3話 防波堤の夜風

翌日の放課後、音楽室は西日で赤く薄く染まっていた。窓を少し開けると、海風が譜面台の紙をそっとめくり、遠くの埠頭でぶつかる金属音が、断続的に耳へ届く。私はその机の端に、昨夜蒼司から渡された片方だけのイヤホンを置いたまま、しばらく指先でコードを巻き直していた。

蒼司は楽譜の角を、いつもの癖で指先で揃えていた。何度かページの端を押さえ、位置を直し、音符の上に落ちる影を見ている。私はその手つきが妙に落ち着いて見えることに、余計に腹が立った。昨夜のあの沈黙を、なかったことにされたくなかった。

「あれ、何」

声は思ったより掠れていた。蒼司は顔を上げ、私を一度だけ見た。まっすぐでも、冷たくもない、ただ逃げない目だった。

「聴けばわかる」

私は返事の代わりに、袖口をぎゅっとつまんだ。机の上のイヤホンが、蛍光灯の光を鈍く返す。説明しないくせに、渡すときだけは異様に真剣な手つきだったことを思い出す。だからこそ、昨日の一方通行みたいなやさしさが、いまは余計に苛立たしい。

「同情ならいらない」

言ってから、自分の声の硬さに私自身が少し驚いた。蒼司はすぐには答えなかった。代わりに、机の上へイヤホンを静かに置き、譜面ケースを閉じた。その無言は引き下がったようにも、踏みとどまったようにも見えた。

そこへ結衣が、扉を勢いよく開けて入ってくる。昼休みに買ったというメロンパンを半分に割り、「これ、食べる?」と明るく笑った。私は受け取れなかった。結衣の笑顔は、悪意がないぶん、濡れた紙みたいに熱を吸ってくる。嫌いではない。むしろ好きだから、苦しい。説明できないその感じが、喉の奥に引っかかったまま残った。

「今日、部長が飾りつけの案持ってきてさ。海のモチーフにするか、灯台にするかで揉めてて」

結衣は空気を読んだふりをして、すぐに話題を変えた。文化祭の飾り、掲示板の貼り替え、明日の練習の段取り。私は相づちを打ちながら、音楽室の壁に並ぶポスターの端を見ていた。話が途切れるたび、結衣がすぐ次を差し込む。その速さに助けられることもあるのに、今日はただ息が詰まるだけだった。

「ひより、灯台のほうがいいと思わない?」

「……どっちでもいい」

「そっか」

結衣の声が、ほんの少しだけ落ちた。それでも彼女は、すぐに笑顔を戻した。私はその戻し方の速さに、また胸の奥がざらついた。

部屋の隅で、蒼司はひとことも口を挟まなかった。彼の沈黙は、私にとって拒絶にも見えるし、余計な慰めをしないという意地にも見える。どちらなのか、まだわからない。ただ、わからないまま残る重さだけが確かだった。

窓の外で、金属を打つ音がまた響いた。港で誰かが荷を積んでいるのだろう。規則正しい音の合間に、海鳥の声が混じる。私は机の上のイヤホンを見た。片方だけの、黒い小さな塊。手に取れば、また昨日と同じ音が流れ込んでくることを、身体のどこかがすでに知っている。

「三枝先生、今日来るのかな」

結衣が窓のほうを見ながら呟いた。

「非常勤だから、来ない日もある」

私は答えた。声は思ったより平らだった。三枝先生の名前を出されると、昨日歌った練習曲のことを思い出す。あのとき、先生は何も言わずにただ聴いていた。その沈黙が、蒼司の沈黙とはまた違う質感を持っていたことを、私はまだうまく言葉にできずにいた。

「ひより、最近先生とよく話してる?」

「話してない。歌わされてるだけ」

「歌わされてる、って」

結衣が首を傾げる。私は答えなかった。歌わされている、という言い方が正しいのかどうか、自分でもわからなかった。三枝先生は指示をしない。ただ聴く。聴いたあとに、短い言葉をひとつだけ置いていく。それは指導というより、何か別のものだった。

蒼司が椅子を引く音がした。振り返ると、彼は譜面ケースを肩にかけ、窓のほうへ視線をやっていた。

「今日、帰るのか」

思わず聞いていた。自分でも意外なほど、その声には拒絶の棘がなかった。蒼司は一瞬だけ動きを止め、それから小さく頷いた。

「いつもの道」

それだけ言って、彼は音楽室を出ていった。ドアが閉まる音は、いつも通り小さかった。

結衣が、私の顔を覗き込んでくる。

「いつもの道、って何」

「知らない」

「知らないのに、何で聞いたの」

「……別に」

結衣はそれ以上追及しなかった。ただ、メロンパンの残り半分を、私の机の上にそっと置いた。

「食べなくていいから、置いとくね」

彼女はそう言って、自分の鞄を持ち上げた。窓の外はすでに橙色に傾き、譜面台の影が長く伸びている。私は机の上に残されたパンと、片方だけのイヤホンを、しばらく交互に見ていた。

どちらも、誰かが差し出したものだった。受け取るかどうかは、私が決めることになっている。それが今は、ひどく重たい選択のように感じられた。

結衣が出ていったあと、音楽室にはしばらく私ひとりが残った。窓から入る風が、譜面の紙をぱらぱらとめくる。私はイヤホンを手に取り、耳には入れずに、ただ掌の上で転がした。

昨日、蒼司がこれを差し出したときの表情を思い出す。何も言わなかった。何も語らなかった。それなのに、あの一瞬だけ、彼の指先がほんの少し強張っていたのを、私は見逃さなかった。

同情ではない、と彼は言った。終わらせるためでもない、とも。

では何のためだったのか。答えは、まだ私の手の中にはなかった。ただ、片方のイヤホンの重みだけが、机の上から私の手のひらへ、静かに移ってきていた。

窓の外で、また金属音が鳴った。今日はいつもより、その音が近く聞こえた気がした。

放課後、私は結衣の誘いを断って、海風の坂道を一人で下った。校舎裏を離れると、さっきまでのざわつきが、潮の匂いに少しずつ削られていく。坂の勾配は今日はやけに急で、足元が前へ引っぱられるたび、胸の奥も一緒に落ちていくようだった。

古い防波堤の手前で、蒼司が先に立っていた。制服の裾が風でわずかに揺れ、片方だけのイヤホンが耳元で小さく光る。私が近づいても、彼は振り返らない。けれど、ほんの少しだけ肩の力が抜けたのがわかった。

「なんで、ここにいるの」

私が訊くと、蒼司はしばらく海を見たまま黙っていた。波が堤の石を打つ音が、言葉の代わりに間を埋める。やがて彼は、短く言った。

「話す場所じゃないから」

「学校が?」

「音楽室も、教室も」

「じゃあ、ここなら話せるの」

「話さなくても、済む」

私は言い返しかけて、やめた。確かにここでは、声は風にほどけやすい。言い切れないものが、海に吸われるように消える。だからこそ、嘘も、見栄も、少しだけ剥がれやすいのかもしれない。

私は防波堤に腰を下ろした。コンクリートはまだ昼の熱を残していて、太腿の裏にじんわりとした温もりが伝わってくる。蒼司は少し離れた場所に立ったまま、譜面ケースを開いた。

「今日も、あれ聴くの」

「聴きたいなら」

「聴きたいかどうか、まだわからない」

「わからないまま、聴けばいい」

その言い方が、妙に楽だった。わかってから何かをする、という順番を、私はいつのまにか当たり前だと思い込んでいた。歌う前に、歌う理由を確かめなければいけない。歌ったあとに、それが正しかったかを判定されなければいけない。蒼司の言葉には、その順番がすっぽり抜けていた。

彼は再生機器の画面を指先で操作し、片方のイヤホンを差し出した。私は受け取り、耳に入れる。ざらついたギターの入り、ボーカルの少しかすれた高音、客席の拍手が遅れて跳ねる。私は耳にイヤホンを押し当てた瞬間、なぜか喉の力が抜けるのを感じた。自分の声が、あのライブのざらつきのなかに混じっていたような気さえする。

「これ、どこで見つけたの」

「前の学校の先輩が、貸してくれたデータ」

「その先輩は、まだ吹奏楽やってるの」

蒼司は少し間を置いた。海のほうを見たまま、彼は答えた。

「わからない。連絡取ってない」

「なんで」

「取る理由がなかった」

「同じ部活だったのに?」

「同じ部活だったから」

その答えの意味を、私はすぐには理解できなかった。蒼司は続けなかった。ただ、譜面ケースの端を指でなぞり、何かを確かめるような仕草をした。

しばらくの沈黙のあと、彼は言った。

「前の学校で、落ちた」

それだけだった。私は、返す言葉を探して見つからなかった。蒼司はそれ以上を言わない。言い訳もしない。自分の失敗を並べて慰めに変えるような真似を、最初からする気がないのだとわかった。だから逆に、その短さが重かった。落ちた、とだけ言う。その一語の底に、居場所を失った感覚が沈んでいるのを、私は勝手に想像してしまう。

「何に、落ちたの」

「コンクールの、選抜メンバー」

「吹奏楽の」

「うん」

「うまかったんでしょ、蒼司なら」

「うまいかどうかは、関係ない」

蒼司の声が、少しだけ低くなった。

「うまく吹けても、選ばれる音とは限らない。俺は、自分が正しいと思う吹き方をした。指揮者が求めてる音とは、たぶん少し違ってた。本番の三日前に、パートを外された」

「三日前」

「うん」

「それ、言えばよかったのに。指揮者に、自分はこう吹きたいって」

「言った」

蒼司は初めて、少しだけ早口になった。

「言ったけど、変えなかった。変える理由がなかったんだと思う。俺の音は、全体の中で浮いてた。正しいかどうかより、揃ってるかどうかが先にある場所だった」

風が強くなり、堤の上の細い草が揃って揺れた。私はイヤホンの中の歌声に耳を傾けながら、蒼司の言葉を反芻していた。揃ってるかどうかが先にある場所。それは、潮見台高校の音楽室とも、予選のステージとも、どこか似ている気がした。

「それで、音楽やめようと思わなかったの」

「思った」

即答だった。

「思ったけど、やめられなかった。やめる、っていう決断すら、俺には重すぎた。だから、ただ聴くだけの時間が増えた。楽器を吹かなくても、音源を聴くことはできる。それだけは、誰にも止められなかった」

「それで、ここに来てからも聴いてるんだ」

「うん」

「私に、貸すために聴いてたわけじゃないんだ」

「違う」

蒼司はそこで、初めて私のほうを見た。

「お前が落ちたのを見たとき、何か言おうと思った。でも、言葉が出てこなかった。俺が言われて嫌だった言葉は、全部思い出せるのに、言っていい言葉がひとつも思い浮かばなかった」

「それで、イヤホンだったんだ」

「言葉より、確かだと思った」

その言い方は、ひどく不器用だった。けれど、その不器用さの分だけ、嘘がないように聞こえた。私は膝の上で手を組み、波の音に耳を澄ませた。イヤホンの中では、ボーカルが客席の歓声に負けじと声を張り上げている。

「蒼司はさ、今も、その指揮者のこと恨んでる?」

「恨んでない」

「即答だね」

「恨む理由を、探すのをやめた。恨んでも、あの三日間は戻らない。ただ、自分の音を正しいと思ったことだけは、間違ってなかったと思ってる」

「それは、負け惜しみじゃなくて?」

「負け惜しみだったら、もう音楽を聴いてない」

その言葉は、私の胸の真ん中に、静かに刺さった。負け惜しみだったら、もう音楽を聴いていない。私は自分に問い直した。私は今、歌うことをどう感じているのか。悔しさの底に、まだ音への執着はあるのか。

蒼司はひよりを見ずにイヤホンを外し、もう片方を指先で押さえたまま、潮の方へ視線を落とした。その横顔は、何かを隠しているというより、隠し続けることに慣れた顔に見えた。私はその横で、負けを抱えたまま立つ人間の背中を初めて見た気がした。

「私も、恨んでるのかもしれない」

気づけば、私は口を開いていた。

「誰を」

「わからない。審査員かもしれないし、通過した人たちかもしれないし……もしかしたら、蒼司かもしれない」

蒼司は驚いた様子も見せなかった。ただ、静かに続きを待っている。

「蒼司が転校してきて、初めて音楽室で歌うのを聴いたとき、負けたくないって思った。うまいとか、下手とかじゃなくて、蒼司の前で下手な歌を聴かせたくないって、そう思った。それが、いつのまにか予選の舞台の上でも、同じ気持ちのままだった」

「俺に、勝ちたかった?」

「わからない。でも、誰かに、勝ちたかったのは確か」

蒼司は少しのあいだ黙っていた。波が堤にぶつかり、白い飛沫が風に散る。私たちのあいだに、その飛沫の粒がいくつか届いた気がした。

「勝ちたい気持ちが、悪いとは思わない」

蒼司がようやく言った。

「俺も、選抜に選ばれたかった。誰かに負けたくなかった。でも、それだけで吹いてたわけじゃない。勝ちたい気持ちの下に、たぶん、もっと別のものがあった」

「別のものって、何」

「まだ、うまく言えない」

彼はそう言って、イヤホンをケースにしまった。会話はそこで途切れたが、その途切れ方は、これまでとは少し違っていた。何かを拒んで終わる沈黙ではなく、答えを探す途中で立ち止まる沈黙だった。

私は防波堤の上に座ったまま、しばらく海を見ていた。夕日はすでに水平線の近くまで下りていて、波の頂だけが赤く光っている。隣に立つ蒼司の輪郭も、同じ色に染まっていた。

負けを隠している人間は、自分だけではない。その事実は慰めではなく、並ぶための高さを少しだけ揃える。私はその言葉を、まだ声にできなかったけれど、胸の奥で静かに繰り返していた。

その夜、私は三枝先生に呼ばれた。音楽室にはもう誰もおらず、窓の外は紺に沈みかけていた。廊下の電灯だけが等間隔に灯り、私の足音を長く伸ばして響かせる。音楽室の扉を開けると、先生はすでに机の前に座り、古びたデッキの前で何かを調整していた。

机の上には、擦り切れたカセットケースがひとつ置かれている。ラベルは古く、字も薄い。曲名を読もうとしても、途中でにじんでしまう。

「座れ」

三枝先生は顔も上げずに言った。私は言われるまま、練習用の椅子に腰を下ろす。窓から入る夜の風が、譜面台の紙を微かに揺らした。

「聴け」

それだけだった。説明も、励ましもない。私が戸惑っているあいだに、先生は再生ボタンを押した。スピーカーから流れた音は、今の機材よりもずっとざらついていて、けれど奇妙なほど身体に近かった。音の輪郭が、むしろ息遣いのように伝わってくる。

私は歌い手の入り方に、すぐ引っかかった。高音へ跳ぶ前に、ほんのわずかに息を残す。押し上げるのではなく、落ち着いて置く。耳が勝手に反応する。好きな曲を聴くときの、自分のどうしようもない集中が戻ってくるのを感じた。

「これ、誰の曲ですか」

「昔のインディーズバンド。もう解散してる」

「先生、これ好きなんですか」

「好きとか嫌いとか、そういう聴き方はしてない」

先生はデッキの音量つまみに指をかけたまま、視線を窓の外へ向けていた。

「若い頃、俺もステージに立ってた。うまくやろうとして、うまくいかなかった夜が何度もある。うまさを追いかけるほど、自分の音じゃなくなっていくのがわかった」

その声には、いつもの乾いた響きとは少し違う、湿った温度があった。私は先生の横顔を見た。表情は変わらない。ただ、目だけが少しだけ遠くを見ていた。

三枝先生はしばらく黙ってから、私に一度だけ歌わせた。いつもの練習曲。私は歌い始めたが、途中で喉が固くなる。自分の声が、誰かに届くためというより、誰かに勝つための形に寄っていることを、先生の視線が静かに暴いていた。

歌い終えると、先生は言った。

「勝ちたい音が混じってる」

私は顔を上げた。否定したかった。けれど、すぐにはできなかった。歌っているあいだ、どこかでずっと誰かの目を気にしていた気がした。予選の合否、結衣の反応、蒼司の無言、家で交わされる「次がある」。その全部が、声の奥へ細く絡んでいた。

「先生には、それがわかるんですか」

「わかる。俺も、その音を出してたことがあるから」

「その音って、消せるんですか」

先生はすぐには答えなかった。デッキの再生ボタンをもう一度押し、同じ曲を最初から流した。歌い手の息継ぎが、また私の耳の奥に入り込んでくる。

「消せない。ただ、置き換えることはできる」

「何に」

「残したい音に」

私は、その言葉の意味をすぐには掴めなかった。先生は続けた。

「勝ちたい音は、誰かと比べたときにしか鳴らない。誰かがいなくなれば、消える音だ。残したい音は、比べる相手がいなくても鳴る。お前の中に、誰とも比べずに鳴らしたい音はあるか」

その問いに、私はすぐに答えられなかった。歌うことが好きだった。歌えば褒められた。褒められれば、また歌いたくなった。その繰り返しの中で、比べる相手のいない音がどこにあったのか、思い出そうとしても、記憶の輪郭がぼやけてしまう。

「わかりません」

正直にそう答えた。先生は、それを責めなかった。

「今すぐわからなくていい。ただ、聴くことはやめるな。聴いてるうちに、耳が勝手に選び始める」

三枝先生はそれ以上を言わない。置かれた言葉は短いのに、私の中でじわじわと重く広がった。古いカセットの音が、何度も再生された痕みたいに耳の奥に残る。

帰り際、先生は窓の外に目をやったまま、もう一言だけ置いた。

「うまく歌うより、何を残すかだ」

私は返事をできなかった。だが、なぜかその沈黙は、昼間の音楽室で蒼司に向けた苛立ちとは少し違っていた。何かを見抜かれた痛みの底に、まだ名前のない小さな手触りがあった。

音楽室を出ると、廊下は静まり返っていた。窓の外に、遠く港の灯りが見える。私は制服のポケットに手を入れた。そこには、蒼司から借りたままの片方のイヤホンが入っていた。指先でコードをなぞりながら、私は坂道のほうへ足を向けた。

家までの道のりは、いつもより長く感じられた。けれど、その長さは嫌なものではなかった。歩きながら、私は自分の中に鳴っている音を探していた。誰にも比べられず、誰にも奪われない音が、まだどこかにあるはずだと、そう思いながら。

坂の途中で、海風がまた強く吹いた。制服の裾が揺れ、髪が頬に貼りつく。私はポケットの中のイヤホンを、そっと握りしめた。片方だけの重みが、掌の中で確かに存在していた。

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