第4話 音楽室の机の上

翌日の放課後、音楽室には西日の色が溜まっていた。
窓を閉め切ると、古い木の床と譜面の紙が混じった匂いが濃くなる。だから三枝先生は、いつも片方の窓だけを少し開けている。隙間から入る海風が、譜面台の紙を一枚ずつめくっていく。遠くの埠頭で金属同士がぶつかり、乾いた音が波の向こうから遅れて届いた。
私は練習用の椅子に座り、机の上へイヤホンを置いた。
昨夜、蒼司から渡されたものだった。
黒いコードは細く、途中で一度だけ結び目のようにねじれている。片方しかない。もう片方は、あのとき蒼司の耳にあった。音楽室を出てからも、その重みが耳の近くに残っているような気がして、家へ帰ってから何度も自分の耳に触れた。
イヤホンは、私の手元に置かれている。
それだけのことなのに、机の上に小さな穴が開いているようだった。指を伸ばせば落ちてしまいそうで、触れずにいると、どこかへ消えてしまいそうだった。
私はコードを巻き直した。巻いて、ほどいて、また巻いた。
その向かいで、柚木蒼司は楽譜を読んでいた。
吹奏楽部時代のものらしい譜面ファイルを開き、ページの角を親指で押さえている。紙が少し反ったところを何度も撫で、音符の並びを整えるようにしていた。楽譜が乱れているわけではない。蒼司は、乱れていないものをさらに正しい位置へ戻そうとしている。
その手つきが、私には落ち着きすぎて見えた。
昨日、私は落ちた。
夜になっても、喉の奥には掲示板の白さが残っていた。家に帰ってから何を食べたのか、母に何を言われたのか、父がどのくらい長く新聞を畳んでいたのか。覚えていることはあるのに、どれも膜を一枚隔てた向こう側にあった。
なのに蒼司は、いつもと同じ顔で音符を追っている。
私は机の上のイヤホンを指で押した。
「あれ、何」
蒼司はすぐには答えなかった。楽譜の端を揃え、それから一度だけ私を見る。目が合う前に、彼の視線が私の手元へ落ちた。
「聴けばわかる」
声は低く、短かった。
「わからなかったから聞いてる」
「聴けば、わかる」
「それ、答えになってない」
「答えを聞くために聴くものじゃない」
「じゃあ、何のために聴くの」
蒼司は楽譜を閉じた。表紙に書かれた学校名の一部が、西日の中で見えた。東京にある、私立の中高一貫校。転校してきた理由を、私はまだ詳しく知らない。尋ねようとすると、彼は決まって一歩だけ後ろへ下がる。椅子に座っていても、立っていても、その距離は変わらなかった。
「……昨日、勝手に渡したよね」
「渡した」
「何も言わずに」
「言う必要がなかった」
私は笑おうとした。頬だけが引きつった。
「蒼司にはそうなんだ。人が落ちたときに、何も言わずにイヤホン渡せば終わりなんだ」
「終わってない」
その返事は、思ったより早かった。
私は顔を上げた。蒼司の表情は変わっていない。けれど、閉じた楽譜の上に置かれた指が、わずかに強くなっていた。爪の先が紙へ沈んでいる。
「じゃあ、何なの」
「終わらせるためじゃない」
「慰めるため?」
「違う」
「同情?」
蒼司は一度、息を止めたように見えた。顔色は変わらない。けれど、返事の前の間が、昨日までより長かった。
「同情なら、もっと説明する」
「説明してよ。何で私にあれを渡したの。昔好きだった曲だから? 私が落ちてかわいそうだったから? それとも、落ちた人間が近くにいると、自分の失敗も思い出せるから?」
「勝手に決めるな」
蒼司の声が、初めて少しだけ硬くなった。
「決めてない。聞いてる」
「聞き方が違う」
「じゃあ、どう聞けばいいの。蒼司は何も言わないから、こっちが勝手に考えるしかないでしょ。私が落ちたことを見て、何か思ったんじゃないの。だったら、言えばいいじゃん。俺も落ちたことがあるとか、歌をやめるなとか、次があるとか。そういう、わかりやすいことを」
「言えば、軽くなるのか」
「知らないよ」
「知らないのに、言わせようとする」
「蒼司は知ってるの?」
「知らない」
「じゃあ、同じじゃん」
「同じじゃない」
蒼司は、そこで一度視線を外した。窓の向こうへ流れていく海風を見るように、目だけを横へ向ける。
「俺は、落ちた人間に何を言えばいいか知らない。だから、余計なことを言わなかっただけだ」
その言葉のあと、音楽室には風の音だけが残った。
譜面台の紙が大きくめくれ、裏側の白さが一瞬だけ光る。掲示板の紙と同じ白さだった。私は反射的に、机の上のイヤホンを握った。黒い樹脂が指の腹へ食い込む。
扉の近くで、靴底が止まった。
高瀬結衣が立っていた。
いつ入ってきたのかわからない。手にはコンビニの袋があり、その中からメロンパンと紙パックの飲み物が見えている。結衣は私たちを見て、いつものように先に笑おうとした。
けれど、今日は笑顔が完成しなかった。
「これ……ひより、食べる?」
私は袋を見た。
「いらない」
「お昼から何も食べてないじゃん」
「食べたくない」
「でも、メロンパンならいけるかもよ。ほら、半分にするし。クリーム入ってるやつじゃなくて、普通の――」
「いらないって言ってる」
結衣の手が止まった。
その顔を見ると、胸の奥がまた狭くなった。結衣は私を心配している。心配しているから、食べ物を買ってきた。そういうことはわかる。わかるのに、優しさがひとつずつ積み重なるたび、逃げ道が塞がっていく。
「ごめん。今、そういうの無理」
「そういうのって?」
「明るくされるのが無理」
結衣の指が、袋の持ち手を握り直した。
「明るくしてないよ」
「してる」
「してない。普通に話してるだけ」
「それが明るいんだよ」
「何それ。じゃあ、どうすればいいの? 黙ってればいい? 黙ってたら、ひよりはひよりで、誰も何もしてくれないって思うじゃん」
「思わない」
「思うよ」
「思わないって言ってる」
「じゃあ、何でそんな顔してるの」
結衣の声が少し高くなった。いつもの、人前で空気を回すときの高さではない。焦ったときにだけ出る、逃げ場を探している声だった。
「落ちたからでしょ」
私は言った。
「私が落ちたから。私が悔しいから。私が勝手に息を詰まらせて、勝手に歌えなくなったから。結衣が食べ物を買ってきても、蒼司がイヤホンを渡しても、私の声は戻らない。なのに、二人とも何かすれば戻るみたいな顔をする」
「そんな顔してない」
蒼司が言った。
私は振り向いた。
「じゃあ、どんな顔?」
蒼司は答えなかった。
答えないことが、いちばん腹立たしかった。彼の沈黙は、私の言葉を受け止めているようにも、拒んでいるようにも見える。そこに何があるのか、私はいつも読み違える。
「蒼司は、私が落ちたのを見てどう思ったの」
「……」
「ほら。言えないじゃん」
「言う必要がない」
「またそれ」
私は机の上のイヤホンを掴んだ。黒い先端が指の間で冷たかった。
「これも返す」

蒼司が顔を上げた。
「いらない」
「最初から、私にくれるつもりじゃなかったんでしょ。半分だけ貸しただけ。だったら返す」
「持っていていい」
「どうして」
「今、聴きたいなら」
「聴きたいかどうかもわからない」
「なら、聴かなければいい」
「そんな簡単に言わないでよ!」
声が音楽室の壁にぶつかって戻ってきた。
自分の声が、予選の日より大きく響いた。喉は詰まっているのに、怒鳴ることだけはできる。歌うときには出なかった力が、こんな形で出てくる。
「簡単じゃない。何をしても、私の中に落ちたっていうのが残ってる。あの紙に名前があって、選ばれた人の名前が上にあって、私の名前が下にあって。それを見た人がいて、結衣も、蒼司も、先生も、家の人も、みんな私が落ちたって知ってる。次があるとか、まだ歌えるとか、そんなこと言われても、あの紙は消えない。私は落ちたままなのに、みんな先へ行こうとする」
結衣は袋を胸の前で抱えた。
「先へ行こうとしてるんじゃないよ」
「同じじゃん」
「違う」
「何が違うの」
「ひよりを置いていきたくないだけ」
結衣は早口になった。言葉が途中でつかえても、止めようとしなかった。
「私、ひよりが落ちたことを軽く見てない。悔しくないとも思ってない。ずっと見てたから。小さい頃から、ひよりが歌う前に喉を押さえることも、家で小さい声から始めて、途中でやめることも、何度も見てきた。だから、今回も、ひよりなら大丈夫だと思ってた。大丈夫って言えば、ひよりが少し息をできると思った」
「できなかった」
「うん。できなかった」
結衣の声が低くなった。
「私のやり方が悪かった。わかってる。でも、ひよりが何も言わないと、私はどうすればいいかわからない。ひよりが一人で沈んでいくのを見てるだけなんて、できないよ。友だちだからとか、幼なじみだからとか、そういうきれいな理由じゃなくて、私が怖いから。ひよりが私の知らないところまで行って、もう戻ってこなくなるみたいで怖いから」
言葉の終わりが、少し震えた。
結衣はすぐに顔をそむけた。泣いてはいない。けれど、泣くより前の顔をしていた。笑って隠すことも、話題を変えることもできず、ただ自分の言葉の前に立たされている。
私はイヤホンを握ったまま、何も言えなかった。
蒼司が、窓の外へ目を向けた。海は西日を受け、白い筋をいくつも作っている。風が強いのか、波頭だけがせわしなく崩れていた。
「音源、聴くか」
蒼司が言った。
結衣が彼を見る。
「今?」
「今」
「こんな空気で?」
「こんな空気だから」
私は反論しようとした。でも、蒼司はもう再生機器を取り出していた。画面を開き、指先で再生位置を細かく合わせている。曲の頭ではなく、少し前。遠い歓声が混じり始める箇所だった。
「昨日の曲?」
結衣が訊いた。
「そう」
「それ、ひよりが昔好きだったやつだよね。小学生のとき、夏祭りの帰りにずっと歌ってた」
「歌ってない」
「歌ってたって。歌詞、半分しか覚えてなかったけど」
「覚えてた」
「じゃあ、歌ってみてよ」
「今は無理」
「うん、そうだよね」
結衣は言って、笑わなかった。
蒼司が、片方のイヤホンを私へ差し出した。
昨日と同じ所作だった。けれど、今日は受け取るまでに時間がかかった。耳へ入れると、冷たい樹脂が皮膚に触れ、そのあとに蒼司の指先が一瞬だけ近づいた。触れてはいない。それでも、耳のすぐそばに誰かの体温が残ったように感じた。
再生が始まる。
最初に聞こえたのは、観客のざわめきだった。拍手になりきらない手の音。遠くで誰かが叫び、マイクが一度だけ擦れる。次に、歪んだギターが入った。音はきれいではない。高音の端が潰れ、低音は少し遅れて響く。
私は、あの音が好きだった。
好きだったことを、忘れていたわけではない。ただ、好きだと思うことに、いつからか理由を求めていた。歌がうまいから。声がきれいだから。誰かに評価されているから。そういう説明ができなければ、好きだと言ってはいけないような気がしていた。
ライブの音源では、歌い手の息がはっきり聞こえた。
高音へ入る直前、ほんのわずかに吸う。隠しきれない息の音。客席の歓声にかき消されそうになりながら、それでも声が立ち上がる。
私は無意識に、自分の喉へ指を当てていた。
蒼司は音量を変えなかった。結衣も何も言わない。三人で同じ曲を聴いているのに、イヤホンの中には私と蒼司の二人分の呼吸しかないように思えた。結衣は少し離れたところにいて、けれど同じ音を聴いている。
曲の途中で、ボーカルが一度だけ音を外した。
ほんの少しだった。音程が下がり、次のフレーズへ戻るまでに遅れが生じる。私はそのずれを聞き逃さなかった。けれど、聴き終わったあとに残ったのは、外した事実ではなかった。
外したあとも、歌が続いていたことだった。
私はイヤホンを外した。
「これ、古いね」
結衣が言った。
「録音が悪い」
蒼司が答える。
「でも、いい」
「そう」
「蒼司って、こういうのばっかり聴いてるの?」
「こういうのが残るから」
「残るって、何が?」
蒼司はすぐには答えなかった。親指でイヤホンの端を押さえ、視線を床へ落とす。床板の継ぎ目に、小さな砂が入り込んでいる。
「きれいな音は、きれいなまま終わる。これは、終わったあとも少し残る」
「それがいいの?」
「わからない」
「蒼司もわからないんじゃん」
「わからないことを聴くのは、嫌いじゃない」
私は机の上の譜面を見た。予選に使った曲の歌詞が、細い鉛筆の線で区切られている。息を入れる場所。声を張る場所。落とさない音。歌詞より先に、正しさを書き込んだ跡だった。
結衣が、メロンパンの袋を開けた。
「ひより」
「なに」
「半分だけなら?」
私は袋の中を見た。甘い匂いが、古い紙の匂いに混じる。
「……半分」
結衣は少し驚いた顔をして、それから、笑うのを我慢するように唇を結んだ。袋からメロンパンを取り出し、手で割る。割れ目から細かな砂糖が机へ落ちた。
その半分を受け取る。
甘さは、思ったより強かった。喉の奥に張りついた膜が、少しだけ剥がれる。全部は無理でも、半分なら入るものがある。
蒼司は窓際に立ったまま、イヤホンを片方だけ耳へ戻した。
私は、返さなかった。
机の上に置くこともできたのに、指先でコードを巻き直し、そのまま制服のポケットへしまった。
「持って帰っていい?」
蒼司がこちらを見る。
「いい」
「いつ返すかは?」
「決めてない」
「そう」
それだけで、会話は終わった。
けれど、昨日までのような終わりではなかった。音楽室にはまだ西日があり、窓から海の匂いが入ってくる。結衣は残ったメロンパンを食べながら、何も話さずにいた。蒼司は譜面のページを開き、また角を揃え始めた。
私は耳の近くに残る感触を、何度も確かめた。
片方だけのイヤホンは、ポケットの中で小さく揺れている。
そのたびに、さっきの歌声の、外れた音が戻ってきた。崩れたまま、それでも次の音へ進んでいく声だった。
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