第8話 霧に残る声

目を覚ましたとき、頬が土に触れていた。
冷たい。けれど、深く沈む冷たさではなかった。表面だけが湿っている。雨に濡れた地面の、薄い膜のような冷気だった。俺は手をつき、指先で土を押した。柔らかいのに、下には硬いものがある。石か、木の板か、それとも誰かが踏み固めた層か。
鳥の声がしなかった。
虫も鳴いていない。川の音さえ遠く、霧の奥で誰かが低く息をしているように聞こえた。
「起きた?」
すぐそばから声がした。
俺は反射的に身を起こしかけ、膝から力が抜けた。ぬかるんだ地面へ手をつく。掌に細かな砂が貼りついた。
少し離れた場所に、黒瀬イタルが立っていた。
霧の中に立っているのに、濡れていない。黒い上着の肩にも、髪にも、水滴がなかった。足元を見ても、彼の靴跡は浅い。土を踏んだ跡が、途中で消えている。まるで歩いてきたのではなく、霧が彼をそこへ置いたようだった。
「どこだ」
「百鳴きの丘の下」
「地下か」
「下のほう。上ではない」
「同じだろ」
「蓮にとってはね」
イタルは、受話器を持つ前のように一度息を止めた。それから俺の喉元を見る。目を合わせない。声の出方を聞いているようだった。
俺は立ち上がろうとした。足元に力を込める。膝は震えたが、今度は立てた。作業着の裾に泥がついている。右手には、いつの間にか鈴の欠片を握っていた。錆びた金属の縁が掌へ食い込み、赤い跡を残している。
「灯子は」
「いない」
「宗徳の帳簿は」
「ない」
俺は内ポケットを探った。紗夜の位牌もなかった。
その事実に気づいた瞬間、胸の奥が空洞になった。手袋も、地図も、帳簿も、位牌もない。俺の周囲から、紗夜に繋がるものだけが、きれいに抜き取られている。
「どこへやった」
「俺は触ってない」
「なら、誰が」
「それを聞くために、ここへ来たんじゃないの」
「俺は妹を探しに来た」
「妹を探す人間の顔は、もう少し自分のものを持っているよ」
俺はイタルへ詰め寄った。距離を詰めたはずなのに、彼の輪郭は逆に遠のいた。霧が一枚、俺と彼の間へ入り込んだようだった。
「ふざけるな」
「ふざけてない。蓮、これ以上呼べば戻れなくなる」
短い言葉だった。
けれど、その一言は、土の下から伸びた手のように胸へ入ってきた。
「戻れなくなるって、どこへだ」
「さあ」
「さあ、じゃない。俺はどこにいる」
「今は、神伏にいる」
「今は、って何だ」
「君が自分の名前を覚えているあいだは、神伏にいる」
俺は黙った。
霧の向こうで、電話の呼び出し音がした。
三度。
間を置いて、三度。
そこに電話ボックスはない。川も、墓標も、見送りの家も見えない。ただ、音だけがある。耳から入るのではなく、頭の奥に直接置かれたような音だった。
俺は自分の名前を思い出そうとした。
朝比奈蓮。
口に出す前に、文字の形が崩れた。
朝比奈。
そこまではわかる。
蓮。
その一文字が、霧の中で浮いている。水面に落ちた墨のように、輪郭を広げながら薄くなっていく。
「朝比奈蓮」
イタルが呼んだ。
声に、初めて温度があった。
俺は顔を上げた。
「……今、俺の名前を」
「呼んだ。君が自分で呼ぶと、声を持っていかれるから」
「誰が持っていく」
「名前を必要としているもの」
「紗夜か」
イタルは答えなかった。彼の視線が、俺の背後へ流れた。
俺は振り向きかけた。
「やめて」
「何がいる」
「何もいない。だから見ないほうがいい」
「見えないものを、いるとかいないとか決めるな」
「それは君の悪い癖だね。触れればわかると思っている」
「触らなければ、誰かが勝手に消す」
「消したいんじゃない。戻そうとしている」
「同じことだ」
「違う。消すのは、存在をなかったことにすること。戻すのは、存在をこちら側へ引きずること。どちらも、その人の行き先を奪う」
俺は掌の鈴を見た。
「紗夜は、どこへ行くべきなんだ」
「それを、君が決めていいの?」
「妹だ」
「妹だから決められないんだよ」
声が乾いていた。だが、その乾きの底に、何度も誰かを見送ってきた人間の疲れがある。
「蓮。君は紗夜を取り戻しに来た。電話の向こうの声を聞いて、丘へ入った。土の下にいる気配を感じて、名前を呼んだ。呼ばれたら、答えが返ってくると思ったんだろうね」
「返ってきた」
「声はね」
「紗夜の声だった」
「そう聞こえた」
「違うと言うのか」
「俺は、声を聞き分ける。生きている人間の声には、息の温度がある。怒鳴っても、泣いても、言葉の途中で身体が揺れる。死んだものの声には、それがない。記憶から形を借りて、口に似た音を出すだけだ」
「灯子は、紗夜の声には息があると言っていた」
「灯子は、そう思いたいんだよ」
「お前は何を知っている」
「知っていることを全部話すと、君は話の形を信じる。俺が言ったから正しいと思う。そういうふうに人は、誰かの声へ寄りかかる。だから言わない」
「またそれか。宗徳も灯子も、言わない、言えないで済ませる。お前も同じなら、俺は一人で行く」
俺は丘の奥へ向かって歩き出した。
一歩目で、土が沈んだ。
靴底の下から、空気が抜ける音がした。湿った地面がわずかに陥没し、足首まで沈み込む。俺は咄嗟に体を引いたが、膝から下が抜けかけた。イタルの手が伸び、作業着の背中を掴んだ。
「離せ」
「離したら落ちる」
「落ちたら、下へ行ける」
「下に行けば会えると思っている?」
「会えなくても、何があるか見る」
「それが、戻れなくなるって言ってるんだよ」
イタルは俺の背を掴んだまま、低い声で続けた。
「境界は扉じゃない。開ければ向こうへ行けるものではない。薄い場所に立つと、生きている側の輪郭が削られる。最初に名前が薄くなる。次に、帰る場所を忘れる。最後に、自分が誰を待っていたのかもわからなくなる。そうなれば、君は紗夜のところへ行けるかもしれない。でも、紗夜を見つけても、兄として見つけることはできない」
「それでもいい」
「よくない」
「お前に決められることじゃない」
「決めていない。選べと言っている」
「何を」
「取り戻すか、還すか」
霧が、谷底へ向かって流れていく。
その白い動きの中に、赤いものが見えた。提灯だった。誰も持っていない。細い骨組みだけの提灯が、霧の中をゆっくり進んでいる。紙は破れているのに、内側からぼんやりした明かりが滲んでいた。
俺の足がそちらへ向く。
「紗夜」
「呼ばないで」
「見えている」
「見せられている」
「同じだろ」
「違う。君が見たと思ったものは、君に見せるためにそこにある」
提灯が止まった。

破れた紙の向こうで、小さな影が揺れた。
肩が先に動いた。
紗夜が笑うときの癖だった。
「兄ちゃん」
声がした。
俺の喉が勝手に開いた。
「紗夜、そこにいるのか」
「返事をするな!」
イタルの声が重なった。
提灯の下の影が、こちらへ顔を向けた。顔は見えない。けれど、赤い髪紐が揺れ、鈴が鳴った。
音のしない鈴が、鳴った。
「兄ちゃん、迎えにきて」
俺は一歩、踏み出した。
泥の中で、誰かの指が俺の足首を掴んだ気がした。冷たい手だった。子どもの手の大きさだった。
「紗夜」
「朝比奈蓮!」
イタルが叫んだ。
その声に押されるように、俺は自分の名前を思い出した。
朝比奈蓮。
解体作業員。二十八歳。神伏の出身。妹を探しに戻ってきた。母の四十九日のために帰り、仏壇で位牌を見つけた。灯子と会い、宗徳の帳簿を見た。鈴の欠片を拾い、電話の声を聞いた。
ひとつずつ、手で触れるように思い出した。
俺は誰なのか。
何をしに来たのか。
誰の名前を呼ぶのか。
提灯の影が、少しだけ大きくなった。
「兄ちゃん、こわいよ。ひとりにしないで」
紗夜の声だった。
今度は、確かに息をしていた。泣く直前の、ひそめた息が混じっている。
それでも、俺は踏み出さなかった。
「お前を一人にしたのは、俺だ」
声に出すと、胸の奥が裂けた。
「見つけられなかった。手を伸ばしたのに、掴めなかった。お前が呼んでいたのに、俺は違う声を信じた。だから今度は、ちゃんと呼ぶ」
イタルが、背後で息を止めた。
「蓮」
「紗夜」
提灯の影が揺れた。
「俺はお前を取り戻しに来た。でも、俺のところへ連れて帰るためじゃない。お前の名前を、誰かの帳簿の空欄にしたままにしないためだ。お前が生きているなら、生きていた時間を返す。死んでいるなら、死んだ日を返す。どちらにもなれないままなら、そのことを隠さない。俺は、お前を俺の寂しさの中へ閉じ込めない」
提灯の火が、ふっと弱くなった。
「兄ちゃん……」
「紗夜。聞こえるなら、俺の名前を呼ぶな」
声が止まった。
「呼ぶなら、自分の名前を言え。朝比奈紗夜。お前は、誰かに呼ばれたからここにいるんじゃない。お前自身の名前を持っている。俺は、それを探す」
霧の中で、提灯の紙が軋んだ。
赤い紐がほどける。
その向こうにあった影が、少しずつ薄くなっていく。最後に見えたのは、幼い手だった。何かを握っている。白い石か、消しゴムか、それとも俺の作業着の袖か。
「兄ちゃん」
「何だ」
「……見つけてくれて、ありがとう」
今度の声には、息があった。
それから、提灯が消えた。
暗闇が戻った。霧だけが残り、谷の底に鳥の声が一つ、遠くで鳴った。長いあいだ眠っていた場所が、ようやく自分の音を取り戻したようだった。
俺はその場に膝をついた。
足元の土から、木の角が覗いている。手を伸ばして掘り出すと、紗夜の位牌だった。布は濡れて重くなり、欠けた角には新しい亀裂が走っている。
イタルは俺の横にしゃがみ込んだ。
「まだ、持って帰るつもり?」
「持って帰る」
「位牌を?」
「名前を」
「同じじゃないよ」
「わかってる」
俺は位牌の表面を親指で拭った。煤けた木肌の下に、紗夜の名がある。薄くても、欠けていても、完全には消えていない。
「帳簿を返す」
「宗徳に?」
「灯子に見せる。村の人間にも見せる」
「そうすると、何かが崩れる」
「崩れたら、片づける」
イタルは小さく笑った。目は笑っていなかった。
「君は、壊すことをやめないね」
「壊れたままにしておくよりはいい」
「それで、紗夜を還せると思う?」
「まだわからない」
「わからないのに行く?」
「わからないから行く」
イタルは霧の先へ目を向けた。
「百鳴きの丘の地下には、古い道がある。山の祠の裏へ続いている。けれど、そこへ行くなら、もう電話の声を追わないことだ。声に呼ばれて歩くと、どこへでも行ける。正しい道を選ぶには、自分で呼ばなければならない」
「呼び方を変えろ、と言ったな」
「そう」
「どう変える」
イタルは少し黙った。
「名前を、こちらへ連れてくるために呼ぶんじゃない。名前を、その人のところへ返すために呼ぶ」
「その違いが、まだわからない」
「そのうちわかる。君が、自分の手から何かを離せたときに」
イタルは立ち上がった。
霧が彼の膝を包み、腰へ上がり、肩へまとわりつく。それでも彼の輪郭は消えなかった。消えないのではなく、消えかけたまま立っているように見えた。
「お前は何者だ」
俺が訊くと、イタルはすぐに答えなかった。
「黒瀬イタル」
「それだけか」
「それだけで、今は足りる」
「死んでるのか」
「生きている人間は、そんなに自分の生死を気にしないよ」
「質問に答えろ」
「蓮。真っ直ぐな問いは、境界では一番危ない。答えを求める形をして、相手をこちらへ引っ張るから」
「逃げるな」
「逃げてない。俺は、どちら側にも長くいないだけ」
イタルは背を向けた。
歩き出す前に、一度だけ振り返る。習慣のような動きだった。だが、その目が俺ではなく、俺の背後の霧を見ていることに気づいた。
「明日、山の祠へ行く」
「灯子も来る」
「来るだろうね」
「知っているのか」
「彼女はもう、沈黙の側へ戻れない」
イタルはそれ以上言わなかった。
霧の中へ歩き出す。足跡は浅く、途中で消える。俺はその背中を追った。
追わされているのか、導かれているのか、もう判然としなかった。
ただ、今度は自分の足で歩いていることだけはわかった。
川の音が近づいてくる。霧の向こうで、電話の呼び出し音が鳴った。
三度。
間を置いて、三度。
俺は立ち止まった。
ポケットの中で、位牌の欠けた角が指へ当たる。鈴の欠片は、もう握っていない。代わりに、空いた掌へ湿った土の感触が残っている。
俺は電話の音へ向かって、名前を呼ばなかった。
「朝比奈蓮」
自分の名を、低く口にした。
霧の向こうから、返事はなかった。
それでも、足元の土の中で、誰かが一度だけ息を吸った。
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