7話 空欄の行

蓮が霧の中で倒れているあいだ、私は一人で見送りの家へ向かった。

家を出る前に、戸締まりを二度確かめた。玄関の鍵を回し、いったん手を離してから、もう一度つまみ直す。いつから始めた癖なのか、もう覚えていない。霧の濃い夜は、閉めた戸の向こうにいるものが、本当にこちら側のものかどうか確かめたくなる。

役場の書庫から持ち出した名簿を、胸に抱えていた。

古い紙は湿気を吸って重くなり、背の糊が浮いている。歩くたびに表紙の内側で紙が擦れ、誰かが小さな声で言い争っているような音がした。私はそれを聞かないふりをして、川沿いの道を急いだ。

霧は膝のあたりから這い上がり、コートの裾を濡らしていた。川の水音は近いのに、水面は見えない。石にぶつかる流れの音だけが、家々の間を縫うように続いている。

蓮は、どこにいるのだろう。

百鳴きの丘で姿を見失ったあと、私は何度も彼の名前を呼びかけそうになった。だが、声にすれば、私の声そのものが誰かに使われる気がした。あの場所では、聞こえたものを信じてはいけない。紗夜の声でさえ、紗夜自身のものとは限らない。

それでも、蓮を置いてきたことに変わりはなかった。

まただ、と私は思った。

あの日も、私は蓮を置いてきた。

見送りの家の戸は、鍵がかかっていなかった。

引き戸を開けると、冷えた線香の匂いが鼻へ入り、湿った木の匂いがその後ろから押し寄せてきた。誰もいないはずなのに、座敷の奥には人の気配がある。呼吸ではない。木が水を吸う音でもない。誰かが、そこにいることを忘れられないまま、じっと待っている気配だった。

私は靴を脱ぎ、揃えて上がった。

「宗徳さん」

返事はなかった。

帳場の机に、宗徳の湯呑みが置かれていた。茶は冷めている。蓋は少しだけずれていた。宗徳なら、必ず直すはずの位置だった。

そのずれが、妙に不吉だった。

私は名簿を机へ置き、灯りをつけた。蛍光灯は一度明滅してから、白い光を落とした。納骨棚の奥行きが、光の届かない場所で途切れている。棚には家ごとの位牌箱が並んでいたが、いくつかの箱だけ、札が外されていた。

名前のない箱。

私は近づかなかった。

名簿を開くと、紙が波打っていた。村の家々の名が並んでいる。朝比奈、志岐、百瀬。その他にも、今では空き家になった家、誰も住んでいない家、家そのものが崩れてしまった家の名が残っている。

私は頁をめくった。

死亡年月日の欄が空白になった家は、山崩れの年を境に増えていた。最初は二軒だった。それが三軒になり、五軒になり、十年後には、村の半分近くに空欄があった。

空欄は欠落ではなかった。

欠落に見せかけた、選択だった。

私は指で行をなぞった。紙の上に残る凹みを、指先が拾っていく。日付を書いた跡がある。消した跡もある。さらにその上から、薄い紙を貼っている。誰かが一度だけ消したのではない。何度も書き、何度も隠し、隠したこと自体を記録から消そうとしている。

消した者がいる、では足りない。

消すために書いた者がいる。

「……どうして」

声にしてから、自分の声が知らない人のものに聞こえた。

何をどうして、と問う相手は、もうここにいない。けれど、蓮ならすぐに訊いただろう。誰がやった。なぜやった。何を隠した。彼は壊れた梁を見つけると、周囲の安全を確認するより先に、浮いた部分へ手を伸ばす。危険だとわかっているのに、放置することのほうを嫌う。

蓮の手が、丘で土を掴んでいた。

その手を、私は掴めなかった。

名簿の頁をさらにめくった。

山崩れの日付の欄だけ、文字の並びが不自然に揃っていた。死亡日も、発見日も、埋葬日も、同じ筆圧で書かれている。誰かが後から一斉に書き直したのだろう。けれど、その下には別の筆跡が残っていた。

細く、震えた文字。

「声、返る」

「土、動く」

「名を三度」

私はそこで指を止めた。

山の祠で行われる儀式は、帰ってきてはいけない者の名を三度唱えるものだと聞かされてきた。子どもの頃から、そういうものだと思っていた。名前を呼んで、戻ってこないようにする。村の外へ出ていくものを、村へ引き戻さないための祈り。

けれど、帳簿の端に残った書き込みは、その意味を逆さにしていた。

名を三度呼ぶ。

戻ってきてはいけない者を、戻すために。

私は椅子へ腰を下ろした。机の上に、朝から食べられなかった梅干しのおにぎりがある。自分で持ってきたものだった。蓮に渡すつもりで握ったのに、彼は霧の中へ消えた。包み紙は湿気を吸い、赤い梅の色が米へ滲んでいる。

一口だけ食べようとして、口元まで持ち上げた。

食べられなかった。

米の匂いが、土の匂いに変わった。

あの日、紗夜の手を握ったときの冷たさを思い出した。生きている子どもの手なのに、川の石のように冷たかった。私は帰ろうと言った。蓮のところへ行こうと言った。紗夜は返事をしなかった。

ただ、呼ばれた方向へ顔を向けた。

私は、あの子の名前を呼ばなかった。

呼べば、返事が返ってくると思った。返事が返れば、私のところへ来ると思った。私のところへ来れば、私もあちら側へ引かれると思った。

怖かった。

子どもだったからではない。大人たちが黙る理由を、子どもながらに理解してしまったからだ。

怖いものを見た者が黙ると、周りの人間も黙る。

誰かが「聞かなかった」と言えば、次の人間も「聞かなかった」と言う。やがて、聞こえていた声のほうが嘘になる。残るのは、沈黙だけだ。

私は今まで、それを村の秩序だと思っていた。

違った。

沈黙は、誰かが誰かを支えるための梁ではなかった。崩れかけた家を、崩れたまま立っているように見せるための布だった。

私は名簿の端をめくった。

薄い紙が一枚、糊で貼られている。そこに並ぶ名は、山崩れの日に消えた者たちだった。大人も、子どももいる。死亡年月日はない。ただ、名前だけが書かれている。

朝比奈紗夜。

その文字を見た瞬間、胸の奥が狭くなった。

名前の下に、小さな書き込みがある。

「呼ばれた者は、戻らない」

私は何度も読んだ。

戻らない、というのは、帰ってこないという意味ではなかった。こちらへ戻れないという意味だった。生きている側にも、死んだ者の側にも戻れず、呼び声だけになった者たち。

紗夜も、そこにいる。

そう思った瞬間、納骨棚の奥で紙が擦れた。

一枚。

また一枚。

誰かが帳簿をめくっている。

私は立ち上がった。

「誰?」

返事はなかった。

棚の奥は暗い。位牌箱の隙間に、白いものが見える。紙か、布か、それとも子どもの袖か。目を凝らすほど、輪郭が曖昧になっていく。

私は一歩近づいた。

湿った木の匂いが濃くなる。冷えた線香の香りが喉の奥へ絡みつく。息を吸うたび、胸の内側まで古い納骨堂になっていくようだった。

――灯子ちゃん。

小さな声がした。

私は足を止めた。

紗夜の声だった。

子どもの頃と同じ、息をひそめた声。泣く前に喉を閉じる、あの声。

――蓮を連れてきて。

私は返事をしなかった。

代わりに、自分の袖口を親指で押さえた。ここにいる。私は志岐灯子だ。神伏の役場で働き、空欄の帳簿を何度も見て、何人もの名前を忘れた。紗夜を見捨て、蓮を置いてきた。私は、その記憶を持っている。

持っているはずだった。

名前を忘れた家が、いくつもある。

顔を思い出せない人が、いくつもいる。

それでも、紗夜の名前だけは忘れてはいけない。

私は名簿を閉じ、立ち上がった。棚の奥の声は、まだ私を呼んでいる。

「紗夜」

初めて、声にした。

「あなたを見なかったことにはしない」

声は返らなかった。

「蓮を連れていくこともしない。あなたを、蓮のところへ戻すこともしない。戻れないなら、戻れないままにしておくこともしない。あなたの名前を、あなたの場所へ返す」

納骨棚の奥で、紙が裂けた。

びり、と乾いた音がした。

私は振り返らず、帳場へ戻った。机の引き出しから印鑑ケースを取り出す。雨に濡れたまま放置していた留め金が、赤く錆びている。役場の書類に印を押すための道具だ。何かを決定し、何かを正しい形にするためのもの。

けれど、私はそれを使って、ずっと空欄を守ってきた。

名札も外した。

「志岐」と書かれた小さな札を、指先で留め金から外す。金属が外れる音は、驚くほど大きかった。見送りの家の静けさの中で、誰かの骨が折れたように響いた。

私は名札を机へ置いた。

もう、役場の手順の中だけでは動けない。

村を守るために沈黙することと、村の沈黙を守ることは違う。私は今まで、その違いを見ないふりをしてきた。蓮に「知らなかった」と言えなかったのは、知らなかったからではない。知っていて、言わなかったからだ。

外で、電話の呼び出し音が鳴った。

三度。

間を置いて、また三度。

私は名簿を胸に抱えた。

受話器を取るつもりはなかった。けれど、音は外からではなく、納骨棚の奥から聞こえていた。

――灯子ちゃん。

私は目を閉じた。

「紗夜」

声が震えた。

「今度は、私が呼ぶ。あなたを隠すためじゃない。あなたを、終わらせるために」

呼び出し音が止まった。

代わりに、土の下から小さな足音がした。

一歩。

間を置いて、もう一歩。

私は名簿を開き、朝比奈紗夜の名を指で押さえた。紙は湿って柔らかく、文字の輪郭が崩れかけている。それでも、完全には消えていない。

消させない。

その思いが、初めて恐怖より強くなった。

私は立ち上がり、見送りの家を出た。霧は濃く、石段の先は白く塞がれている。蓮が倒れている場所へ向かわなければならない。彼を連れ戻すためではない。彼が自分の名前を失う前に、ここへ戻すためだ。

石段を下りる途中、背後で戸が閉まった。

振り返らなかった。

霧の中で、名札を外した胸元だけが、妙に軽かった。

けれどその軽さの下には、これまで黙っていた者たちの名前が、墓石のように積み重なっている。

私は一つずつ、口の中で呼んだ。

誰にも聞こえないように。

けれど、今度は消えないように。

← 横にスクロールして読み進められます