第10話 空欄の底で

亀裂の向こうから吹き上がる空気は、山の夜気より冷たかった。
冷たいというより、温度を持っていない。肌に触れても身体が反応する前に、触れた場所だけが自分から切り離されていくようだった。
私は紙片をコートの内側へしまい、亀裂の縁に片膝をついた。
下は、深さがわからない。
提灯の赤い光が途中で途切れている。底があるのか、霧が遮っているのかも見えなかった。ただ、どこかで水が落ちる音がする。ぽたり。ぽたり。一定の間隔で、暗闇が口を開閉しているようだった。
「蓮」
呼んだ。
返事はない。
代わりに、下から紙をめくる音がした。
一枚。
また一枚。
私は亀裂へ手を伸ばした。指先が空気に触れた瞬間、古い墨の匂いが鼻へ入ってくる。書庫の匂いに似ている。けれど、その奥には濡れた土と、長く閉め切った部屋の黴が混じっていた。
地面へ腹ばいになり、身体を滑らせる。
石の縁が脇腹へ食い込んだ。コートの布が裂ける。下へ降りるにつれて、霧が濃くなった。白いのに、光を反射しない霧だった。目を開けていても、まぶたの裏を見ているような感覚になる。
足先が何かに触れた。
木の板だった。
その板を踏み台にして、さらに身を沈める。靴底が土へついた。思ったより浅い。亀裂の下には、人ひとりが通れるほどの横穴が続いていた。
壁は土ではなく、古い石積みだった。
ところどころ木材で補強されているが、木は黒く湿り、釘の周囲から崩れている。蓮なら、触れただけで危険だと言うだろう。支えが浮いている。上からの荷重を受けきれず、いつ崩れてもおかしくない。
私は壁に手をつかず、身体を低くして進んだ。
頭上で、土が小さく鳴った。
崩れる音ではない。
誰かが、向こう側から指で叩いたような音だった。
一度。
二度。
三度。
私は立ち止まった。
「紗夜?」
声は返らなかった。
横穴の先に、薄い明かりが見えた。赤い提灯の光ではない。白い紙に反射した、青みがかった明かりだった。
近づくと、そこには木製の棚が並んでいた。
棚の上に、位牌がある。
ひとつではない。数えきれないほどの位牌が、名前を壁へ向けて並べられていた。表面には黒い布が掛けられ、どれも正面からは文字が見えない。
棚の下には帳簿が積まれていた。
表紙が湿気で膨らみ、綴じ糸がほどけている。最も上に置かれた帳簿だけ、誰かが開いたままにしていた。
私は近づき、ページを覗き込んだ。
名前。
日付。
家の印。
その三つが、途中からばらばらになっていた。
名前だけがあって、日付がない。
日付だけがあって、名前がない。
家の印だけが押され、行の中央が空白になっている。
空欄は、記入漏れではなかった。
墨を塗り潰した跡がある。紙を削った跡もある。削られた場所へ何度も水が落ち、繊維が膨らんでいた。誰かが消し、別の誰かが戻そうとし、それでも最後には空白だけが残ったようだった。
頁の端に、小さな文字があった。
戻すな。 呼ぶな。 名を閉じよ。
私は指でその文字をなぞった。
「閉じたのは、名前じゃない」
背後から声がした。
振り返ると、蓮が立っていた。
顔色が悪い。髪も作業着も濡れているのに、泥がほとんどついていない。右手には、欠けた位牌を握っていた。指の間から血が流れている。けれど、本人は痛みに気づいていないようだった。
「蓮」
「灯子」
声は蓮のものだった。
それでも私は、すぐには近づかなかった。
蓮は眉を寄せた。
「何してる」
「あなたを迎えに来た」
「なら、早く出るぞ」
「その前に、名前を言って」
蓮の顔から、わずかに表情が消えた。
「朝比奈蓮」
「もう一度」
「朝比奈蓮」
声に苛立ちが混じっている。呼吸もある。言葉の途中で喉がわずかに揺れた。
私は一歩近づいた。
「紗夜は?」
蓮の指が位牌を強く握った。
「ここにいる」
「どこに」
「ここだ。さっき見た。提灯の下にいた。俺を呼んだ」
「それは紗夜の名前を使った声かもしれない」
「お前までイタルみたいなことを言うな」
「声が本物でも、帰る場所が本物とは限らない」
蓮は黙った。
その沈黙の中で、棚の奥から小さな鈴が鳴った。
音は一度だけだった。
蓮の顔が変わる。妹を見つけた子どもの顔に戻りかけて、すぐに、何かを失うことを知っている大人の顔へ戻った。
「ここに、紗夜の記録がある」
「ある。でも死亡年月日は空白」
「だから埋める」
「埋めれば、終わるの?」
「終わらせるために来た」
「あなたは、紗夜を終わらせられる?」
問いかけると、蓮の口元が歪んだ。
「妹を物みたいに言うな」
「物みたいに閉じ込めたのは、村だよ」
私は帳簿を蓮へ向けた。
「紗夜だけじゃない。この人たちは、死んだ日を奪われている。生きていた日も、死んだ日も、帰れなかった日も、全部空欄にされている。空欄だから、誰も見送れない。誰も責任を取らなくていい」
蓮は帳簿を見た。
その目が、一番下の行で止まる。
朝比奈紗夜。
名前の下に、何もない。
蓮の手から、位牌が落ちた。
木が石床に当たり、乾いた音を立てる。
「灯子」
「なに」
「紗夜が消えた日を、覚えてるか」
「覚えている」
「言えるか」
私は答えられなかった。
山崩れの後、村はその日を別の日に置き換えた。雨が強かった日。道が塞がった日。捜索を打ち切った日。けれど、紗夜が消えた日だけは、誰も口にしなかった。
蓮が私を見る。
「灯子」
責める声ではなかった。
だから、余計に逃げられなかった。
「七月十七日」
言葉にした瞬間、横穴の奥で何かが崩れた。
土の中から、幾つもの息が漏れる。
七月十七日。
誰かが、低く繰り返した。
七月十七日。
別の声が重なる。
七月十七日。
声は次第に増え、横穴全体が名前ではなく日付を呼び始めた。帳簿の空白が、紙の上で濡れたように広がっていく。
蓮が耳を塞いだ。
「やめろ」
「蓮、聞いて。日付を呼ばないといけない」
「何が起きてる」
「空欄が開いてる」
棚の上の位牌が、ひとつずつ揺れた。
黒い布の下から、文字が透けて見える。
知らない名前。
知っている名前。
山崩れの日に消えた人たちの名前が、暗闇の中で浮かび上がっていた。
その中に、黒瀬イタルという名はなかった。
代わりに、最後の棚の端に、名前のない位牌が一つだけ置かれていた。
蓮がそれを見た。
「これ……」
「触らないで」
言った瞬間、横穴の入口から老人の声が響いた。
「遅うございましたな」
百瀬宗徳が立っていた。
手には古い印章と、火の消えた提灯を持っている。穏やかな顔をしていたが、眼鏡の奥の目は、帳簿ではなく蓮の手元を見ていた。
「その帳面を返していただけますか」
蓮は拾った位牌を握り直した。
「返すのは、あんたのほうだ」
「何を」
「紗夜の死んだ日を。ここにいる全員の名前を」
宗徳はしばらく黙った。
それから、空欄の頁へ視線を落とした。
「日付を戻せば、戻ってくるものもございます」
「それでいい」
「本当に?」
宗徳の声は静かだった。
「戻ってきた者が、誰の顔をしているかも知らずに?」
そのとき、蓮の背後で子どもの声がした。
――兄ちゃん。
蓮の肩が跳ねた。
私は彼の腕を掴んだ。冷たい。けれど、生きた人間の体温が残っている。
「振り向かないで」
蓮は動かなかった。
宗徳が提灯の火口を開く。
「名を呼ぶなら、最後まで責任をお持ちなさい」
「宗徳さん」
私が言うと、老人は初めてこちらを見た。
「灯子さん。あなたも、もう戻れませんよ」
「戻るつもりはありません」
私は帳簿を抱えた。
「ここにある名前を、全部地上へ持っていく」
宗徳の指から、印章が落ちた。
石床に転がった印章が、空欄の頁へ赤い印を押す。
日付のない行に、ひとつだけ。
七月十七日。
横穴の奥で、百の声が一斉に息を吸った。
その中から、紗夜の声だけが、はっきりと聞こえた。
――兄ちゃん、今度は振り向いて。
蓮の指が、私の腕から離れた。
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