第6話 三枝晴彦の古いカセット

その夜、私は三枝先生に呼ばれた。
連絡は短かった。放課後、音楽室。来られるなら来い。句読点の少ないメッセージは、先生の声と同じだった。必要なことだけが置かれていて、こちらがどう受け取るかまでは面倒を見ない。
教室を出るころには、校舎の中に残っている生徒も少なくなっていた。文化祭前の廊下には、昼間の騒がしさの名残があった。壁には海を描いたポスターが何枚も貼られ、床には切り損ねた青い画用紙の細片が落ちている。誰かが笑いながら走っていったあと、窓の隙間から風が入り、紙片だけをゆっくり動かしていた。
私は一度、ポケットの中を確かめた。
蒼司から借りた片方だけのイヤホンがある。指先でコードを探し、ねじれをほどく。耳へ入れるつもりはなかった。ただ、そこにあることを確かめたかった。
音楽室の前まで来ると、扉の向こうから小さな機械音が聞こえた。何かを巻き戻している音だった。ぎゅる、ぎゅる、と古いテープが狭い場所を走っている。
扉を開ける。
部屋には三枝先生しかいなかった。窓はいつものように片方だけ開けられている。外はもう夜で、ガラスに映った音楽室の蛍光灯が、海の向こうの灯台みたいに白く浮かんでいた。冷めたコーヒーの匂いと、古い木の床の匂いが混ざっている。
先生は机の前に座り、古びたカセットデッキのつまみを調整していた。
机の上には、擦り切れたケースが置かれている。透明な蓋には細かな傷が走り、ラベルの白い紙は端から黄ばんでいた。手書きの文字は何度も擦られたように薄い。読めるのは、曲名らしい一行の最後に残った「夜」という字だけだった。
「座れ」
「何ですか、これ」
「座れと言った」
私は先生の向かいにある椅子へ腰を下ろした。座面が少し傾いていて、身体が机のほうへ持っていかれる。先生は私の顔を見ず、カセットをデッキへ差し込んだ。蓋が閉まると、内側で小さな部品が噛み合う音がした。
「聴け」
それだけだった。
私はケースと先生の手元を見比べた。
「曲名も、誰が歌ってるかも教えてくれないんですか」
「聴けばわかることを、先に言う趣味はない」
「蒼司と同じこと言う」
先生の指が、再生ボタンの上で一瞬止まった。
「柚木も聴かせたか」
「聴かせたというか……片方だけ、貸してくれました」
「そうか」
「先生が渡せって言ったんですか」
「言ってない」
「本当に?」
「私が生徒を操るほど暇に見えるか」
「見えます。何も言わずに、こっちが勝手に考えるように仕向けるから」
先生は薄く笑った。笑ったのか、息を吐いただけなのか、私には判別できなかった。
「考えすぎる生徒には、考えさせないほうが難しい」
「私、考えすぎてますか」
「自覚がないなら、もっと始末が悪い」
先生が再生ボタンを押した。
最初に聞こえたのは、音楽ではなかった。録音の向こうで誰かが椅子を引く音。マイクに触れたのか、低い衝撃音がひとつ入る。客席のざわめきが遠くで膨らみ、誰かの咳が混ざった。
それから、ギターが鳴った。
高音は少し潰れていた。低音は輪郭がぼやけ、音の始まりと終わりが正確にはわからない。今の音楽室にあるスピーカーなら、もっときれいに鳴らせるはずなのに、デッキはわざと古い傷を残しているようだった。
私は背筋を伸ばした。
知っている。
ギターの入り方も、歓声の間も、歌い手が最初の言葉を置くまでの呼吸も。幼いころ、何度も聴いた。小さなCDを親に買ってもらい、歌詞カードを開いたまま、意味もよくわからない言葉を口の中で繰り返した。
曲名は、まだ思い出せない。
けれど、身体は覚えていた。
歌い手が高音へ移る前、ほんのわずかに息を残す。声を押し出すために吸うのではなく、次の音が来る場所を空けるように吸う。息の音がマイクに拾われ、ギターのざらつきの上へ薄く重なった。
私は無意識に喉へ触れた。
「そこだ」
先生が言った。
「何がですか」
「今、喉を押さえただろう」
「癖です」
「癖には理由がある」
「緊張すると固くなるから」
「固くなる前に押さえている。つまり、固くなることを知っている」
先生は再生音を止めなかった。歌声が部屋の隅へ流れ、開いた窓から夜の海へ抜けていく。
「お前は声が出ないんじゃない。出す前に、出した声の評価を始める」
私は反論しようとした。けれど、口を開いたまま言葉が止まった。
先生は私の声を聴くとき、いつも目線を少し外す。私の顔ではなく、息の動きや肩の上がり方を見ている。だから、隠したつもりのものほど見つかる。
「一度、歌え」
「今ですか」
「今」
「この曲を?」
「いつもの練習曲でいい」
先生はデッキの音量を少し下げた。古いライブ音源が、部屋の端でまだ息をしている。私は立ち上がり、窓の近くへ移動した。床板の継ぎ目に、細い砂が入り込んでいた。靴底がそこへ触れるたび、かすかなざらつきが返ってくる。
譜面を開く。
予選で使った曲だった。紙の余白には、私の字で細かい指示が並んでいる。ここは半拍遅らせる。高音の前で息を増やす。音程を落とさない。最後まで声量を保つ。
文字を見ていると、あの日の舞台袖が戻ってきた。
審査員の机。暗い客席。誰かの咳。自分の声が、隣の出演者より弱く聞こえてはいけないという焦り。歌い出しから最後まで、私は歌そのものではなく、歌っている自分がどう見えるかを気にしていた。
譜面を持つ指に力が入った。
「歌わないのか」
「歌います」
私は一度だけ息を吸った。
歌い出しは、問題なかった。音程も合っている。声は細いが、出ている。けれど二小節目で、声の奥に硬いものが混ざった。高音へ向かう前から肩が上がり、息が狭くなる。譜面に書いた通りに歌おうとするほど、声は私から離れていった。
途中で止めた。
「……すみません」
「謝る必要はない」
「でも、歌えませんでした」
「歌った。途中まで」
「同じです」
「違う」
先生はデッキを止めた。急に部屋が静かになった。遠くで車が一台走り、タイヤが濡れた路面を擦る音がした。窓から入った風が、譜面のページをめくる。
「お前は、最後まで歌い切れば歌えたことになると思っている。音を外さなければ、声が震えなければ、選ばれれば、ようやく歌ったことになる。だが、それは歌の話ではない」
「じゃあ、何の話ですか」
「誰に見せるかの話だ」
先生は机の上のカセットケースを指で押さえた。擦れた透明な蓋が、蛍光灯を鈍く返す。

「この録音には、外れた音が残っている。マイクの擦れる音も、客席の咳も、歌い手が息を探した時間もだ。録音としては欠点が多い。だが、だから消すのか」
「消さないから、残ってるんでしょう」
「そうだ。残したかったのか、消せなかったのかまでは、本人にしかわからない」
「先生は、どうしてこの曲を持ってるんですか」
先生はすぐに答えなかった。
デッキの上に置かれた手の甲に、古い傷のような細い線が見えた。先生はその指で再生ボタンの端をなぞり、押すでもなく離した。
「昔、俺が音を失敗した夜に、知り合いからもらった」
「先生も、失敗したんですか」
「失敗しない人間は、音楽を続ける必要がない」
「それ、どういう意味ですか」
「失敗しないなら、最初から何も賭けていないということだ」
「でも、先生は失敗しても続けた」
「続けたとは言っていない」
「やめたんですか」
「一度、やめた」
先生はカセットのラベルを見下ろした。薄れた文字を読むというより、そこに残っている傷を確かめているようだった。
「うまくなれば、次は認められると思っていた。音を正しくすれば、必要とされると思っていた。だから、間違えないようにした。間違えなければ、誰にも切り捨てられないと思った」
私は息を止めた。
それは、私が考えないようにしていたものとよく似ていた。歌えば褒められる。褒められれば、また歌う。期待に応えれば、そこにいていい。少しずつ形を変えながら、同じ考えが自分の中へ入り込んでいた。
「でも、違った」
先生は言った。
「正しい音は、正しい場所に置ける。だが、正しいだけの音は、置いた人間がいなくなれば終わる。誰が歌っても同じだからだ。お前の声が細いことや、途中で揺れることを、俺は欠点だとは思わない。問題は、それを隠そうとして別の声を作っていることだ」
「別の声って」
「勝ちたい声だ」
その言葉が、音楽室の中央に落ちた。
私は、譜面を見た。細かな書き込み。守るべき音。外してはいけない場所。全部、自分を助けるために書いたはずだった。けれど、いつからか、それは自分を縛る線になっていた。
「勝ちたい音が混じってる」
先生はもう一度言った。
「誰に勝ちたいのかは知らない。柚木か、審査員か、昨日までのお前か。だが、その音は、相手を見ているときにしか鳴らない」
「……蒼司にも、わかるって言われました」
「柚木は耳がいい」
「先生と同じことを言うんですね」
「俺のほうが先に見つけた」
冗談なのか、本気なのか、わからない声だった。けれど、少しだけ肩の力が抜けた。
「じゃあ、どうすれば消せますか」
「消すな」
「でも、勝ちたい気持ちがあると、また同じように歌う」
「あるものをないことにすると、別の場所から漏れる。悔しさも、嫉妬も、認められたい気持ちも、お前の一部だ。きれいに整理してから歌おうとするな」
先生は再生ボタンを押した。
歌声が戻る。外れた音のあと、歌い手は一拍遅れて次の言葉へ入った。そこで声が少し掠れた。客席から小さな笑い声が起こり、すぐに拍手が重なる。歌い手は止まらなかった。
「聴け」
先生の声が、音の隙間へ入る。
「この人は、外した音を消していない。次の音で埋めてもいない。ただ、そのまま先へ進んでいる」
私は耳を澄ませた。
外れた音は、消えていなかった。次の旋律の下に薄く残り、曲全体の輪郭を少しだけ変えている。間違いの跡があるから、そのあとに続く声の動きがわかる。そこにいた人間が、一度揺れて、それでも戻ってきたことがわかる。
「うまく歌うより、何を残すかだ」
先生が言った。
その言葉は、思ったより近くで響いた。耳ではなく、胸の奥に直接置かれたようだった。
「何を残したいか、今すぐ答えろとは言わない。ただ、次に歌うとき、選ばれるための音だけを選ぶな。お前が聴いていて、消したくない音をひとつ探せ」
「そんなの、見つかるんですか」
「探さなければ見つからない」
「見つからなかったら?」
「見つからないまま歌えばいい」
私は先生を見た。
「それで、いいんですか」
「いいかどうかを、私が決める話ではない」
先生はカセットをデッキから取り出した。テープの回転が止まり、部屋に残った音が急に広くなる。夜の風が窓から入り、私の頬を撫でた。髪が目元へかかり、指で払うと、耳のそばに冷たい空気が触れた。
先生はカセットケースを私へ差し出した。
「持っていけ」
「これを?」
「返せるときに返せ」
「いつですか」
「お前が、この音を聴いても自分を恥ずかしいと思わなくなったら」
私はケースを受け取った。擦れた表面は思ったより温かかった。先生の手の温度が残っているのか、長いあいだ機械のそばに置かれていたせいなのか、わからない。
「先生」
「何だ」
「この曲、誰のために歌ってるんですか」
先生は少しだけ目を細めた。
「それを本人以外が決められると思うか」
「思いません」
「なら、本人に聴け」
カセットを胸元へ抱え、私は音楽室を出た。
廊下はさっきより暗かった。窓の外では、港の灯りが水面に細く伸びている。私は歩きながら、ポケットの中のイヤホンにも触れた。蒼司から借りた片方と、三枝先生から渡されたカセット。どちらも、私に答えを教えなかった。
ただ、音を残した。
校舎を出ると、海風が正面から吹いてきた。頬が冷え、制服の裾が後ろへ引かれる。坂道は夜の中で勾配を増していた。上るのか下るのか、一瞬わからなくなるほど暗い。
私は坂を下った。
足元のアスファルトに、街灯の光が途切れ途切れに落ちている。その明るい場所と暗い場所をひとつずつ踏みながら、私はさっきの歌声を思い出していた。
外した音のあとに続いた、次の音。
私はあの音を、消したくないと思った。
それが自分の声なのか、誰かの声なのか、まだわからない。けれど、わからないままでも、耳を澄ますことはできる。ポケットの中で、イヤホンのコードが指に絡んだ。
私は立ち止まって、絡まりをほどいた。
海の向こうで、波が崩れる。音は遠く、何度も形を変えていた。
それでも、途切れなかった。
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