2話 同じ曲の入口

翌日の放課後、音楽室には西日の色が溜まっていた。

窓を閉め切ると、古い木の床と譜面の紙が混じった匂いが濃くなる。だから三枝先生は、いつも片方の窓だけを少し開けている。隙間から海風が入り、譜面台に立てかけた紙を一枚ずつめくっていく。遠くの埠頭で、金属同士がぶつかる音がした。乾いた音は、波の向こうから忘れたころに届いた。

私は練習用の椅子に座り、机の上へイヤホンを置いた。

昨夜、蒼司から渡されたものだった。

黒いコードは細く、途中で一度だけ結び目のようにねじれている。片方しかない。もう片方は、蒼司の耳にあった。音楽室を出てからも、その重みが耳の近くに残っているような気がして、家へ帰ってから何度も自分の耳を触った。

イヤホンは、私の手元に置かれている。

それだけのことなのに、机の上に小さな穴が開いているみたいだった。指を伸ばせば落ちてしまいそうで、触れずにいると、どこかへ消えてしまいそうだった。

蒼司は部屋の隅で譜面を読んでいた。

吹奏楽部時代のものらしい譜面ファイルを開き、ページの角を親指で押さえている。紙が少し反ったところを何度も撫で、音符の並びを整えるようにしていた。楽譜が乱れているわけではない。蒼司は、乱れていないものをさらに正しい位置へ戻そうとしている。

その手つきが、私には落ち着きすぎて見えた。

昨日、私は落ちた。夜になっても、喉の奥には紙の白さが残っていた。食卓で両親に何を言ったのかも、途中からよく覚えていない。なのに蒼司は、いつもと同じ顔で音符を追っている。

私は机の上のイヤホンを指で押した。

「昨日の、何」

蒼司はすぐには答えなかった。楽譜の端を揃え、それから一度だけ私を見る。目が合う前に、彼の視線が私の手元へ落ちた。

「聴けばわかる」

声は低く、短かった。

「わからなかったから聞いてる」

「聴けば、わかる」

「それ、答えになってない」

「答えを聞くために聴くものじゃない」

「じゃあ、何のために聴くの」

蒼司は楽譜を閉じた。表紙に書かれた学校名の一部が、西日の中で見えた。東京にある、私立の中高一貫校。転校してきた理由を、私はまだ詳しく知らない。知ろうとすると、彼は一歩後ろへ下がる。いつもそうだった。

「……昨日、勝手に渡したよね」

「渡した」

「何も言わずに」

「言う必要がなかった」

私は笑おうとした。頬だけが引きつった。

「蒼司にはそうなんだ。人が落ちたときに、何も言わずにイヤホン渡せば終わりなんだ」

「終わってない」

その返事は、思ったより早かった。

私は顔を上げた。蒼司の表情は変わっていない。けれど、閉じた楽譜の上に置かれた指が、わずかに強くなっていた。爪の先が紙へ沈んでいる。

「じゃあ、何なの」

「終わらせるためじゃない」

「慰めるため?」

「違う」

「同情?」

蒼司は一度、息を止めたように見えた。顔色は変わらない。けれど、返事の前の間が、昨日までより長かった。

「同情なら、もっと説明する」

「説明してよ。何で私にあれを渡したの。昔好きだった曲だから? 私が落ちてかわいそうだったから? それとも、落ちた人間が近くにいると、自分の失敗も思い出せるから?」

最後の言葉を口にしたとき、自分でもやりすぎたと思った。

蒼司の目が、ほんの少しだけ細くなった。

「勝手に決めるな」

「決めてない。聞いてる」

「聞き方が違う」

「じゃあ、どう聞けばいいの。蒼司は何も言わないから、こっちが勝手に考えるしかないでしょ。私が落ちたことを見て、何か思ったんじゃないの。だったら、言えばいいじゃん。俺も落ちたことがあるとか、歌をやめるなとか、次があるとか。そういう、わかりやすいことを」

「言えば、軽くなるのか」

「知らないよ」

「知らないのに、言わせようとする」

「蒼司は知ってるの」

「知らない」

「じゃあ、同じじゃん」

「同じじゃない」

蒼司はそこで初めて、少しだけ声を強くした。

「同じじゃない。俺は、落ちた人間に何を言えばいいか知らない。だから、余計なことを言わなかっただけだ」

音楽室の中に、風の音が入り込んだ。譜面台の紙が大きくめくれ、裏側の白さが一瞬だけ光った。

扉の近くで、結衣が立っていた。

いつ入ってきたのかわからない。手にはコンビニの袋があり、その中からメロンパンと紙パックの飲み物が見えている。結衣は私たちを見て、いつものように先に笑おうとした。

けれど、今日は笑顔が完成しなかった。

「これ……ひより、食べる?」

私は袋を見た。

「いらない」

「お昼から何も食べてないじゃん」

「食べたくない」

「でも、メロンパンならいけるかもよ。ほら、半分にするし。クリーム入ってるやつじゃなくて、普通の――」

「いらないって言ってる」

結衣の手が止まった。

その顔を見ると、胸の奥がまた狭くなった。結衣は私を心配している。心配しているから、食べ物を買ってきた。そういうことはわかる。わかるのに、優しさがひとつずつ積み重なるたび、逃げ道が塞がっていく。

「ごめん。今、そういうの無理」

「そういうのって?」

「明るくされるのが無理」

結衣の指が、袋の持ち手を握り直した。

「明るくしてないよ」

「してる」

「してない。普通に話してるだけ」

「それが明るいんだよ」

「何それ。じゃあ、どうすればいいの? 黙ってればいい? 黙ってたら、ひよりはひよりで、誰も何もしてくれないって思うじゃん」

「思わない」

「思うよ」

「思わないって言ってる」

「じゃあ、何でそんな顔してるの」

結衣の声が少し高くなった。いつもの、人前で空気を回すときの高さではない。焦ったときにだけ出る、逃げ場を探している声だった。

「落ちたからでしょ」

私は言った。

「私が落ちたから。私が悔しいから。私が勝手に息を詰まらせて、勝手に歌えなくなったから。結衣が食べ物を買ってきても、蒼司がイヤホンを渡しても、私の声は戻らない。なのに、二人とも何かすれば戻るみたいな顔をする」

「そんな顔してない」

蒼司が言った。

私は振り向いた。

「じゃあ、どんな顔?」

蒼司は答えなかった。

答えないことが、いちばん腹立たしかった。彼の沈黙は私の言葉を受け止めているようにも、拒んでいるようにも見える。そこに何があるのか、私はいつも読み違える。

「蒼司は、私が落ちたのを見てどう思ったの」

「……」

「ほら。言えないじゃん」

「言う必要がない」

「またそれ」

私は机の上のイヤホンを掴んだ。黒い先端が指の間で冷たかった。

「これも返す」

蒼司が顔を上げた。

「いらない」

「最初から、私にくれるつもりじゃなかったんでしょ。半分だけ貸しただけ。だったら返す」

「持っていていい」

「どうして」

「今、聴きたいなら」

「聴きたいかどうかもわからない」

「なら、聴かなければいい」

「そんな簡単に言わないでよ!」

声が音楽室の壁にぶつかって戻ってきた。

自分の声が、予選の日より大きく響いた。喉は詰まっているのに、怒鳴ることだけはできる。歌うときには出なかった力が、こんな形で出てくる。

「簡単じゃない。何をしても、私の中に落ちたっていうのが残ってる。あの紙に名前があって、選ばれた人の名前が上にあって、私の名前が下にあって。それを見た人がいて、結衣も、蒼司も、先生も、家の人も、みんな私が落ちたって知ってる。次があるとか、まだ歌えるとか、そんなこと言われても、あの紙は消えない。私は落ちたままなのに、みんな先へ行こうとする」

結衣は袋を胸の前で抱えた。

「先へ行こうとしてるんじゃないよ」

「同じじゃん」

「違う」

「何が違うの」

「ひよりを置いていきたくないだけ」

結衣は早口になった。言葉が途中でつかえても、止めようとしなかった。

「私、ひよりが落ちたことを軽く見てない。悔しくないとも思ってない。ずっと見てたから。小さい頃から、ひよりが歌う前に喉を押さえることも、家で小さい声から始めて、途中でやめることも、何度も見てきた。だから、今回も、ひよりなら大丈夫だと思ってた。大丈夫って言えば、ひよりが少し息をできると思った」

「できなかった」

「うん。できなかった」

結衣の声が低くなった。

「私のやり方が悪かった。わかってる。でも、ひよりが何も言わないと、私はどうすればいいかわからない。ひよりが一人で沈んでいくのを見てるだけなんて、できないよ。友だちだからとか、幼なじみだからとか、そういうきれいな理由じゃなくて、私が怖いから。ひよりが私の知らないところまで行って、もう戻ってこなくなるみたいで怖いから」

言葉の終わりが、少し震えた。

結衣はすぐに顔をそむけた。泣いてはいない。けれど、泣くより前の顔をしていた。笑って隠すことも、話題を変えることもできず、ただ自分の言葉の前に立たされている。

私はイヤホンを握ったまま、何も言えなかった。

蒼司が、窓の外へ目を向けた。海は西日を受け、白い筋をいくつも作っている。風が強いのか、波頭だけがせわしなく崩れていた。

「音源、聴くか」

蒼司が言った。

結衣が彼を見る。

「今?」

「今」

「こんな空気で?」

「こんな空気だから」

私は反論しようとした。でも、蒼司はもうイヤホンを取り出していた。再生機器の画面を開き、指先で再生位置を細かく合わせている。曲の頭ではなく、少し前。歓声が遠くに混じり始める箇所だった。

「昨日の曲?」

結衣が訊いた。

「そう」

「それ、ひよりが昔好きだったやつだよね。小学生のとき、夏祭りの帰りにずっと歌ってた」

「歌ってない」

「歌ってたって。歌詞、半分しか覚えてなかったけど」

「覚えてた」

「じゃあ、歌ってみてよ」

「今は無理」

「うん、そうだよね」

結衣が言って、今度は笑わなかった。

蒼司は片方のイヤホンを私へ差し出した。

昨日と同じ所作だった。けれど、今日は受け取るまでに時間がかかった。耳へ入れると、冷たい樹脂が皮膚に触れ、そのあとに蒼司の指先が一瞬だけ近づいた。触れてはいない。それでも、耳のすぐそばに誰かの体温が残ったように感じた。

再生が始まる。

最初に聞こえたのは、観客のざわめきだった。拍手になりきらない手の音。遠くで誰かが叫び、マイクが一度だけ擦れる。次に、歪んだギターが入った。音はきれいではない。高音の端が潰れ、低音は少し遅れて響く。

私は、あの音が好きだった。

好きだったことを、忘れていたわけではない。ただ、好きだと思うことに、いつからか理由を求めていた。歌がうまいから。声がきれいだから。誰かに評価されているから。そういう説明ができなければ、好きだと言ってはいけないような気がしていた。

ライブの音源では、歌い手の息がはっきり聞こえた。

高音へ入る直前、ほんのわずかに吸う。隠しきれない息の音。客席の歓声にかき消されそうになりながら、それでも声が立ち上がる。

私は無意識に、自分の喉へ指を当てていた。

蒼司は音量を変えなかった。結衣も何も言わない。三人で同じ曲を聴いているのに、イヤホンの中には私と蒼司の二人分の呼吸しかないように思えた。結衣は少し離れたところにいて、けれど同じ音を聴いている。

曲の途中で、ボーカルが一度だけ音を外した。

ほんの少しだった。音程が下がり、次のフレーズへ戻るまでに遅れが生じる。私はそのずれを聞き逃さなかった。けれど、聴き終わったあとに残ったのは、外した事実ではなかった。

外したあとも、歌が続いていたことだった。

私はイヤホンを外した。

「これ、古いね」

結衣が言った。

「録音が悪い」

蒼司が答える。

「でも、いい」

「そう」

「蒼司って、こういうのばっかり聴いてるの?」

「こういうのが残るから」

「残るって、何が?」

蒼司はすぐに答えなかった。親指でイヤホンの端を押さえ、視線を床へ落とす。床板の継ぎ目に、小さな砂が入り込んでいる。

「きれいな音は、きれいなまま終わる。これは、終わったあとも少し残る」

「それがいいの?」

「わからない」

「蒼司もわからないんじゃん」

「わからないことを聴くのは、嫌いじゃない」

私は机の上の譜面を見た。予選に使った曲の歌詞が、細い鉛筆の線で区切られている。息を入れる場所。声を張る場所。落とさない音。私は歌詞より先に、正しさを書き込んでいた。

結衣が、メロンパンの袋を開けた。

「ひより」

「なに」

「半分だけなら?」

私は袋の中を見た。甘い匂いが、古い紙の匂いに混じる。

「……半分」

結衣は少し驚いた顔をして、それから、笑うのを我慢するように唇を結んだ。袋からメロンパンを取り出し、手で割る。割れ目から、細かな砂糖が机へ落ちた。

その半分を受け取る。

甘さは、思ったより強かった。喉の奥に張りついた膜が、少しだけ剥がれる。全部は無理でも、半分なら入るものがある。

蒼司は窓際に立ったまま、イヤホンを片方だけ耳へ戻した。

私は、返さなかった。

机の上に置くこともできたのに、指先でコードを巻き直し、そのまま制服のポケットへしまった。

「持って帰っていい?」

蒼司がこちらを見る。

「いい」

「いつ返すかは?」

「決めてない」

「そう」

それだけで、会話は終わった。

けれど、昨日までのような終わりではなかった。音楽室にはまだ西日があり、窓から海の匂いが入ってくる。結衣は残ったメロンパンを食べながら、何も話さずにいた。蒼司は譜面のページを開き、また角を揃え始めた。

私は耳の近くに残る感触を、何度も確かめた。

片方だけのイヤホンは、ポケットの中で小さく揺れている。

そのたびに、さっきの歌声の、外れた音が戻ってきた。崩れたまま、それでも次の音へ進んでいく声だった。

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