第1話 白い紙の前で

潮見台高校の校舎裏に、文化祭前夜祭ステージ予選の結果が張り出されていた。
昼休みの終わりを告げる予鈴は、とっくに鳴っている。けれど、掲示板の前に集まった生徒たちは、教室へ戻ることを忘れたように動かなかった。紙一枚の前で、みんなが自分の名前の行方を見張っている。
掲示用の白い紙は、海から上がってくる風を受けて、端だけを膨らませていた。釘で留められた四隅のうち、右下だけがわずかに浮いている。風が吹くたび、紙と板のあいだで、ぱた、ぱた、と薄い音がした。
私は、人の肩越しに紙を見た。
前夜祭ステージ予選。音楽、演劇、ダンス。演目名の横に、通過者の名前が並んでいる。上から順に目を走らせた。二年生のバンド。三年生の弾き語り。一年生の演劇ユニット。
私の名前はない。
もう一度、最初から見直した。漢字を読み違えているのかもしれないと思った。木下という名字は珍しくない。ひよりという名前も、紙の端に小さく紛れている可能性がある。
けれど、どこにもなかった。
最後に、紙の下半分にある「選外」と印刷された欄へ目を移した。
そこに、自分の名前があった。
木下ひより――ソロボーカル。
文字は、練習用の譜面に書いた自分の名前より整っていた。誰かがパソコンで入力し、誰かが印刷し、誰かが切り取り、誰かがここへ貼った。そのいくつもの手を通ってきた結果が、私の名前の横で止まっている。
落ちた。
その事実は、思ったより音がしなかった。
胸の奥で何かが割れるとか、目の前が暗くなるとか、そういう分かりやすいことは起きなかった。ただ、喉の奥に薄い膜が張ったみたいに、息の通りが悪くなった。唾を飲み込んでも、その膜は動かなかった。
「ひより」
隣にいた結衣が、私の制服の袖をつまんだ。
「その、えっと……」
私は紙から目を離さなかった。
「次、あるって」
結衣の声は、いつものように少し高かった。明るく聞こえるように、わざと一段上げた声。小学生の頃から知っている、結衣が場を軽くするときの声だった。
けれど、続きは来なかった。
「ほら、合唱コンクールもあるし。文化祭だって、ステージ以外にもいろいろ……」
言いながら、結衣自身がその言葉を信じていないのがわかった。語尾が細くなり、笑おうとした口元が途中で止まる。
私は紙を見たまま、言った。
「うん」
それだけで、結衣は黙った。
周囲では、通過した生徒たちが互いの肩を叩き合っていた。男子生徒のひとりが「やった、マジで通った」と声を上げ、誰かがスマートフォンを取り出して結果表を撮っている。落選欄の前にいる私たちを避けるように、人の輪が少しずつ動いた。
避けられたわけではない。ただ、通過した人たちには通過した人たちの場所があり、そこへ戻っていくのだ。
私には戻る場所がなかった。
「戻ろうか」
結衣が言った。
「先に行っていいよ」
「いや、一緒に行くし」
「いいから」
思ったより強い声が出た。
結衣の指が、私の袖から離れた。離れたところだけ、布地が冷たくなったように感じた。
「……わかった。じゃあ、先に教室戻ってるね」
結衣はそう言って、二歩ほど進んだ。けれど、すぐには歩き出さなかった。背中越しに、私が追いつくのを待っているのがわかる。
私は紙の前に残った。
風が吹き、白い紙の端が膨らむ。落選欄の文字が、一瞬だけ歪んだ。
その歪みの中で、私は予選の日のことを思い出していた。
舞台袖で、指先が冷たくなっていた。客席の暗がりは見えなかったけれど、審査員の机に置かれたペンだけは見えた。歌い出しの直前、私は一度だけ喉元を押さえた。いつもの癖だった。
最初の音は出た。音程も外していない。練習どおりだった。
けれど、二番に入る前、前列にいた誰かが小さく咳をした。その音を拾った瞬間、私は急に、自分の声がどこまで届いているのか気になった。届かなければいけない。弱く聞こえてはいけない。ほかの誰よりも、ちゃんと歌わなければいけない。
そう思った途端、息が浅くなった。
歌は続けた。最後まで歌い切った。拍手もあった。三枝先生は何も言わず、少しだけ目線を落とした。
私はあのとき、歌えたと思っていた。
歌えたことにしていた。
「ひより?」
いつの間にか、結衣が少し離れたところに戻ってきていた。
「本当に、戻らないと。五時間目、古典だよ。寝たら先生に当てられるやつ」
「うん」
「……あのさ」
結衣はまた言葉を探した。
「悔しいなら、悔しいって言っていいんだよ」
私はようやく結衣を見た。
結衣は困ったように笑っていた。笑顔を作るのが早い彼女が、今日はその形を作り終えられずにいる。唇の端だけが上がり、目が追いついていなかった。
「悔しいよ」
言ってみると、声は自分のものではないみたいに平らだった。
「そっか」
「でも、結衣に言っても、どうにもならないでしょ」
「どうにもならないけど……」
「じゃあ、言わなくていい」
「それ、私が聞きたいとかじゃなくて、ひよりが一人で抱えるから言ってるんだけど」
「抱えるしかないじゃん」
言葉が、思ったより深いところから出てきた。
「落ちたのは私でしょ。結衣が代わりに落ちてくれるわけじゃないし、私の喉が詰まったときに、結衣が息をしてくれるわけでもない。だったら、私が持つしかないじゃん」
結衣は何も言わなかった。
言い過ぎたと思った。でも、謝るための言葉が出てこなかった。
結衣の視線が、私の顔から手元へ落ちた。私は制服の裾をつまんでいた。いつからそうしていたのか、指先に布の折り目が食い込んでいる。
「……ごめん」
結衣が言った。
「それも、いらない」
「うん」
「謝られると、私が結衣を傷つけたみたいになる」
「でも、傷ついたよ」
結衣は笑わなかった。
「ひよりが落ちたことじゃなくて、私が何もできないこと。何か言わなきゃって思って、でも言うこと全部が薄くて、だからまた別の話をして。そうやって、ひよりが見ないようにしてるものを、私まで見ないようにしてた」
風が、校舎の壁に沿って吹き抜けた。
結衣の髪が乱れ、頬に張りつく。彼女はそれを直そうともせず、私を見ていた。
私は返事をしなかった。
結衣は、沈黙に耐えられないはずだった。いつもなら、ここで購買のパンの話か、明日の飾り付けの話を差し込む。けれど今日は何も言わない。
その沈黙は重かった。
ただ、さっきまでの沈黙とは少し違った。何かを隠すためではなく、隠さないまま置いておくための沈黙だった。
予鈴が二度目に鳴った。
「行こう」
今度は私から言った。
教室へ戻ると、結果の話題はもう別の場所へ移っていた。窓際では、通過した生徒たちがスマートフォンの画面を見せ合っている。後ろの席では、文化祭の飾りに使う紙の色について言い争っている。誰かが購買の焼きそばパンを半分に割り、誰かが明日の提出物を写していた。
いつもの教室だった。
だから余計に、自分だけが教室から外れてしまったように感じた。
私は席に座り、机の上へ予選用の譜面を置いた。紙の端には、自分で書いた細かな印がある。ここは半拍遅らせる。ここでは息を残す。高音の前で肩を上げない。
その印を見ていると、ひどく腹が立ってきた。
こんなに書き込んだのに。何度も歌ったのに。夜、家族が寝静まったあと、台所の換気扇の音に紛れるように、小さな声で繰り返したのに。
努力したことと、選ばれることは別なのだと、頭では知っていた。
それでも、別々にされると痛かった。
五時間目の古典で、先生が黒板に助動詞を書いている。チョークの粉が白く落ちる。私はノートを開いたまま、何も写さなかった。
窓の外には海が見えた。
校舎の向こう、薄い青の下に、白波市の港が広がっている。風に押された波が、岸壁の近くで細かく崩れていた。
昼休みに見た紙の白さが、まだ目の奥に残っている。
放課後、結衣は教室の窓際で私を待っていた。

「一緒に帰る?」
私は鞄に譜面をしまいながら、少し考えた。
「今日は、海のほう通る」
「うん。私も行く」
「……いいのに」
「いいの。というか、ひより一人で坂を下ると、たぶん途中で余計な道に入るじゃん」
「入らないよ」
「入る。中学のときも、駅と反対方向に三十分歩いてた」
「あれは、道を間違えただけ」
「三回も?」
言い返そうとして、口が止まった。
結衣が、ほんの少し笑った。今度の笑顔は、さっきより自然だった。けれど私は笑えなかった。笑おうとすると、頬の筋肉だけが固まる。
校舎裏へ出ると、夕方の風が制服の隙間へ入り込んできた。掲示板の前には、もう誰もいなかった。白い紙は風に揺れ続けている。通過者の名前も、選外の名前も、同じ紙の上で同じ濃さをしていた。
結衣は何も言わず、私の少し後ろを歩いた。
坂道を下る。校舎の影から出ると、港の灯りがひとつ、またひとつと見えてきた。下り坂なのに、足は軽くならなかった。むしろ、身体の重さが前へ引かれていく。止まりたいのに、止まる場所がない。
「ねえ、ひより」
坂の途中で、結衣が言った。
「なに」
「本当に、歌うの嫌になった?」
私は足元を見た。
アスファルトのひびに、細い草が一本だけ生えていた。海風に揺れながら、折れずに立っている。
「わからない」
「そっか」
「歌いたいかどうかも、わからない。落ちたから悔しいのか、悔しいから歌いたいのか、それも……」
喉が詰まった。
「わからない」
結衣は、すぐに返事をしなかった。
「私、ひよりは歌うのが好きだから出たんだと思ってた」
「好きだよ」
「うん」
「好きだけど、それだけじゃなかったのかもしれない」
口にしてから、胸の奥に隠していたものの形が少しだけ見えた。
誰かよりうまく歌いたかった。選ばれたかった。蒼司が転校してきて、初めて歌を聴いたとき、彼の目が自分の声を測っているように感じた。その視線から逃げたくなかった。
勝ちたかった。
誰に。
その答えだけが、まだ名前にならなかった。
坂を下りきるころには、空の端が夕焼けに染まっていた。海面は赤く、けれど風の通るところから順に灰色へ変わっている。
家に着くと、母の美咲が台所に立っていた。味噌汁の鍋から湯気が上がり、出汁と葱の匂いが玄関まで流れている。
「おかえり。今日は早かったのね」
「うん」
「ご飯、もうすぐできるから。手、洗ってきて」
私は返事をして、自分の部屋へ鞄を置いた。机の上には、昨日まで練習していた譜面がある。表紙の角が少し折れていた。私はそれを撫でたあと、制服のまま椅子に座った。
下の階から、父の声が聞こえた。
「ひより、結果どうだった」
母が何か言いかけたが、私は先に階段を下りた。
「落ちた」
父は、ダイニングテーブルの端に置いていた新聞から顔を上げた。驚いた表情はしなかった。ただ、眼鏡を外して、新聞を四つ折りにした。
「そうか」
母の手が、味噌汁の椀の上で止まった。
「……そう。そうだったのね」
「うん」
「でも、ほら、前夜祭だけじゃないし。文化祭はまだ本番もあるし、合唱コンクールだって」
「次がある、って言うんでしょ」
母の顔から、わずかに笑みが消えた。
「そういうつもりじゃ」
「同じだよ」
父が低い声で言った。
「次があるなら、そこでどうするか考えればいい。今回のことだけで、歌をやめる必要はないだろう」
「やめるなんて言ってない」
「言ってはいないが、そういう顔をしている」
「どんな顔」
父は答えなかった。代わりに、テーブルの上の箸を三膳、まっすぐに並べ直した。一本だけ少しずれていたのが気になったらしい。
その動作が、妙に腹立たしかった。
「内申に響くようなことじゃないし、勉強のほうは今まで通りにしていれば大丈夫だから」
「関係ない」
「関係なくはない。二年の後半からは進路の話も出てくる。今のうちに成績を落とさないようにしておけば、選択肢は減らない」
「歌の話をしてるのに」
「歌だけの話ではないだろう」
父の声は静かだった。静かだからこそ、逃げる場所がなかった。
母が味噌汁を私の前に置いた。
「ひより、今日は食べてからにしましょう。冷めるとおいしくないから」
「食べられない」
「少しでいいから」
「いらない」
「でも――」
「いらないって言ってる」
母の手が椀から離れた。
食卓の上に、湯気だけが残った。父は何も言わず、古い腕時計に目を落とした。母は困った顔で私を見ている。二人とも、私を責めてはいない。
責めていないのに、私は逃げたくなった。
「私、誰かに勝ちたくて歌ってたのかもしれない」
言葉が、勝手にこぼれた。
父も母も、すぐには反応しなかった。
「勝ちたくて、選ばれたくて、褒められたくて。それで、歌うのが好きだって思ってたのかもしれない。だから落ちたら、何も残らない。歌いたいのかどうかもわからない」
母が、何か言おうとした。
「ひより、それは……」
「大丈夫って言わないで」
声が震えた。
「次があるとか、頑張ったから偉いとか、そういうのも言わないで。私、今、自分が何に負けたのかもわからないから」
父の指が、テーブルの下で一度だけ動いた。
母は俯き、味噌汁の表面を見つめた。湯気が薄くなっていく。
「……わかった」
母が言った。
「今日は、言わない」
その言い方は、いつもの母らしくなかった。柔らかく包むのではなく、言葉を置いたままにする声だった。
私は椅子に座ったまま、冷めていく味噌汁を見た。
誰も責められない。誰も悪くない。それなのに、胸の奥だけが詰まっていく。
ふと、校舎裏の掲示板を思い出した。
風に膨らむ白い紙。釘の頭が鳴らす細い音。そこに印刷された、自分の名前。
私は箸を取った。
味噌汁は、もう少しで湯気を失いそうだった。
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