5話 防波堤の向こう側

放課後、私は結衣の誘いを断った。

断った、といっても、はっきり言ったわけではない。結衣が鞄を肩にかけながら、「今日も一緒に帰る?」と訊いたとき、私は机の中の譜面を見たまま、返事をしなかった。結衣は二度、私の顔を覗き込んだ。それから、髪を結び直すときの癖で、耳の横の髪を指に巻いた。

「ひより」

「ごめん。今日は、ひとりで帰る」

「海のほう?」

「うん」

「そっか」

いつもなら、そこで「じゃあ私も途中まで」と言う。けれど、今日は言わなかった。言わない代わりに、鞄から小さな紙袋を取り出して、私の机の端へ置いた。

「昼のメロンパン。食べなかったでしょ」

「いらない」

「知ってる。だから、今すぐ食べろって意味じゃなくて。帰ってからでも、明日の朝でも」

紙袋の中で、パンの包みがかすかに擦れた。

「結衣」

「なに」

「そういうのも、今は……」

「うん。わかってる」

結衣は先に言葉を切った。笑顔を作らなかった。作らない顔は、彼女の顔なのに、どこか見慣れなかった。

「置いておくだけ。ひよりが持って帰るかどうかは、ひよりが決めて」

私は紙袋を見た。受け取ることも、押し返すこともできず、指先だけが机の縁をなぞった。

「……ありがとう」

声にすると、喉の奥が少し痛んだ。

結衣はそれ以上何も言わず、教室を出ていった。扉が閉まったあと、廊下から彼女の足音が遠ざかる。いつもなら誰かに声をかけ、笑い声を混ぜ、空気を動かしながら歩いていく。その音が今日は一度も聞こえなかった。

私は紙袋を鞄へ入れ、音楽室を出た。

校舎裏へ続く廊下は、夕方の影が長く伸びていた。窓の外では、文化祭の飾りつけに使う色画用紙が、風に煽られて何枚か飛んでいる。誰かが追いかけ、誰かが笑っている。校舎の中には、まだ明日のために動いている人たちがいた。

選ばれた人たちには、明日がある。

そんな考えが浮かんで、すぐに自分で嫌になった。選ばれた人たちだって、きっと同じように緊張している。失敗するかもしれない。声が震えるかもしれない。それでも、立つ場所が用意されている。

私にはない。

校舎裏の坂道へ出ると、風が正面から吹いてきた。海の匂いがする。潮と、濡れたコンクリートと、どこか遠くで焼かれている魚の匂いが混ざっていた。

坂は、校舎から港へ向かってゆるく下っている。昼間ならただの近道にしか見えないのに、放課後のこの時間になると、道の傾きが妙に露骨になる。歩いているだけなのに、身体が前へ持っていかれる。立ち止まれば、後ろから誰かに押されているような気がした。

私は何度も、制服の袖口をつまんだ。

音楽室で蒼司に言ったことが、まだ耳の奥に残っている。

同情ならいらない。

あんなふうに言いたかったわけではない。けれど、蒼司があまりに何も言わないから、私の中の言葉まで勝手に尖っていった。彼がどんな顔をしていたのか、思い出そうとすると、閉じた楽譜の表紙と、紙に沈んだ爪の先ばかりが浮かぶ。

坂の途中にある古い防波堤が見えてきた。

コンクリートの壁は潮風に削られ、ところどころ黒ずんでいる。手すりの根元には細い草が生え、海側へ向かって揃うように傾いていた。

その前に、蒼司が立っていた。

彼は制服のポケットに手を入れ、海を見ていた。私の足音が近づいても振り返らない。ただ、肩のあたりだけがほんの少し動いた。待っていたのか、偶然そこにいたのか、私には判断できなかった。

「なんで、ここにいるの」

私が言うと、蒼司はしばらく海を見たまま黙っていた。

防波堤の向こうで波が崩れた。白い泡が石の隙間へ入り込み、遅れて引いていく。風が強く、私の髪が頬に張りついた。指で払っても、すぐまた戻ってくる。

「話す場所じゃないから」

蒼司が言った。

「学校が?」

「音楽室も、教室も」

「じゃあ、ここなら話せるの」

「話さなくても、済む」

私は言い返しかけて、やめた。

たしかに、ここでは言葉が長く残らない。口から出た声は風にちぎられ、波の音の中へ混ざっていく。うまく言えなかったことも、途中でやめたことも、相手に届かなかったふりをして消えていく。

私は防波堤の上へ腰を下ろした。昼間の熱がまだコンクリートに残っていて、制服越しに太腿へ伝わってくる。蒼司は私から少し離れた場所に立った。いつもそうだった。近づきすぎない。けれど、去るほど遠くもない。

彼は譜面ケースから再生機器を取り出した。

「今日も、あれ聴くの」

「聴きたいなら」

「聴きたいかどうか、まだわからない」

「わからないまま、聴けばいい」

その言葉は、音楽室で聞いたときよりも、ここでは自然に聞こえた。わからないものを、わからないまま置いておく。海はそれを許しているように見えた。

蒼司が再生位置を調整している。曲の頭ではなく、観客のざわめきが遠く混じり始める場所。画面を見つめる彼の親指が、わずかに止まった。

「そこ、毎回同じ?」

「少し違う」

「何が」

「歓声の入り方」

私は蒼司の横顔を見た。

「そんなの、わかるの」

「わかる。昨日は右側の客席が少し遅い。今日はたぶん、別の会場」

「同じ音源なのに?」

「録音の中の空気は同じじゃない」

彼はそこで言葉を止めた。

片方のイヤホンを私へ差し出す。私は一拍だけ迷ってから受け取った。彼の指が近くにある。触れていないのに、風より細い温度が耳のそばを通った。

イヤホンを耳へ入れる。

最初に、遠い歓声が聞こえた。次に、歪んだギター。音は少し潰れていて、高音の端には砂のようなざらつきがある。歌い手が息を吸う音が、マイクに近すぎる距離で拾われていた。

その息が、私の耳の奥へ入り込んできた。

喉を押さえた。歌うときに固くなる場所が、音を聴いているだけでゆるんでいく。

曲の途中で、歌い手が音を外した。

ほんのわずかなずれだった。けれど私は、それを聞き逃さなかった。音程が下がり、次のフレーズへ入るまで、半拍にも満たない空白が生まれる。

それでも、歌は続いた。

「……好きなんだね」

私が言うと、蒼司は海のほうを見たまま答えた。

「何が」

「この曲」

「曲というより、録音」

「違いがわからない」

「音がきれいかどうかだけで聴いてないから」

彼はイヤホンのコードを指で押さえた。細いコードが、風に煽られて制服の胸元へ触れる。

「きれいに録れてるものは、きれいなまま終わる。これは、音が外れたところも、客が騒いだところも、マイクが擦れたところも残ってる。誰かが直さなかった音が、そのまま残ってる」

「それがいいの」

「わからない」

「蒼司も、わからないんじゃん」

「わからないものを、残しておくのは嫌いじゃない」

私は海を見た。波は同じ形で来ることがない。崩れる位置も、泡の広がり方も、毎回少しずつ違っている。それなのに、遠くから見ると、どれも同じ波に見えた。

「前の学校で、落ちた」

蒼司が言った。

急だった。私は彼のほうを見た。けれど、蒼司は海を見ている。私に向かって言ったのではなく、海へ向かって落とした言葉のようだった。

「何に」

「コンクールの選抜メンバー」

「吹奏楽の?」

「うん」

「蒼司でも、落ちるんだ」

「俺でも、って何」

「だって、成績もいいし。音も外さないし。何でもできそうに見えるから」

「音を外さないことと、選ばれることは別」

蒼司はそう言ってから、少し黙った。

「本番の三日前に、パートを外された。代わりに入ったやつは、技術なら俺より下だった。けど、指揮者の求める音に合わせるのがうまかった。俺は合わせなかった。合わせられなかったのかもしれない」

「それで、怒らなかったの」

「怒った」

「見えなかった」

「見せなかった」

「どうして」

「見せたら、負けが本物になる気がしたから」

その言葉は、海風よりも重かった。

蒼司は手すりに指を置いた。金属の冷たさで、指先が白くなる。顔には何も出ていない。けれど、力の入り方だけは隠せていなかった。

「本番のあと、部室に戻ったら、俺の譜面だけが机の端に置かれてた。片づける人間が、置き場所に困ったんだと思う。捨てるほどではない。でも、誰かが使うわけでもない。そういう位置だった」

私は、何も言えなかった。

「それから、部活に行かなくなった。誰かにやめろと言われたわけじゃない。来てもいいと言われた。でも、来てもいい場所と、いていい場所は違う」

蒼司の声は淡々としていた。だからこそ、そこに残ったものを想像してしまう。誰にも追い出されていないのに、自分から戻れなくなる。負けたことより、負けたあとに立てる場所がなくなることのほうが、長く身体に残るのかもしれない。

「転校してからも、吹いてないの」

「吹いてない」

「音楽、嫌になった?」

「嫌になったなら、こんなもの聴いてない」

蒼司はイヤホンを指で軽く叩いた。

「でも、吹く場所はまだ決めてない」

「決められないんじゃなくて?」

「同じことだろ」

「違うよ」

私は自分でも驚くほど早く言い返していた。

「決められないのと、決めてないのは違う。決めてないなら、いつか決めるかもしれない。でも、決められないって言ったら、自分には選べないみたいに聞こえる」

蒼司は私を見た。

いつもの短い視線ではなかった。私の言葉の中から、何かを測ろうとしているような目だった。私はその目に見つめられると、すぐに逃げたくなる。けれど今日は、逃げなかった。

「ひよりは、選べると思ってるの」

「わからない」

「また」

「わからないけど、落ちたことと、もう歌えないことは同じじゃないと思いたい」

自分で言いながら、胸の奥が痛んだ。まだ、思いたいだけだった。歌えると確信したわけではない。歌いたい理由も、誰に勝ちたかったのかも、何ひとつ整理できていない。

「私、蒼司に勝ちたかったのかもしれない」

蒼司は黙っていた。

「音楽室で初めて歌を聴かれたとき、蒼司の目が、私の声を測ってるみたいに見えた。どこまで出るのか、どこで震えるのか、全部知られていく感じがして、嫌だった。だから、下手だと思われたくなかった。蒼司より弱い声だと思われたくなかった」

風が、髪を乱した。頬に張りついた髪が、涙の跡のように冷たかった。

「それで、予選でも、誰かに勝たなきゃって思ってた。審査員に選ばれたいだけじゃなくて、蒼司の前で負けたくなかった。でも、蒼司は予選に出てないのに。私、誰と戦ってたんだろう」

「俺も、選ばれたかった」

蒼司が言った。

「俺も、選抜に入りたかった。誰かより上にいたかった。だから、勝ちたい気持ちが悪いとは思わない」

「でも、それだけじゃなかったんでしょ」

「たぶん」

「たぶんって、便利だね」

「便利だから使ってる」

ほんの少しだけ、蒼司の口元が動いた。笑ったのかどうか、私にはわからなかった。ただ、そのわずかな変化を見た途端、胸の奥の硬い部分が少し崩れた。

「蒼司は、今もその学校のこと恨んでる?」

「恨んでない」

「本当に?」

「恨む理由を探すのをやめた」

「それで、平気になった?」

「平気ではない」

答えは、すぐには続かなかった。

「平気じゃないけど、平気なふりを続けるのにも飽きた」

蒼司はイヤホンを外した。片方の耳からコードが離れ、風に揺れる。私はまだ自分の耳から外せずにいた。音は止まっているのに、さっきの歌声が身体の内側で続いている。外した音。遅れた息。それでも次へ入っていった声。

「私も、平気なふりはしてないよ」

「してない」

「してる?」

「しようとして、失敗してる」

私は思わず蒼司を見た。

「何それ」

「笑おうとして、頬だけ固まる」

その指摘に、顔が熱くなった。自分でも気づいていたことを、他人の口から言われると、恥ずかしさと安堵が一緒に来る。

「見てたんだ」

「見える」

「見ないでよ」

「無理」

「無理って言うな」

「じゃあ、見ないようにはする」

「それも嫌」

蒼司は黙った。

波が防波堤へぶつかる。白い飛沫が跳ね、私の靴の先を濡らした。冷たいはずなのに、そこだけ感覚がはっきりした。

私はイヤホンを外し、蒼司へ返そうとした。

けれど、彼の手は伸びてこなかった。

「返さないの」

「持っていていい」

「またそれ」

「今、聴きたいなら」

「まだ、わからない」

「なら、わからないまま持っていればいい」

私はイヤホンを見下ろした。

片方だけの黒いイヤホン。二人で使えば、同じ音を聴ける。けれど、聞こえ方まで同じになるわけではない。蒼司の耳に届いた音と、私の耳に届いた音は、同じ録音なのに、きっと違う場所へ残る。

それでも、同じ時間に聴いたという事実だけは残る。

「蒼司」

「なに」

「私、まだ歌うかどうかわからない」

「うん」

「予選に落ちたこと、悔しい。選ばれたかった。誰かに勝ちたかった。それは消えないと思う」

「消さなくていい」

「でも、それだけで歌うのは嫌だ」

蒼司は答えなかった。

私は海を見た。夕焼けはもう薄く、水平線の近くにだけ赤い色が残っている。港の灯りがひとつずつ点き始め、風に揺れる水面へ細長く伸びていた。

「勝ちたい気持ちがなくならなくても、別の音を探していいのかな」

ようやく言うと、蒼司は少しだけ息を吐いた。

「それを決めるのは、ひよりだろ」

「冷たい」

「対等にしてる」

その言葉に、私は返事をしなかった。

慰められているわけではない。励まされてもいない。蒼司は私の代わりに、私の歌う理由を決めようとしない。ただ、自分も落ちたことがあると示し、同じ場所に立つための距離を差し出している。

それは、思っていたよりずっと静かな行為だった。

私は立ち上がった。坂を上って帰るには、足が少し重い。蒼司も防波堤から降りた。先に歩き出すと思ったのに、彼は私の隣へ並んだ。

歩幅は、私に合わせているようにも、偶然同じになったようにも見えた。

坂を上る。来たときとは反対に、今度は身体を後ろへ引かれる。港の灯りが少しずつ下がり、校舎の窓が高くなっていく。風はまだ強かった。頬に触れ、耳の近くを抜け、ポケットの中のイヤホンを揺らした。

蒼司は何も言わなかった。

私も言わなかった。

けれど、ひとりで下ったはずの坂を、帰りは同じ歩幅で上っていた。私の耳には、まだ古いライブ音源の、外れた音が残っている。

崩れたまま、それでも次の音へ進んでいく声だった。

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