇部の三年生が、台詞を小声で繰り返しながら袖を行き来している。誰かが笑い、誰かが焦った声を出し、実行委員が時間を叫ぶ。そのすべてが忙しく、けれど準備された流れの中にあった。

私は、舞台袖に置かれた折り畳み椅子へ腰を下ろした。

出演者ではない。予選に落ちた私に、ここで立つ理由はない。それでも、実行委員をしている結衣に頼まれ、機材の確認を手伝うことになっていた。スピーカーの音量を見て、ケーブルが通路を塞いでいないか確かめる。それくらいならできると思った。

歌わなくていい場所なら、いられると思った。

「木下さん、これ、マイク一本余ってるけど、どこ置く?」

同じクラスの男子が、コードを巻いたまま声をかけてきた。

「音響の机の横でいいと思う。通路には出さないで」

「了解。さすが、音に詳しい人は違うね」

軽い冗談だった。

私は笑おうとした。頬の筋肉だけが先に動き、口元が不自然な形で止まった。男子は気づかずにマイクを運んでいく。気づかれなかったことにほっとするより先に、自分の顔を誰にも見られなくてよかったと思った。

舞台の上で、誰かが発声を始めた。

「あ、あ、あ」と短い声が響き、体育館の高い天井へ吸い込まれる。声はよく通っていた。迷いがなく、音程も安定している。私は耳を澄ませ、最初の母音が少し硬いことに気づいた。高音へ行く前に息が足りなくなるかもしれない。そんなことを考えてから、自分でも嫌になった。

落ちたあとまで、他人の声を採点している。

私は制服の袖口をつまんだ。

昨日までなら、譜面を開いて修正箇所を探していた。ここは半拍遅らせる。ここはもっと支える。ここは声を前へ出す。けれど今日は、鞄の中の譜面に触れる気にならなかった。紙を開けば、また自分が何を間違えたのかを探してしまう。それは反省ではなく、負けた理由をひとつに決めてしまう作業だった。

喉が固かったから。

息が浅かったから。

才能が足りなかったから。

そうやって原因を切り分ければ、次は直せる気がする。直せば、今度は選ばれる気がする。けれど、三枝先生に言われた。

勝ちたい音が混じっている。

その言葉は、何度聴いても薄くならなかった。

「ひより」

背後から声がした。

振り向くと、三枝先生が立っていた。片手に古いカセットケースを持っている。透明な蓋は細かな傷で白く曇り、ラベルの文字は端から擦れていた。先生は私を見たあと、舞台の上へ目をやった。

「ここにいたか」

「手伝いを頼まれたので」

「出演するわけではないのに?」

「できることが、これくらいしかないから」

先生は、すぐには返事をしなかった。舞台の上では、実行委員が立ち位置を示すために白いテープを貼っている。テープの端が少し浮き、誰かが靴の先で押さえた。

「できることと、やりたいことは、同じか」

「……違うと思います」

「思うだけか」

「違います」

「なら、何をしている」

私は答えられなかった。

先生はカセットケースを私の膝の上へ置いた。置くというより、落とさないように預ける動きだった。ケースの角が制服の布へ触れ、ひやりとした感触が残る。

「昨日の音だ」

「持ってきたんですか」

「昨日、返すのを忘れた」

「先生が?」

「私が」

先生が忘れるということが、少し意外だった。いつも何もかも整っているように見える。机の上の譜面の角も、デッキのつまみの位置も、言葉の長ささえも。けれど、カセットを忘れたという小さな失敗が、なぜか近く感じられた。

「聴けとは言わないんですか」

「もう言った」

「昨日?」

「今日も言ったつもりだ」

先生は舞台の照明を見たまま、低く息を吐いた。

「だが、聴くかどうかはお前が決めろ。音楽まで、指示された順番で触る必要はない」

私はカセットケースの表面を親指で撫でた。擦れたプラスチックの感触が、掌へ残る。ポケットには、蒼司から借りた片方だけのイヤホンが入っている。二つの古いものが、別々の場所で重さを持っていた。

「先生」

「何だ」

「昨日の人は、どうして外したあとも歌えたんでしょう」

三枝先生は私を見た。

「お前が、それを知りたいのか」

「知りたいというより……」

言葉を探した。舞台の上から、誰かの靴音が響いてくる。一定の間隔で近づき、止まり、また離れていく。

「外したのに、どうして恥ずかしくならなかったのかなって。私なら、あそこで止まると思います。次の音を出したら、外したことがもっとはっきりするから。だから、なかったことにするために、次の音を正しくしようとする。でも、そうすると息がなくなる」

先生は、私の手元を見た。

「今も肩が上がっている」

私は反射的に肩を下ろした。

「すみません」

「謝るな。身体が正直なだけだ」

先生の声は、いつもより少し静かだった。

「人前で歌うとき、お前は音を出す前に、その音が許されるかどうかを確かめている。高すぎないか、弱すぎないか、誰かに笑われないか。確認している間に、音が出る場所がなくなる」

「じゃあ、確認しなければいいんですか」

「簡単に言うな」

先生はそう言って、ほんの少しだけ口元を緩めた。

「確認しない人間は、ただ無謀なだけだ。聴くことと、怯えることは違う。お前は聴く耳を持っている。だからこそ、聴きすぎて自分の音を後回しにする」

私はカセットケースを握った。

「自分の音なんて、あるんでしょうか」

「ある」

「どこに」

「私に聞くな」

先生は舞台へ視線を戻した。

「お前が持っている。今は、勝ちたい音や、認められたい音の下に埋まっているだけだ」

「掘り出せるんですか」

「掘り出すものではない。余計なものを少しずつ置かなくなるだけだ」

その言葉を、私はすぐには理解できなかった。

音を足していくことなら知っている。声量を増やす。息を支える。響きを揃える。音程を正す。けれど、置かなくなるという考え方は、今までの練習にはなかった。うまく歌うために、いつも何かを加え続けていた。

期待も、正解も、見られ方も。

「本番、頑張ってください」

舞台のほうから声がした。

「ありがとう。ひよりも、次は出られるといいね」

選ばれた女子生徒が、通りすがりに私へ笑いかけた。悪意はない。たぶん、本当にそう思っている。けれど、「次」という言葉が、胸の奥の薄い膜を指でなぞった。

私は何も返せなかった。

先生が、その女子生徒の背中を見送った。止めることも、訂正することもしない。彼女が舞台へ上がっていくと、先生は私のほうへ戻った。

「今の顔は、昨日より悪い」

「ありがとうございます」

「褒めていない」

「わかっています」

「わかっている顔ではない」

私はカセットケースを膝の上で裏返した。白い紙のラベルに、薄く線が残っている。何度も剥がそうとして、剥がしきれなかった跡のようだった。

「先生は、私に歌ってほしいんですか」

「それは、お前が決めることだ」

「でも、歌わなかったら、何も始まらない」

「始める必要があるのか」

思いがけない問いだった。

先生は、歌えとも、続けろとも言わなかった。ただ、必要があるのかと聞いた。私は舞台の上を見た。照明の白い円。その中心に立つために、選ばれた人たちは何度も練習してきた。私も同じだった。あの場所へ行きたかった。けれど、行きたかった理由を考え始めると、足元がなくなる。

「わかりません」

「そうだろうな」

「先生は、わからない私をどう思いますか」

「どうも思わない」

「冷たい」

「考え中の人間に、評価をつけるほうが失礼だ」

先生はカセットケースを指で軽く叩いた。

「ただ、ひとつだけ言っておく。今日、歌う場所がなくても、息をする場所まで失うな」

先生はそれだけ残し、音響担当の生徒に呼ばれて歩いていった。

私は舞台袖の椅子へ戻った。

手元のカセットを見ながら、鞄から古い再生機器を取り出す。電池の残量は少なかったが、テープを入れると、ぎこちない機械音のあとに再生が始まった。イヤホンは使わず、音量を一番小さくする。舞台のざわめきに紛れる程度の音だった。

遠い歓声。

マイクに触れた音。

歪んだギター。

そのあとに、歌い手の息が入った。

私は目を閉じた。

体育館の空気が、少しだけ遠くなる。舞台の上で誰かが話している声も、実行委員の指示も、機材を運ぶ音も、すべて薄い膜の向こうへ移っていく。残ったのは、古い録音の中で不安定に揺れる声だった。

高音の直前、歌い手は息を吸う。

きれいではない。吸い込む音が大きく、声の始まりも少し遅い。けれど、その遅れがあるから、次の音がどこから来たのかわかる。何もないところから突然現れたのではなく、迷った息の先で、ようやく立ち上がった声だった。

私は自分の喉元へ触れた。

歌う前に押さえる癖。

それは、喉を守るためではなく、喉が固まることを先に知らせるためだったのかもしれない。固まるな、と命じるために押さえていた。けれど命じられた喉は、ますます自由を失う。

テープの中で、歌い手が一度音を外した。

小さなずれだった。

その瞬間、私は音を止めたくなった。再生機器へ手を伸ばし、停止ボタンを押したくなる。けれど、歌は続いた。外れた音は消えず、次の音へ薄く重なり、そのまま曲の中に残った。

私は、歌詞ノートを開いた。

最初のページには、小学生の私が書いた文字がある。歌詞の一節を、意味もよくわからないまま何度も書き写していた。鉛筆の線は薄く、ところどころ濃くなっている。隣のページには、予選で失敗した箇所への細かなメモがあった。

ここは絶対に外さない。

ここは声を前へ。

ここで弱くならない。

私はその文字を、一本ずつ見た。

小学生の私は、外れても歌を続ける声に惹かれていた。少し大きくなった私は、外さない声になろうとしていた。好きだったものを守るために、好きだったものから遠ざかっていた。

ノートの余白へ、私は新しい言葉を書いた。

外れたあとに、残る息。

書いてから、すぐに消そうとした。けれど、鉛筆の先は紙の上で止まった。上手な言葉ではない。歌いたい理由とも呼べない。ただ、今聴こえたものを、今の自分が失くさないための印だった。

テープの中で、歓声が大きくなった。

私は小さく息を吸った。

舞台へ出るわけではない。誰かに聴かせるつもりもない。それでも、声を出してみたくなった。音源の歌詞を真似するのではなく、ノートに書いた一行を、音にしない程度の声でなぞる。

「外れたあとに……」

最初の声は、かすれて消えた。

私はもう一度息を吸った。肩が上がりそうになり、途中で気づいて下ろす。喉元へ伸びかけた指を、膝の上へ戻す。

「外れたあとに、残る息」

声は小さかった。けれど、今度は最後まで届いた。

歌ではない。独り言に近い。それでも、声を出したあとに、すぐ評価を探さなかった。音程は合っていたか。聞き苦しくなかったか。誰かが見ていなかったか。

確かめたい気持ちは残っていた。

ただ、その気持ちの隣に、確かめなくてもいい時間が少しだけあった。

「ひより」

幕の向こうから、結衣の声がした。

私は再生機器を止めた。古い音が途切れ、体育館のざわめきが一気に戻ってくる。カセットの回転が止まったあとの静けさは、音が消えたというより、次に何を聴くかを待っているようだった。

結衣が、黒い幕の隙間から顔を覗かせる。

いつもの笑顔はなかった。作ろうとしている気配もない。視線が私の顔へ行き、膝の上のノートと、カセットケースへ落ちる。それから、また私を見る。

「何してたの」

私はノートを閉じた。

「息をしてた」

言ってから、結衣の目がわずかに揺れた。

「そっか」

それだけ言って、彼女は舞台袖へ入ってきた。隣の椅子を引く。机の脚が床を擦り、体育館の遠い音に混じった。

結衣は、私に何も尋ねなかった。

大丈夫かとも、頑張ってとも、次があるとも言わなかった。

ただ、少し離れた隣に座った。

私はカセットケースを閉じ、鞄へしまった。ポケットの中のイヤホンに触れる。黒いコードが指へ絡み、いつものようにねじれた。けれど今日は、すぐにほどこうとはしなかった。

舞台の上で、次の出演者が名前を呼ばれた。

拍手が起こる。

私は幕の隙間から、白い照明を見た。あの場所に立てないことは、まだ痛かった。痛みはなくなっていない。落ちたという事実も、選ばれなかった名前も、私の中から消えていない。

それでも、息をする場所までなくなったわけではなかった。

隣で結衣が、膝の上に手を置いた。指先が一度だけ動き、何かを言いかけて止まる。

私は顔を上げなかった。

代わりに、ゆっくり息を吐いた。

幕の向こうでは、誰かが歌い始めている。声は少し震えていた。けれど、その震えは照明の下へ消えず、体育館の高い天井に触れてから、私のいる袖まで戻ってきた。

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