9話 山の祠へ続く道

蓮が霧の中で倒れているあいだ、私は山の祠へ向かう古い参道を登っていた。

家を出る前に、戸締まりを二度確かめた。玄関の鍵を回し、いったん手を離してから、もう一度つまみ直す。霧の濃い夜は、閉めた戸の向こうにいるものが、本当にこちら側のものかどうか確かめたくなる。いつから始めた癖なのか、もう覚えていない。覚えていないことだけが、妙に正確だった。

役場の名札は、もう胸元についていなかった。

見送りの家で外したまま、机の上に置いてきた。代わりに、蓮から預かった古い地図をコートの内側へ入れている。紙は湿気を吸って柔らかく、折り目の一部だけが硬かった。何度も同じ場所で開かれ、同じ道を指でなぞられてきた跡だった。

蓮を探さなければならない。

ただ連れ戻すのではない。彼が自分の名前を失う前に、こちら側へ引き戻さなければならない。

川沿いの道を外れると、参道の入口が霧の中から現れた。石段は山の斜面に沿って細く伸び、上のほうは白い霧に呑まれて見えない。毎年七月、村人たちは提灯を持ってこの道を登る。子どもは大人の袖を掴み、大人は誰とも目を合わせず、同じ間隔で歩く。山の祠で名前を三度唱えるために。

何のための儀式なのか、私はずっと知っているつもりだった。

帰ってきてはいけない者を、帰らせないため。

けれど、帳簿の端に残っていた書き込みは、その意味を裏返していた。

名を三度。

声、返る。

土、動く。

私は石段の前で足を止めた。脇に、古い供花が置かれている。花弁は茶色く縮れ、触れれば崩れそうなのに、茎だけがまだ青い。誰かが最近まで水を替えていたのだろう。花器の底には、濁った水が少し残っていた。

私はしゃがみ込み、茎に触れた。

冷たい。

それでも、生きている植物の硬さがあった。

「こんなところで、誰が……」

口にしてから、声が山へ吸われていくのを感じた。

返事を待ってはいけない。

それが、この村で覚えた最初の掟だった。

私は立ち上がり、石段を登った。濡れた石は黒く光り、苔の縁だけがやけに鮮やかだった。足を置くたび、靴底が滑る。手すり代わりの鎖へ触れると、冷たい金属が掌へ貼りついた。ところどころ錆びていて、指を離したあとも赤茶色の粉が残った。

一段。

また一段。

霧が膝へ絡みつき、コートの裾を濡らしていく。山の匂いは、川沿いとは違っていた。腐葉土と濡れた木の匂い、その下に、古い線香の残り香がある。見送りの家で嗅いだ匂いに似ているが、こちらのほうが土に近い。死者のために焚かれた煙が、石段の隙間へ沈んでいるようだった。

どこかで、金属が鳴った。

私は足を止めた。

鈴ではない。石段の脇に立てられた木札が、風に揺れた音だった。ひび割れた札同士が擦れ、乾いた音を立てている。

子どもの頃にも、同じ音を聞いた。

あの夜、紗夜が先に登りたがった。赤い髪紐の鈴を鳴らしながら、蓮の手を引いていた。蓮は「走るな」と言いながら、結局は紗夜の歩幅に合わせていた。私は二人の後ろからついていった。提灯の明かりが三つ、霧の中で揺れていた。

紗夜は、石段を登るたびに振り返った。

「灯子ちゃん、まだ?」

「すぐ後ろにいるよ」

「蓮は?」

「前にいる」

「じゃあ、もっと早く行こう」

「待って。ここから先は――」

そこで私は、何を言ったのだろう。

行くな、と言ったのか。

暗くなる前に戻ろう、と言ったのか。

それとも、何も言わなかったのか。

記憶の中で、言葉だけが抜け落ちている。紗夜の赤い髪紐と、蓮の手のひらと、提灯の明かりは覚えている。私はその後ろにいた。二人を見失わないように歩いていた。

あのとき止めるべきだったのか、今になってもわからない。

ただ、止めなかったことだけが身体に残っている。

胸の奥が重くなった。私は袖口を親指で押さえた。ここにいる。私は志岐灯子だ。蓮を探しに来た。紗夜の名前を、もう空欄のままにしないために。

石段の途中に、小さな石の祠があった。

本来なら、参道の脇に置かれた道祖神か何かだったのだろう。表面は苔に覆われ、顔の部分が削れている。誰のためのものかも、何を守っているのかも、もう読めない。

その足元に、白い石が置かれていた。

丸く磨かれた、川原の石だった。

私は拾い上げた。

掌の中で、石はひどく馴染んだ。

紗夜が川辺で拾った白い石を、蓮の作業着のポケットへ勝手に入れていたことがある。蓮は気づいていながら、しばらく黙っていた。後で私が「返さないの」と訊くと、彼はポケットの上から石を押さえた。

「返すと、また拾いに行くから」

「それなら、返せばいいじゃない」

「危ない場所へ行く」

「紗夜は、蓮がいれば大丈夫だと思ってるよ」

「俺がいるから危ないんだ」

蓮はそう言った。

当時の私は、その意味がわからなかった。蓮がいるから、紗夜はどこまでも行ける。蓮が追いかけるから、紗夜も怖がらずに進む。そういう意味だと思った。

今ならわかる。

蓮は、紗夜を守れなかったことを、ずっと自分の身体の中に置いていた。位牌の欠けた角を肋骨へ押しつけるように、失敗した夜を抱えたまま生きてきた。

白い石をポケットへ入れた。

そのとき、山の上から微かな呼び声が落ちてきた。

――とうこちゃん。

私は息を止めた。

声は紗夜のものに似ていた。幼い、息をひそめた声。泣く直前のように静かで、けれど私の名前を呼ぶときだけ、ほんの少し甘える声。

私は返事をしなかった。

――とうこちゃん。蓮を連れてきて。

石段の上で、霧が白く膨らんだ。

私は目を閉じた。声が近づいてくる。足音はない。けれど、誰かが裸足で濡れた石を踏んでいるような気配が、一段ずつ降りてくる。

返事をしてはいけない。

声を返せば、私の声がそのものの中へ混ざる。

私は口の中だけで名前を反復した。

紗夜。

蓮。

山崩れの年に消えた、幾人もの名前。

朝比奈紗夜。

志岐灯子。

朝比奈蓮。

名前を声にはしない。声にすれば、何かが返ってくる気がしたからだ。それでも、名前を忘れないためには、内側で呼び続けるしかなかった。

石段の上から、枝が揺れる音がした。

私は顔を上げた。

木立の奥で、提灯の紙に似た白いものが一瞬揺れた。枝に引っかかった布かもしれない。破れた供物袋かもしれない。けれど、風は吹いていなかった。

白いものは、枝の間からゆっくりこちらを見下ろしているようだった。

人影はない。

ただ、誰かが見ている。

見ているものが人かどうか、私にはわからなかった。

私は石段を登り続けた。

やがて、霧の中から祠の屋根が現れた。古い木造の小さな建物で、軒先には黒ずんだ注連縄が掛かっている。鈴を結んだ紐は、雨に濡れたまま垂れ下がっていた。

祠の前には、誰かが置いた提灯が三つ並んでいた。

火は消えている。

だが、紙の内側だけが薄く赤い。

私は祠の前に立ち、頭を下げた。

「蓮を返して」

口から出た声は、思ったより小さかった。

「紗夜を返して、とは言わない。もう、誰かをこちら側へ引きずるような返し方はしない。蓮の名前を返して。紗夜の名前を返して。ここに置かれたままの人たちの名前を、正しい場所へ返して」

祠の奥で、木が軋んだ。

私は鈴の紐へ手を伸ばしかけた。

指が触れる前に、やめた。

この鈴は、呼ぶために鳴らすものではない。少なくとも、今の私には鳴らせない。鳴らせば、誰かが応える。応えた声を、私はもう信じられない。

祠の横を回り、裏手へ向かった。

霧が濃く、足元が見えない。草の葉がコートの裾に触れるたび、濡れた指で撫でられているようだった。木の根を避けながら進むと、地面の色が変わった。

そこだけ、土が平らだった。

新しく掘った跡ではない。古い土を、何度も踏み固めた跡だった。人の足が繰り返し同じ場所を踏み、土を沈め、さらにその上へ土を重ねたように見える。

私はしゃがみ込んだ。

指先で触れる。

柔らかすぎた。

表面は乾いているのに、指を押し込むと、下から湿った冷気が返ってくる。山崩れのあとに残る、あの妙に沈む感触と似ていた。空洞がある。土の下に何かが残っている。

私は手を引いた。

爪の隙間に黒い土が入っている。土の匂いに混じって、古い紙の匂いがした。

その場所の端に、木の板が半分埋まっていた。

引き抜くと、文字が残っていた。

朝比奈。

その下は削られている。

私は板の表面を撫でた。削られた跡は古い。だが、その上から誰かが何度も指でなぞったらしく、木肌だけが滑らかになっていた。

「ここにいたの」

声にした途端、胃の奥が捻れた。

返事はなかった。

代わりに、土の下から小さな音がした。

紙を擦る音。

一枚。

また一枚。

帳簿をめくる音に似ている。

私は地面へ耳を近づけた。

湿った土の冷気が頬へ伝わる。遠くで川が流れている。その音の下に、幾つもの呼吸が重なっていた。誰かが泣いているようにも、眠っているようにも聞こえる。

――とうこちゃん。

今度は、土のすぐ下から声がした。

私は口元を指で押さえた。

返事をするな。

そう思ったのに、声がこぼれた。

「紗夜」

土の下の気配が、ぴたりと止まった。

「私は、あなたを見なかったことにした。あなたの手を離した。蓮にも本当のことを言わなかった。村が怖かったから。自分だけがこちら側に残りたかったから」

指先が震える。

「でも、もう同じことはしない。あなたを呼び戻すために、ここへ来たんじゃない。あなたを誰かの記憶の中へ閉じ込めるためでもない。あなたの名前が、ここで止まったままになっているなら、その止まった時間を終わらせる」

土の下で、かすかに爪を立てる音がした。

「だから、蓮を返して」

言葉を置くたび、自分の胸の中から何かが剥がれていく。蓮を救いたい。紗夜に謝りたい。村を壊したくない。全部を叶えることはできない。誰かを守るために別の誰かを閉じ込めるやり方は、もう終わらせなければならない。

「蓮の名前を返して。あなたの名前も返す。私が、村の人たちの前で呼ぶ」

土の中から、子どもの声がした。

――灯子ちゃん。

今度の声は、先ほどより近かった。

「なに」

――蓮を、迎えにきて。

「どこにいるの」

――下。

短い返事だった。

私は地図を取り出した。祠の裏手に、古い線が一本だけ残っている。百鳴きの丘の下を抜け、山の斜面へ続く線だ。紙を裏返すと、子どもの字で小さく書かれていた。

さや。

その文字の下に、別の筆跡が重なっている。

れん。

さらにその下に、細い線があった。

ここから、した。

地面の踏み固められた場所へ、線の先が届いている。

私は立ち上がった。

祠の正面へ戻ると、三つの提灯が揺れていた。風はない。紙の内側の赤い色が、少しずつ濃くなっている。

私は鈴の紐へ目を向けた。

触れない。

鳴らさない。

その代わり、祠の前で名前を呼んだ。

「朝比奈紗夜」

霧が一度、山の上で渦を巻いた。

「朝比奈蓮」

遠く、川の音が途切れた。

「志岐灯子」

最後の名前を口にしたとき、自分の胸の奥で何かが重く沈んだ。これまで私は、灯子という名前を役場の名札の裏に隠していた。村の中で役割を果たすための名前だけを使い、本当の自分が何を見て、何を恐れ、誰を見捨てたのかを曖昧にしていた。

けれど、私もここにいる。

沈黙した者として。

見捨てた者として。

それでも、今から名前を呼ぶ者として。

祠の鈴が鳴った。

私の手は触れていない。

一度。

間を置いて、二度。

三度目の音が鳴る前に、木立の奥で白いものが落ちた。

地面へ触れたそれは、提灯の紙ではなかった。

古い紙片だった。

拾い上げると、濡れた紙に幾つもの名前が並んでいる。墨は滲み、日付はところどころ欠けていた。けれど、最後の行だけは読めた。

朝比奈紗夜。

その下に、死亡年月日の欄がある。

空白だった。

私は紙片を胸へ抱えた。

山の下から、蓮の声がした。

「灯子!」

返事をしようとして、私は唇を閉じた。

声には、確かに蓮の癖があった。短く、苛立っていて、それでも最後に私の名前を待つ声。

けれど、ここでは声を信じてはいけない。

私は自分の名前を先に呼んだ。

「志岐灯子」

それから、もう一度、蓮の名を呼ぶ。

「朝比奈蓮。私はここにいる。あなたを迎えに行く。でも、あなたのところへは行かない。あなたを、こちらへ引きずり戻すために呼ぶんじゃない。自分の足で戻れるように、道を照らす」

返事はなかった。

代わりに、祠の裏手で土が大きく沈んだ。

踏み固められた地面の中央に、細い亀裂が走る。割れ目の奥から、冷たい空気が吹き上がった。湿った土と古い木、そして、何年も閉じ込められていた紙の匂いがした。

私はその亀裂の前へ立った。

足元の土は、今にも崩れそうだった。

それでも、戻らなかった。

霧の向こうで、白い提灯がひとつだけ揺れた。誰も持っていないのに、石段を下りていく。赤い光が霧の奥へ薄れていく。

私は紙片を握り、祠の鈴を鳴らさぬよう横を通り過ぎた。

もう後戻りはできない。

そう思ったとき、背後から子どもの声がした。

――灯子ちゃん。

私は振り返らなかった。

「紗夜」

――忘れないで。

「忘れない」

――蓮を、ひとりにしないで。

私は目を閉じた。

蓮を連れ戻すことと、紗夜を留めることは違う。

その違いを、今度こそ間違えない。

「あなたも、ひとりにしない」

声にした途端、土の下から返ってきた呼吸が、ひとつずつ遠ざかっていった。

祠の上空は霧で白く、山の稜線も、空の色も見えない。

ただ、亀裂の向こうから、蓮の足音が一つ聞こえた。

こちらへ向かっているのか。

それとも、さらに下へ降りているのか。

私は白い闇を見つめたまま、もう一度、自分の名前を呼んだ。

「志岐灯子」

その声だけが、霧の中で消えずに残った。

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