6話 見送りの家の帳簿

見送りの家へ向かう道は、昼を過ぎても暗かった。

霧が山から下りてきて、納骨堂へ続く石段の両側に溜まっている。足元だけが妙に明るく、濡れた石の表面に空の白さが貼りついていた。踏むたびに靴底がわずかに沈む。石の下へ水が回り、長い時間をかけて土台を腐らせている。

俺は石垣に手を添えた。

表面は硬い。だが、指の腹を押しつけると、奥からわずかな空洞が返ってきた。建物なら、危険な沈み方だった。支えを失った壁は、見た目が無事なほど厄介だ。いきなり崩れるまで、誰も手を入れない。

見送りの家も、神伏も、同じだった。

引き戸の前で靴を脱ぎ、音を立てないように揃えた。湿った線香の匂いが、戸の隙間から流れてくる。土に埋めた木箱を開けたときのような、冷たく甘い匂いだった。

「お入りください」

奥から百瀬宗徳の声がした。

宗徳は帳場の前に立っていた。灰色の作務衣に、墨の染みた指。眼鏡の位置を直し、俺の靴を一度見てから、少し下へ視線を落とした。

「灯子さんはご一緒ではないのですね」

「今日は俺ひとりだ」

「そうですか」

言葉の間に、わずかな安堵があったように思えた。

俺はその間を見逃さなかった。

「灯子から、ここへ来ればわかると言われた」

「灯子さんは、よく分からないことをおっしゃる」

「お前も同じだ」

宗徳は返事をせず、座敷へ茶を運んだ。湯呑みを置き、蓋を取る。湯気を逃がしてから、また蓋を戻す。その向きが少しでもずれると、指先で直した。

俺は茶に手をつけなかった。

「帳簿を見せてくれ」

宗徳は座ったまま、しばらく俺を見なかった。視線は俺の顔ではなく、畳の縁と、俺の手元と、内ポケットのあたりを行き来している。

「何の帳簿でしょう」

「紗夜が載っているものだ」

宗徳の指が、膝の上で止まった。

「朝比奈さん。名簿と帳簿は、似ているようで違います」

「呼び方はどうでもいい」

「呼び方を軽く扱ってはいけません。名を記す紙には、それぞれ役目があります。戸籍は、生きている者の位置を定める。墓の記録は、死者を送った日を定める。納骨堂の帳簿は、そのあいだにあるものを、決めずに置くための記録です」

「決めずに置く?」

「生きているとも、死んでいるとも、すぐには決められない者がいる。災害の直後などには、そういう記録が必要になります」

「必要だったから、妹を空欄にしたのか」

宗徳は眼鏡を外し、布で拭いた。レンズには何もついていない。それでも、何度も同じ場所を拭いている。

「あなたは、妹さんが生きていると思っているのですか」

「思ってるんじゃない。確かめに来た」

「声を聞いたから?」

指先が硬くなった。

「何のことだ」

「電話が鳴ったのでしょう」

宗徳は初めて俺の顔を見た。目が合ったのは一瞬だった。すぐに視線は湯呑みへ落ちる。

「村の噂を聞いた」

「噂は、聞いた者の中で形を変えます。電話の向こうに誰がいたかは、あなたにしか分からない」

「紗夜だった」

「そう思いたい声だったのではありませんか」

「妹の声を忘れたつもりはない」

「忘れていないつもりでも、記憶は手を離します。特に、長く失われたものは」

俺は立ち上がり、帳場の奥へ歩いた。壁際に、分厚い帳簿が何冊も並んでいる。革の表紙は湿気を吸って黒く膨らみ、背表紙の文字はほとんど消えていた。指を伸ばすと、宗徳の声が背後から落ちた。

「それは、私がお預かりしているものです」

「なら、見せろ」

「見せられないものもあります」

「見せたくない、の間違いだろ」

「そう言われても構いません」

穏やかな声だった。怒りを受け止めるためではなく、怒りが壁にぶつかって戻ってくるのを待つ声だ。

俺は振り向いた。

「紗夜の名前を消したのは誰だ」

宗徳は茶碗の蓋を直した。

「消したのではありません」

「灯子も同じことを言った」

「灯子さんが、そこまでお話しになったのですか」

「話したのは半分だ。残りを聞きに来た」

「半分を知れば、残りが知りたくなる。人はそういうものです」

「だから隠すのか」

「隠しているのではなく、耐えられる形にしているのです」

「耐えられる形?」

「朝比奈さん、あなたは解体の現場で、壊れた柱を見つけたらどうしますか。すぐに外しますか」

「周りを確認する。荷重がどこに逃げているか見る」

「その柱だけを悪者にしない」

「当たり前だ」

「この村も同じです。空欄だけを見て、誰かが怠った、誰かが卑怯だったと決めれば、帳簿を破ることはできます。しかし、空欄を支えている家々まで倒れる。朝比奈家も、百瀬家も、志岐家も、山崩れの夜からずっと、同じ梁にぶら下がっているのです」

「それで、誰かが落ちるのを待ってるのか」

「待っているのではありません。落とさないようにしている」

「落ちないように、土の下へ押し込めた」

宗徳の顔から、ほんの少しだけ血の気が引いた。

「土の下にいる者を、土の下にいるままにすることが、残酷だとお思いですか」

「違うのか」

「ええ。残酷です」

あまりに素直な答えだったので、俺は言葉を失った。

宗徳は湯呑みを両手で包んだ。茶はもう冷めている。口をつけず、そのまま続けた。

「ですが、山崩れの夜、土の下から声がした。助けを呼ぶ声がいくつも聞こえた。掘れば助かるかもしれない。けれど山肌はまだ動いていた。二次崩落が起きれば、救助に入った者も全員埋まる。村の者たちは、声を聞きながら、道を塞ぎました。聞こえないふりをしたのではありません。聞こえていたからこそ、塞いだのです」

「それを、死者を見送ったと言うのか」

「そう呼ばなければ、誰も生きていけなかったのでしょう」

「名前を空欄にして?」

「名前を書けば、死を確定させる。死を確定させれば、呼び戻せなくなる。あの夜の村人たちは、死者を手放せなかった。手放せないまま、墓へ置いた。置いたのに、送り終えたことにした」

宗徳は立ち上がり、帳簿の棚から一冊を抜き取った。表紙を撫で、紙の端を揃えてから、俺の前へ置く。

「これが、古い控えです」

表紙を開くと、墨の匂いがした。年月日と家名が並んでいる。山崩れの年の頁だけ、紙の色が違っていた。何度もめくられ、何度も押さえられた部分だけが黒ずんでいる。

俺は朝比奈の名を探した。

あった。

家名の下に、家族の名前が並んでいる。母、父、俺。そこに、紗夜の名があった。

朝比奈紗夜。

名前の右側には、死亡年月日の欄がある。

空白だった。

「ここだ」

指を置いた瞬間、紙が冷たくなった気がした。インクの線は途中で揺れ、最後の「夜」の字だけが薄い。上から何度もなぞった跡があり、紙の繊維が毛羽立っている。

「この空欄は、いつからだ」

「記録された日からです」

「誰が書いた」

「先代です」

「百瀬の家の人間か」

「はい」

「紗夜が消えたのは十年前だ。山崩れはもっと前だろ」

「災害は一度で終わりません。山が崩れたあと、人の記憶も崩れました。どの家が誰を失ったのか、どの声を聞いたのか、年月を重ねるほど曖昧になった。だから空欄は増えた。失った者を失ったままにできない家ほど、空欄に頼りました」

「頼った結果が、これか」

俺は頁を押さえた。紙が波打つ。すると、紗夜の名前の下に別の薄い文字が浮かび上がった。

日付ではない。

「……ここに、何か書いてある」

宗徳が手を伸ばした。

俺は手首を掴んだ。

老いた腕は細い。だが、引こうとする力は強かった。

「触るな」

「紙を傷めます」

「傷めたのは誰だ」

宗徳は俺を見た。目の奥に、はじめて隠しきれない疲れが現れた。

「私です」

その一言は、部屋の中央へ重く落ちた。

「私が、紗夜さんの名を記録しました。私が日付を空けました。私が控えから名前を薄くしました。朝比奈家の方々が忘れたのではありません。忘れるように、何度も記録を作り直したのです」

「なぜ」

「あなたのお父上に頼まれたからです」

胸の奥で、何かが軋んだ。

「父が?」

「紗夜さんを失ったあと、お父上はあなたまで探しに行こうとしました。霧の中へ入って、何度も戻れなくなった。ある夜、電話ボックスの前で倒れているところを見つけました。そのとき、お父上は私に言ったのです。『あの子を残して、蓮まで失うわけにはいかない』と」

宗徳は頁の端を撫でた。

「お父上は、紗夜さんを忘れたかったのではありません。あなたが生きるために、紗夜さんを閉じたのです。家族の中から名前を抜き、仏壇に位牌だけを残し、誰にも語らせない。そうすれば、声があなたを呼ばなくなると信じた」

「俺は、何も知らされなかった」

「知らされれば、あなたは戻ってきたでしょう」

「戻ってきた。十年後に」

「だから、遅かったのです」

俺は頁を見つめた。

紗夜の名がある。確かにある。けれど、その名前は何度も薄められ、空欄のそばで沈みかけていた。記録が存在を守っているのか、存在を縛っているのか、もう区別がつかない。

「紗夜は死んだのか」

宗徳は答えるまでに、長い時間をかけた。

「私は、死亡年月日を書いておりません」

「聞いているのは日付じゃない」

「死者を死者として送るには、名前と日付が必要です。名前だけを残し、日付を抜けば、その人は村の記録の中で立ち止まります。戻ることも、先へ行くこともできない」

「なら、生きているわけじゃない」

「生きているとも申し上げられません」

「ふざけるな」

「ふざけてなどおりません」

俺は帳簿を掴み、立ち上がった。茶碗が畳の上で震えた。宗徳は声を荒らげなかった。俺が帳簿を破るか、投げるか、あるいは持って出るかを、ただ見ていた。

「曖昧な言葉で、妹を何年閉じ込めた」

「あなたのお父上だけではありません。村全体が、そうしました」

「だから許されるのか」

「許されるとは思っておりません」

「なら、何を守ってる」

宗徳の手が、帳簿の表紙へ置かれた。

「まだ崩れていない者たちを」

「紗夜は崩れていいのか」

「違います」

「違わない。俺たちが生きるために、あいつだけを空欄にした。お前たちは、紗夜の名前を消して、残したと言い張ってる。閉じ込めて、守ったと言い張ってる。そんなものは、壊れた柱に布を巻いて立っているふりをしているだけだ」

「そうかもしれません」

宗徳は静かに言った。

「ですが、柱を外せば家が落ちます」

「落ちるなら、落ちたあとを片づける」

「あなたは、そうおっしゃると思っていました」

「何だと」

「朝比奈さん。壊す仕事をしている者は、壊したあとに責任を持つとよく言います。しかし、家を壊したあとに残るのは、材料だけではない。住んでいた人の癖、捨てられなかった食器、柱に刻まれた背の高さ、そこに帰るつもりでいた時間まで、すべて瓦礫になります。あなたは、それを拾う覚悟がありますか」

「ある」

「妹さんを取り戻せなくても?」

言葉が詰まった。

宗徳は俺から目を逸らさなかった。

「声だけが返ってきても、姿がなくても。あなたを兄と呼ぶものが、紗夜さんの記憶を利用した残響にすぎなくても。それでも、呼び続けますか」

「……呼ぶ」

「なぜです」

「妹だからだ」

「それは、あなたが妹さんを自分の側へ置きたいという意味ではありませんか」

その問いに、すぐ答えられなかった。

位牌の欠けた角が、内ポケットから肋骨へ当たっている。俺はその痛みを、紗夜の存在の証拠にしていた。声が聞こえることも、名前が帳簿にあることも、全部、俺がまだ手放したくないための理由にしていた。

「俺は……」

声が掠れた。

「俺は、あいつを置いていった。だから、今度は置いていかない」

「連れて帰ることと、見送ることは違います」

「わかってる」

「本当に?」

宗徳の声は穏やかだった。その穏やかさが、刃物より深く入った。

「見送るとは、捨てることではありません。自分のところへ留めず、その者の行くべき場所へ返すことです。ですが、返すには、まず名を正しく呼ばなければならない。空欄のままでは、どこへも返せません」

俺は帳簿の頁へ目を落とした。

薄い文字が、濡れた紙の下で揺れている。

そのとき、見送りの家の奥から、小さな音がした。

紙をめくる音だった。

宗徳の手は、俺の前にある帳簿から離れている。

音は納骨棚の奥から聞こえた。

一枚。

また一枚。

誰かが、暗がりの中で帳簿をめくっている。

宗徳が立ち上がった。

「ここから先は、お帰りください」

「奥に何がある」

「見送りを終えていないものです」

「紗夜か」

宗徳は答えなかった。

俺は棚の奥へ進もうとした。だが、宗徳が行く手を塞いだ。小柄な老人なのに、その立ち方には隙がない。押し退けようとすれば倒せる。けれど、倒した瞬間、この建物全体が崩れるような気がした。

「どけ」

「それは……」

宗徳は言葉を切った。

その間に、納骨棚の奥から子どもの声がした。

――兄ちゃん。

俺の喉が反応した。

名前を呼び返しかけた瞬間、宗徳が低く言った。

「返事をしてはいけません」

「紗夜かもしれない」

「だからです」

「お前にはわかるのか」

「声だけでは、誰にもわかりません」

「なら、なぜ止める」

宗徳は棚の暗がりを見たまま、静かに答えた。

「私も、何度も返事をしました」

声の底に、初めて個人の後悔があった。

「若い頃、山崩れで失った者を呼び戻そうとした。名前を三度唱え、提灯を持って丘へ上がり、土の下から返る声を聞いた。妻の声でした。私は喜んで、何度も返事をした。返事をするたび、声は近くなった。けれど、妻が戻ったのではありません。妻の声を借りた何かが、私の名前を覚えていった。翌朝、私は自分の名前を帳簿から見つけられなかった」

俺は黙っていた。

「名を呼ぶことには責任があります。呼んだ者のところへ、声が来るとは限らない。呼ばれた者を、こちらへ引きずることもある。だから、あなたが妹さんを想うなら、声に返事をするのではなく、名を正しく置かなければならない」

「どうやって」

宗徳は帳簿を閉じた。

「それを知りたいなら、百鳴きの丘の下へ行きなさい」

「さっきまで行くなと言っていた」

「私は、行くなとは申し上げていません。戻せないまま踏み込むな、と申し上げたのです」

「何がある」

宗徳は眼鏡を直した。

「記録の続きがあります。帳簿に書けなかったものを、土の下へ移した記録です」

「紗夜もそこにいるのか」

「名前がある限り、いるでしょう」

「生きているのか、死んでいるのか」

宗徳は一度、同じ言葉を繰り返した。

「それは……あなたが決めることではありません。あなたが決めてはいけないことです」

奥で、紙がまためくられた。

今度は、はっきりと紗夜の声で笑った。声より先に肩が揺れる、あの笑い方だった。

俺は反射的に一歩踏み出した。

宗徳の手が、俺の胸を押し戻した。

「蓮さん」

その呼び方は、これまでよりわずかに強かった。

「名前を呼ばれて、すぐに振り向くのは、あの子の癖でした。あなたまで同じになる必要はありません」

胸の奥で、古い記憶がひび割れた。

紗夜は呼ばれると、振り向く前に立ち止まった。音のした方向へ顔を向け、少しだけ口元を指でなぞった。それから、誰に呼ばれたのかを確かめるように振り返った。

俺はいつも、その背中を追っていた。

今も同じだった。

宗徳の手を払い、俺は帳簿を抱えた。

「これは借りる」

「持ち出せば、空欄が開きます」

「開ける」

「村が崩れるかもしれません」

「崩れたら、俺が片づける」

宗徳は俺を見つめた。諦めたようにも、初めて何かを託したようにも見えた。

「では、せめて名を粗末に扱わないでください」

「紗夜の名を?」

「紗夜さんだけではありません。空欄にされた者、消された者、戻れないまま呼び続ける者。そのすべてを、あなたの妹さんを救うための材料にしないことです」

帳簿の重みが、腕に食い込んだ。

俺は返事をしなかった。

戸を開けると、霧が室内へ流れ込んできた。冷たい湿気が頬を撫で、線香の匂いを押し流す。石段の下から、電話の呼び出し音が聞こえた。

三度。

間を置いて、三度。

宗徳は背後で、低く呟いた。

「名を呼ぶ前に、自分の名を確かめなさい」

俺は振り返らなかった。

見送りの家の屋根が、霧の中でゆっくり沈んでいく。腕の中の帳簿から、紙を擦る音がした。

閉じたはずの頁が、内側から開こうとしていた。

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