5話 夜の川沿いと、言い切られない話

その晩、灯子は日が落ちてから朝比奈家へ来た。

玄関を二度、間を置いて叩いた。村の人間は、夜に訪ねてきても一度で戸を開けない。呼び出し音や足音が、本人のものとは限らないからだと、子どもの頃に誰かが言っていた。誰が言ったのかは覚えていない。覚えていないことだけが、妙に正確だった。

俺は仏間で、見つけた鈴の欠片を布の上に置いていた。紗夜の髪留めから外れたものと同じ形をしている。錆の浮き方も、表面に走った三本の傷も、指先が覚えていた。

戸を開けると、灯子が立っていた。

濃い色のコートの襟を上げ、片手に小さな提灯を持っている。火は入っていなかった。ガラスの内側に、霧だけが白く溜まっている。

「出られる?」

「どこへ」

「川沿い」

「今から?」

「今だから」

灯子は俺の肩越しに家の中を見た。仏間の灯りが廊下へ細く伸びている。叔父の部屋の戸は閉まっていた。灯子はそこを一度見て、すぐに視線を戻した。

「叔父さんは?」

「いる。寝てるふりをしてる」

「起こさないで」

「お前も、あの人には言えない話をするつもりか」

「言える話なら、こんな時間に来ないよ」

俺は作業用の上着を羽織り、鈴の欠片をポケットへ入れた。位牌も内ポケットに収める。木の角が肋骨に当たる。そこに妹がいるような気がして、すぐにその考えを捨てた。位牌は木で、紗夜ではない。そう決めた直後、布越しの木肌がわずかに温かくなった。

灯子は何も言わなかった。俺の手元を見ていたが、見たことを認めない顔をしている。

外へ出ると、霧がすぐに首筋へまとわりついた。冷たいというより、濡れた布を肌へ巻きつけられた感じだった。呼吸のたびに川の匂いが入り込む。湿った土、苔、腐った葉、その奥に鉄のような水の匂いがあった。

灯子は前を歩いた。

提灯は持っているだけで、灯さない。白い霧の中で、その手元だけが黒く浮かんでいる。俺は二歩ほど後ろをついていった。子どもの頃なら、紗夜を真ん中にして三人で歩いた距離だった。あの頃の灯子は、転んだ紗夜を起こし、俺が先へ行きすぎると背中を叩いた。今は誰も俺たちの間にいない。その空白を埋めるように、川の音が横を流れている。

家並みを抜けると、村は急に暗くなった。

外灯はある。だが霧が光を吸ってしまい、電柱の根元に薄い輪を作るだけだった。白い輪の外側には何も見えない。何かがいても、こちらからは見えない。向こうから見られていることだけがわかる。

「役場の人間は、夜に出歩いていいのか」

「役場の人間だから出歩くの。村の人が何をしているか、見ておかないと」

「監視か」

「見回り」

「言い方が違うだけだろ」

「そうかもしれないね」

灯子の返事は柔らかかった。嘘をついているときの語尾だ。俺は背中を見ながら、以前より痩せた気がした。肩の線が細く、コートの中身が空洞みたいに見える。

川沿いの道へ出ると、霧が少しだけ薄くなった。流れの上だけ、冷たい風が通るからだろう。川面は見えない。ただ、水が石にぶつかる音と、時折、深いところで流れが撓む音がする。

灯子は古い石段の前で足を止めた。

濡れた石の縁に苔が張りついている。昔は山の祠へ向かう道だったが、今では上の数段が崩れ、草に覆われていた。灯子は提灯を足元へ置き、靴先で一番下の石を軽く叩いた。

乾いた音が一つ落ちた。

川の音が、その音をすぐに飲み込んだ。

「ここ、覚えてる?」

「覚えてる」

「何を」

「お前が紗夜に、ここから先へ行くなと言ってた」

「そうだった?」

「言ってた。俺には言わなかった」

灯子は川を見た。霧の向こうにあるはずの対岸を、見ようとしているのか、見ないようにしているのか、俺には判別できなかった。

「蓮は、言っても聞かなかったから」

「紗夜は聞いた」

「紗夜は、聞いたふりをして聞かなかった」

「俺と同じだな」

「そこは似なくてよかったのにね」

灯子の口元がわずかに緩んだ。笑いかけたのだと思う。だが、その笑いはすぐに消えた。霧の奥で枝が擦れ、乾いた紙のような音がした。

灯子は髪を耳の後ろへかけた。

「紗夜が消えた前の晩のこと、話しておく」

「やっとか」

「やっとじゃない。遅すぎるだけ」

「何があった」

灯子は答えず、石段へ腰を下ろした。濡れているのに、コートの裾を払おうともしない。俺も隣へ座る。昔なら肩が触れるほど近くに座ったはずだが、今は拳ひとつ分の隙間があった。その隙間へ、川から来る冷気が流れ込んだ。

灯子は膝の上で両手を組んだ。指先が白くなっている。

「山崩れのあと、皆……見ないふりを覚えたの」

「何を」

「何をっていうか。見えたものを、見なかったことにするの」

「紗夜のこともか」

「紗夜のことだけじゃない」

「なら、全部話せ」

「全部なんて、私には話せない」

「またそれか」

「聞いて。私は隠したくて黙っていたわけじゃない。蓮が村を出たあとも、何度も言おうとした。手紙を書いたこともある。紗夜は消えたんじゃない、村の人間が消したことにしただけだって。でも、書いた手紙を投函できなかった。郵便局の前まで行って、封筒を破った。役場に入ってからは、記録を見ればもっとはっきりすると思った。名簿を探して、古い帳簿を開いて、空欄を見つけた。それなのに、翌日には誰の名前だったか思い出せなくなった。思い出そうとすると、別の人の顔が浮かぶの。顔が浮かぶならまだいい。ある日には、空欄そのものを見たことまで忘れていた」

灯子の声は大きくなかった。けれど、川の音に負けないよう、ひとつひとつの言葉を置いていた。

「だから黙ったのか」

「黙ったのは、怖かったから」

「村が?」

「村だけなら、まだ逃げられた。怖かったのは、自分の中に村と同じものができていくこと。誰かの名前を思い出せない。見たものを見なかったことにする。そういうことを一度すると、次はもっと簡単になる。私はそれが嫌だった。嫌だったのに、何度もやった」

俺はポケットの中の鈴を握った。錆びた金属の角が掌へ食い込む。

「紗夜の前夜は?」

灯子は目を伏せた。

「山のほうから、声がした」

「誰の」

「わからない。男の声だったと思う。低くて、静かで、怒鳴っていないのに逆らえない声。大人が子どもを呼ぶときの声に似ていた。優しいふりをして、断ることを許さない声」

「何と言っていた」

「紗夜の名前」

その名前が川面へ落ちたように感じた。見えない水の上で、何かが一度だけ揺れた。

「お前は聞いたのか」

「聞いた」

「なぜ止めなかった」

灯子の手が膝の上で固く組み直された。

「止めたよ」

「どうやって」

「紗夜の前に立って、帰ろうって言った。蓮のところへ戻ろうって。けれど、紗夜は動かなかった」

「動かなかった?」

「呼ばれると、あの子は振り向く前に一度止まるでしょう。覚えてる?」

「覚えてる」

「その止まり方だった。足だけが止まって、肩が少し揺れた。怖がっているときの紗夜は、泣かずに息をひそめた。あの晩もそうだった。私は手を握った。冷たかった。生きている子どもの手なのに、川の石みたいに冷たかった」

「そのあと、どうした」

「蓮が来た」

「俺が?」

「あなたは紗夜を呼びながら走ってきた。何度も、何度も。紗夜はあなたの声を聞いて、初めて振り向いた。でも、振り向いた先にいたのは、あなたではなかった」

「何がいた」

灯子はそこで言葉を切った。

川の上流で、石が転がった。ひとつ、ふたつ。水面に落ちた音ではない。土の中で、何かが位置を変えたような音だった。

「灯子」

「顔は見えなかった」

「なら、何を見た」

「提灯」

「提灯?」

「白い提灯が、霧の中で揺れていた。誰も持っていないのに。紗夜はそれを見て、少しだけ笑った。笑うとき、声より先に肩が揺れるでしょう。あの子は怖かったはずなのに、知っているものを見つけたみたいに笑った。それから、私の手をほどいた」

「お前は掴み直さなかったのか」

「掴んだ」

「なら、なぜ」

「掴んだ指が、途中でなくなったから」

灯子の声が、初めて崩れた。

「紗夜の手首を掴んでいた。確かに掴んでいたのに、霧が一度濃くなって、次に見たときには指先しか残っていなかった。赤い髪紐が見えた。鈴が鳴った。紗夜は泣かなかった。ただ、蓮の名前を小さく呼んだ。私は返事をしなかった」

「なぜ」

「返事をしたら、私のところへ来ると思ったから」

俺の親指の爪が掌に食い込んだ。

「それで、見捨てたのか」

「そうだよ」

灯子は川面を見たまま言った。

「私は紗夜を見捨てた。大人たちも見捨てた。あなたは追いかけたけれど、最後には村から出された。誰も、誰ひとり、あの子を戻さなかった。だから今も、紗夜は戻れないまま呼んでいる。あなたの声を待っているのかもしれないし、あなたをこちらへ引こうとしているのかもしれない。私にはわからない。わからないまま、電話が鳴るたびに、誰かが受話器を取るのを待っている」

「村の人間は、電話が鳴るのを待ってるのか」

「恐れている。でも、待ってもいる」

「矛盾してる」

「人間は、失ったものを失ったままにしておけないから」

灯子の横顔は、霧の白さに溶けかけていた。輪郭が薄い。頬も、髪も、コートの肩も、背景の一部になりかけている。

「それで、死者を戻そうとした」

「戻すというより、留めたんだと思う。死亡年月日を書かなかった。名前を空欄にした。死んだとも、生きているとも記さなかった。どちらにも決めなければ、帰ってくる余地が残ると思った。でも、境界の上に置かれた人間は、どちら側にも帰れない。生きている人の記憶からこぼれて、死者の場所にも入れない。声だけが残る。名前だけが、何度も返ってくる」

「それを、紗夜にもしたのか」

「たぶん」

「たぶんじゃない」

「私が見た帳簿には、紗夜の名前があった。死亡年月日は空欄だった。けれど次に見たときには、名前も消えていた。代わりに、朝比奈家の欄には何もない空白だけが残っていた。だから、蓮の家では紗夜がいなかったことになっている。いなかったことにしないと、あの子が戻ってくる。戻ってくると、誰かが呼ばれる。そう言われてきた」

「誰に」

「百瀬さんに。けれど、百瀬さんも誰かに教えられた。たぶん、その前の人間も」

「つまり、誰も責任を取っていない」

「違う」

灯子は初めてこちらを見た。

「責任を取っていないんじゃない。責任を取り続けているつもりで、誰も責任を終わらせられなかったの。沈黙は、最初は誰かを守るためだったのかもしれない。でも長く続けば、守っているのか閉じ込めているのか、わからなくなる。私は今まで、村を壊さないことが責任だと思っていた。けれど、壊れたままのものを支えているだけなら、それは責任じゃない。ただ、崩れる瞬間を先延ばしにしているだけ」

俺は灯子の手を見た。袖口を押さえる指が震えている。

「お前は、何を望んでる」

「望みなんて、もう持てないよ」

「嘘だ」

「どうして」

「望みがない人間は、こんな夜に俺を川へ連れ出さない」

灯子はしばらく黙り、それから小さく息を吐いた。

「紗夜に謝りたい」

「謝って済むのか」

「済まない。だから、謝るだけでは足りない」

「何をする」

「まだ決めてない」

「決めろ」

「蓮は簡単に言うね。何かを壊すときは、壊したあとにどうなるかを考えない。壁を抜けば部屋が広くなると思っている。でも、壁の向こうに人がいることもある。支えになっている梁を外せば、家全体が落ちることもある。私は、何を壊せば紗夜が出られて、何を残せば村の人間が死なずに済むのか、まだ見極められていない」

「だから俺を止めるのか」

「あなたを止めたい。紗夜を助けたい。村も、できれば壊したくない。そんな都合のいいことを考えてる。でも、もう都合がいいとか悪いとか言っていられないところまで来てる」

灯子は立ち上がった。提灯を拾い、霧の向こうへ向ける。白い紙の破れ目から、何もない夜が覗いていた。

「紗夜のこと、あの夜……」

灯子は再び言葉を止めた。

俺は待った。

川は流れている。石にぶつかり、戻り、また同じ場所へ寄せてくる。言葉も同じだった。ここまで来て、また口の中で折りたたまれる。

「お前は、何を言おうとしてる」

「蓮が、あの夜……紗夜を呼んだ声に、返事があった」

「覚えてる」

「違う。あなたが聞いた返事は、紗夜のものじゃなかったかもしれない」

俺は灯子を見た。

「どういう意味だ」

「あなたが振り向いたとき、誰もいなかったでしょう」

「そうだ」

「でも、あのあとあなたは言った。紗夜が手を握った、と」

「言ったか」

「言った。泥だらけの手を握った。冷たい手だったって。けれど、あなたが握っていたのは……」

灯子の声が細くなった。

その先を聞く前に、川上から乾いた音が流れてきた。

呼び出し音だった。

一度。

二度。

三度。

灯子の顔が強張る。提灯を持つ手が下がった。

間を置いて、また三度。

俺の内ポケットで、位牌の角が肋骨へ食い込んだ。

「今夜は電話の音を聞かないで」

「何を言うつもりだった」

「帰って」

「灯子」

「お願いだから」

「言い切れ」

灯子は俺を見た。昔の川辺で、紗夜の手を離したときと同じ顔をしていた。何かを選び、その選んだものを一生抱える人間の顔だった。

「蓮が握っていたのは、紗夜の手じゃない」

呼び出し音が、川の向こうでまた鳴った。

灯子は提灯を消えたままの手に提げ、石段を下りていく。俺は追おうとしたが、足元の石が沈んだ。湿った土の下に空洞があり、靴底がわずかに落ち込む。

その瞬間、霧の中から子どもの声がした。

――兄ちゃん。

灯子の肩が止まった。

俺も動けなかった。

声は川の向こうからではなかった。俺たちの足元、石段の下から聞こえた。

「紗夜」

呼んだのは俺だった。

灯子が振り向いた。

「呼ばないで」

「もう呼んだ」

「蓮、今の声を聞いて、誰の声だった?」

俺は答えられなかった。

紗夜の声に似ていた。けれど、息を吸う場所が違った。泣く前の静かな声ではなく、土の中で何かを確かめるような、乾いた声だった。

灯子は地図を取り出し、俺の胸へ押しつけた。

「帰ったら見ると言ったけど、今見て」

「何だ」

「川から山へ入る道。百鳴きの丘の下を通って、祠の裏へ抜けている。地図には書かれていない。でも、昔の道がある。誰かが何度も歩いて、霧の中に残した道」

「お前は知ってたのか」

「知っていた。でも、知らないふりをしていた」

「明日、行く」

「私も行く」

「止めるのか」

灯子は首を振った。

「今度は、見届ける」

その言葉の直後、川沿いの電話ボックスが霧の中で鳴った。

遠くにあるはずなのに、音はすぐ耳元で鳴った。受話器の中から漏れるような、乾いた呼び出し音だった。

三度。

間を置いて、三度。

灯子は俺の袖を掴んだ。子どもの頃の紗夜のように、眠いときに誰かの袖をつまむ、弱い力だった。

「蓮。もし明日、紗夜の声がしても、すぐに返事をしないで」

「なぜ」

「返事をする前に、自分の名前を確かめて」

「俺の名前?」

「あなたが誰なのか、誰の兄なのか。そこを忘れたら、もう戻れない」

灯子は袖を離した。

霧が二人の間へ流れ込む。白い湿気が肩を包み、灯子の輪郭を少しずつ削っていく。俺は手を伸ばしかけたが、やめた。触れれば、今度は灯子まで失う気がした。

帰り道、灯子は前を歩き、俺はまた二歩後ろをついていった。

昔より遠い距離だった。

それでも、彼女の提灯は灯っていないのに、白い霧の中でかすかに赤く見えた。まるで、誰かが内側から紙を透かして、こちらを覗いているようだった。

家の門が見えたところで、灯子が立ち止まった。

「蓮」

「何だ」

「紗夜のこと、私は忘れていない」

「なら、言え」

「今は、まだ言えない」

俺は返事をしなかった。

灯子は一度だけ振り返り、それから霧の中へ消えた。足音が遠ざかり、川の音に混じる。しばらくすると、その音も聞こえなくなった。

俺はポケットから鈴の欠片を取り出した。

音はしない。

だが、耳を近づけると、金属の内部から、誰かが息をひそめているような気配があった。

家の中へ戻る前に、川沿いの電話ボックスが最後に一度だけ鳴った。

今度は、受話器を取らなくても声が聞こえた。

――兄ちゃん、灯子ちゃんは、まだこっちにいるよ。

← 横にスクロールして読み進められます

夜の川沿いと、言い切られない話 - 霧に呼ばれる妹 - 誰でも作家life