4話 百鳴きの丘の手触り

朝、目を覚ますと、枕元に泥が落ちていた。

細かな砂粒が、白い布の上に三つ並んでいる。昨夜、百鳴きの丘へ向かったはずだった。電話ボックスで受話器を置き、濡れた石段を上り、霧の中で誰かの足音を聞いた。その先の記憶が抜けている。

服を見た。裾が濡れ、膝には黒い土がこびりついていた。靴底には、見覚えのない赤い紙片が挟まっている。提灯の紙のようだった。指でつまむと、湿った繊維が皮膚へ張りついた。

内ポケットには、紗夜の位牌があった。

欠けた角は、昨夜より少し大きくなっている。

俺は親指でそこを撫でた。木屑が一片、掌に落ちた。壊れたものは、触らなければ壊れないわけではない。内部で進んでいる腐りは、手を離しているあいだにも広がる。現場では何度も見てきた。見ないふりをした梁が、ある朝突然、人の上へ落ちる。

窓の外は白かった。霧が庭を満たし、物干し竿の先だけが浮いている。

玄関を出ると、門の脇に灯子が立っていた。薄い灰色のコートを着て、片手に紙袋を提げている。俺を見ると、まず靴元へ目を落とした。それから一拍遅れて、顔を上げた。

「起きてた?」

「見ればわかるだろ」

「そうだね。寝ている人は、普通、泥をつけて歩いてこないから」

紙袋を差し出された。中には梅干しのおにぎりと、温い缶コーヒーが入っていた。

「食べて。昨日から何も食べてないでしょう」

「お前もだろ」

灯子は少しだけ口元を歪めた。図星を刺されたときの笑い方だった。

「私は、食べるのが下手なだけ」

「下手っていう言い方をするな。食べてないなら、食べてないでいい」

「蓮は昔から、そういうところだけ正しいね」

俺は缶コーヒーを開けた。安い甘さが舌に残る。灯子の気遣いは、いつも少しだけ遅れて届く。必要なものを渡してから、必要な言葉を隠す。

「丘へ行く」

「昨夜行ったでしょう」

「覚えてない」

灯子の指が、コートの袖口を押さえた。

「だから行かないで」

「覚えてないから行く。何があったのか確かめる」

「確かめて、何をするの」

「欠けたところを探す」

「墓標の話?」

「それだけじゃない」

俺は位牌を取り出した。灯子は見た瞬間、目を逸らした。だが逃げるような動きではなかった。見てはいけないものを見たあと、見たことを消そうとする動きだった。

「これ、昨夜より欠けている」

「……持って帰ったの?」

「最初から持っていた」

「そうじゃなくて。丘から、持って帰ったの?」

「何を言ってる」

「蓮。昨日、電話ボックスから戻ってきたとき、手ぶらだった」

「俺を見たのか」

灯子は答えなかった。

「見たのか」

「見た。川沿いの道の途中で、あなたが立っていた。名前を呼んでも振り向かなかった。だから、近づかなかった」

「なぜ」

「振り向いたら、連れていかれると思ったから」

「俺を見捨てたのか」

「見捨てたんじゃない。戻すために、近づかなかったの」

「同じだろ」

「違うよ」

灯子の声が初めて硬くなった。

「助けるって、手を引くことだけじゃない。手を引いたら一緒に落ちる場所もある。蓮はいつも、目の前のものを壊して開けようとする。鍵がかかっていたら壊す。壁があれば壊す。梁が浮いていたら、支えを入れる前に外す。でも、人間の記憶は建物みたいに解体できない。崩したものを並べ直しても、同じ家には戻らない」

「だから隠すのか」

「隠しているんじゃない。まだ触れられないようにしている」

「紗夜を?」

灯子はすぐに返事をしなかった。白い霧が、俺たちの肩より高く盛り上がっている。庭の奥にあるはずの柿の木が、幹の途中から消えていた。

「紗夜だけじゃない」

灯子は紙袋の口を閉じ、両手で持ち直した。

「山崩れの年から、村では人の名前を正面から呼ばなくなった。行方不明になった人の家へ行っても、誰も『亡くなった』と言わない。『まだ戻っていない』とも言わない。ただ、仏壇に位牌を置いて、死亡年月日を空けたまま、家の中に置き続ける。そうすると、家族はその人を失ったことに慣れられると思っていたんだと思う」

「慣れる?」

「慣れるしかなかった。山が崩れて、道が埋まり、何人もの人間が消えた。助けを呼ぶ声が土の下から聞こえたのに、掘り返せなかった。掘ればまた崩れると言われた。だから、聞こえないふりをした。聞こえないふりをして、名前を書かなかった。名前を書かなければ、死んだことにならない。死んだことにならなければ、いつか帰ってくるかもしれない。そうやって皆で、帰れない人間を村の中に留めた」

灯子の説明は、説明というより告白に近かった。言葉を重ねるほど、彼女の顔から血の気が引いていく。

「でも、留めたものは、帰ってこない」

「そうだね」

「じゃあ、何になる」

灯子は霧の向こうを見た。

「呼び声になる」

その言葉を聞いたとき、缶コーヒーの甘さが急に腐ったように感じた。

俺は門を開けた。蝶番が低く鳴る。

「行くよ」

「蓮」

「今度は昼だ。ひとりじゃない」

「一緒に行けば、止められないよ」

「止めるつもりなのか」

「止める。必要なら」

「俺を?」

「あなたを生きて帰すために」

「紗夜は」

灯子の目が揺れた。

「紗夜を生きて帰せると思うなら、丘へ行かないほうがいい」

それは冷たい言葉だった。だが、冷たさの底に、長いあいだ誰かの袖を掴めなかった手の震えがあった。

俺は返事をせず歩き出した。灯子が後ろからついてくる。道は霧に濡れていた。石垣の隙間から伸びた草が、濡れた袖のように足へ触れる。山へ近づくにつれ、川の匂いが濃くなった。土の中に溜まった水が、腐葉土と古い木の匂いを押し上げている。

丘の入口には、朽ちた木の札が立っていた。

百鳴きの丘。

墨の文字は半分消えている。だが「百」の字だけは深く刻まれ、黒い溝に水が溜まっていた。指を伸ばしかけて、俺は止めた。触れれば、何かが返ってきそうだった。

「この名前、誰がつけた」

「昔からそう呼ばれていたみたい」

「百回、声が返るからか」

「違う」

灯子は丘を見上げた。

「呼んだ名前が、百人分になるから」

「何人いるんだ」

「数えた人はいないよ。数えること自体が、呼ぶことになるから」

「馬鹿げてる」

「そう言ってくれるなら、まだ大丈夫」

「何が大丈夫だ」

「怖がっているうちは」

丘の中へ入った。

昼なのに、木々の枝が霧を含んで暗い天井を作っている。墓標の間を細い道が縫っていた。踏み固められた土は柔らかく、靴底が沈むたび、下に空洞があるような感触が返ってくる。

俺は作業用手袋を外した。

灯子が息を呑んだ。

「手袋、したままでいいでしょう」

「触らないとわからない」

「わからなくていいものもある」

「それは宗徳と同じだ」

「宗徳さんは、わからせないために言う。私は、わかってしまったら戻れないから言う」

俺は欠けた石碑へ近づいた。表面は苔に覆われていたが、ところどころ石の肌が露出している。指先でなぞると、細かな砂粒が落ちた。見た目より脆い。内側へ水が回っている。

「これ、動かせる」

「やめて」

「台座が浮いてる」

「蓮」

「持ち上げるだけだ」

「やめて!」

灯子の声が墓地に響いた。

霧のどこかで、同じ声が返った。

――やめて。

俺は手を止めた。

灯子の顔が白くなる。

「今の、聞いた?」

「お前の声だろ」

「違う」

「似ていた」

「似ているんじゃない。真似をしたの」

霧の奥で、砂が崩れた。

ざ、と音がして、墓標の一つがわずかに傾く。灯子は俺の腕を掴んだ。細い指が作業着の袖へ食い込む。その力は子どもの頃、紗夜の手を引いたときより強かった。

「ここでは、聞こえた声を信用しないで」

「紗夜の声もか」

「特に、紗夜の声を」

「お前は聞いたのか」

「何度も」

「いつから」

「役場に入ってから。最初は電話だった。夜、誰もいないはずの交換機が鳴って、受話器を取ると、消えた人の家族の名前を呼ぶ声がした。声は本人に似ている。でも、少しだけ違う。息を吸う場所がないの。生きている人間は、言葉の途中で必ず息をするでしょう。あれには、それがない」

「紗夜は?」

灯子は俺の腕を放した。

「紗夜の声は、息をする」

「なら本物だ」

「そう思った。だから、私は一度だけ返事をした」

霧が、灯子の背後で薄く渦を巻いた。

「何て言った」

「紗夜、と」

「返事は?」

灯子は目を閉じた。髪が頬に張りついている。声を出す前に、一拍置いた。

「『灯子ちゃん、蓮を連れてきて』って」

胸の奥が、鈍く沈んだ。

「それで?」

「蓮はもう、丘の中にいた」

「俺が?」

「そう。あなたは八歳だった。泥だらけの膝で、誰かの手を握っていた。私はあなたの手を掴んだ。でも、あなたが握っていたものは、私には見えなかった」

「紗夜か」

「たぶん」

「たぶんで済ませるな」

「済ませてきたから、今ここにいるんだよ!」

灯子の声が震えた。怒鳴ったあと、彼女は唇を噛んだ。すぐに目を逸らし、袖口を押さえ直す。

「ごめん」

「謝るな。話せ」

「話したら、蓮はもっと行くでしょう」

「もう来てる」

「そうだね。だから怖い」

灯子は墓標の列を見つめた。

「私はあの日、紗夜が呼ばれているのを聞いた。大人の声だった。優しい声で、何度も名前を呼んでいた。紗夜は振り返らなかった。でも、立ち止まった。あの子は呼ばれると、すぐ振り向かずに一度止まる癖があったから。私はそれを知っていたのに、誰にも言わなかった。大人たちは、聞かなかったことにした。あなたが追いかけようとしたときも、私は止めるだけで、何があったのか言わなかった」

「なぜ」

「言葉にしたら、次に呼ばれるのが自分だと思ったから」

灯子は笑った。笑ったというより、口元だけを動かした。

「子どもだったんだよ、私も。村の掟なんて知らなかった。でも、知ってしまった。怖いものを見た人間が黙ると、周りの大人も黙る。そうすると、黙っていることが正しいみたいになる。私はその仕組みを、あの日に覚えてしまった」

墓標の足元に、赤い布が落ちていた。

俺はしゃがみ込んだ。湿った土の中から、細い金具が覗いている。爪を差し入れて引き抜くと、小さな鈴がついていた。錆びている。振っても鳴らない。

「それ……」

灯子の声が遠くなった。

「髪留めの鈴だ」

「同じに見えるだけかもしれない」

「俺は見間違えない」

鈴の表面には、細い傷が三本あった。紗夜が川原の石で擦った傷だ。彼女は鈴が鳴らなくなったあとも髪留めを捨てなかった。音がしなくても、そこに鈴があることは変わらないと言っていた。

指先で鈴を撫でる。

その瞬間、墓地のどこかで、かすかな音がした。

鳴らないはずの鈴の音だった。

一度。

間を置いて、二度。

灯子が俺の肩を掴んだ。

「呼ばないで」

俺は声を出していない。

けれど、霧の向こうから、紗夜の声が聞こえた。

――兄ちゃん、そこにいる?

息をひそめるような声だった。幼い頃と同じ、泣く直前の声。

俺の喉が開きかける。

灯子の指が、さらに強く食い込んだ。

「答えないで。蓮、お願い。今返事をしたら、あの子はあなたを見つける」

「それでいい」

「よくない!」

「十年探した」

「探したのは、妹を連れて帰るためでしょう!」

「そうだ」

「なら聞いて。返ってきた声が紗夜でも、返してはいけないものがある。あの子は帰りたいんじゃない。帰れないから呼んでいるの。あなたをこっちへ引くためじゃなく、自分が一人でいないために。蓮が来れば、紗夜は少しだけここにいられる。でも、その代わりに蓮の場所が薄くなる。名前を呼ばれるたび、足元がなくなる。帰る道を忘れる。家に戻っても、誰もあなたを覚えていない。最後には、あなた自身が、自分に妹がいたことを思い出せなくなる」

灯子の声は、霧の中でもはっきりしていた。

「それでも、呼ぶ」

「どうして」

「紗夜が俺を呼んだからだ」

「それは理由にならない」

「俺にはなる」

「蓮!」

「俺は、あのとき紗夜を置いていった」

「違う。あなたは追いかけた」

「追いつけなかった。手を伸ばしただけで、掴めなかった。あの手を、今度は離さない」

「掴めないものを掴もうとすると、自分の手まで失うよ」

灯子の言葉が途切れた。

霧の奥で、誰かが笑った。

声ではなく、肩が先に揺れるような笑いだった。

俺は鈴を握り、霧へ向かって口を開いた。

「紗夜」

灯子が息を呑む。

俺は続けた。

「兄ちゃんはここにいる。けど、お前のところへは行かない。お前を連れて帰るんじゃない。お前が帰る場所を、探す」

霧がわずかに動いた。

返事はなかった。

代わりに、遠くの墓標の間から、石を投げたときのような水音がした。三度、白く跳ねる川の音。幼い頃、紗夜が川辺で投げた石の音だった。

灯子の手が、俺の肩から離れた。

「今の呼び方……」

「何が」

「違う」

「何と」

「今までのあなたは、連れて帰ると言っていた。取り戻すと言っていた。でも今、初めて……帰る場所を探すと言った」

俺は答えなかった。

手の中の鈴は冷たかった。鳴らない。けれど、そこにある。

丘の奥で、土が小さく沈んだ。

墓標の列の間に、細い亀裂が走っている。地面の下には空洞がある。誰かが何度も踏み固めた土の下に、まだ開いていない場所が残っている。

俺は手袋を拾い上げた。

灯子が言った。

「今日は、ここまでにして」

「明日も来る」

「ええ」

彼女は霧の向こうを見たまま、静かに続けた。

「次は、宗徳さんの帳簿を持ってくる。空欄の家を全部、照合する。もう、見なかったことにはしない」

その言葉が、墓地の中で長く残った。

返事のように、地面の下から小さな音がした。

――さや。

それは紗夜の声ではなかった。

誰かが、土の中で自分の名前を確かめるように呟いた声だった。

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百鳴きの丘の手触り - 霧に呼ばれる妹 - 誰でも作家life