3話 見送りの家、鳴る電話

見送りの家へ向かう坂道は、記憶にあるより急に感じた。

霧は昼過ぎになっても晴れなかった。むしろ濃くなっている気さえする。石段の縁に貼りついた苔が、足を乗せるたびに靴底を滑らせようとした。俺は片手を石垣について、もう片方の手で内ポケットの位牌を押さえながら登った。木肌の欠けが、布越しに掌へ食い込む。

納骨堂の屋根が霧の中に浮かんで見えたとき、鼻の奥に湿った線香の匂いが届いた。都会の斎場で嗅ぐ、乾いて軽い匂いとは違う。ここの線香は、土に染みたまま何年も抜けきらない匂いだった。俺はその匂いが昔から苦手だった。壊す仕事をしていると、線香の匂いのする現場には大抵、誰かが死んだままの部屋がある。畳の下に沈んだ湿気と一緒に、その匂いは長く残る。

石畳は濡れて黒く光っていた。踏むたびに、靴底がわずかに沈む感触がある。何年も同じ場所を人が通り、同じ場所に水が溜まり続けた結果の沈みだ。表面は整えられているのに、下地はもう均一ではない。俺の仕事の目には、それがすぐわかった。

引き戸を開けると、奥の暗がりから声がした。

「――どうぞ」

百瀬宗徳は、俺が来ることをあらかじめ知っていたような顔で、框の向こうに立っていた。灰色の作務衣に、白髪をきっちり撫でつけている。年齢の割に背筋が伸びていて、動きに無駄がない。俺が靴を脱ぐあいだ、彼はただ黙って待っていた。急かしもしないし、愛想笑いもしない。その静けさが、かえって圧のようなものを感じさせた。

「朝比奈さんのお宅は、去年からご不幸が続きましたね」

奥の座敷に通されるなり、宗徳はそう言って、茶托に湯呑みを置いた。湯気が細く立ち上る。彼は湯呑みの蓋を一度取り、また戻した。ほんの一ミリのずれを直すような手つきだった。

「母の四十九日で戻りました」

「存じております」

「あんたに聞きたいことがある」

宗徳は茶を勧める仕草をしただけで、急かすように「何でしょう」とは言わなかった。俺が湯呑みに手をつけないのを見ても、表情を変えなかった。ただ、机の端に置かれた帳面へ視線を落とし、指先で紙の角を揃え直した。

俺は内ポケットから位牌を取り出し、布を解いて机の上に置いた。

宗徳の目が、それを見た。

見た、というだけだった。驚きも、動揺も、そこにはなかった。何かをすでに知っている人間だけが持つ、凪いだ目だった。

「これは、俺の妹の位牌です。朝比奈紗夜」

「……」

「家では誰も認めない。紗夜なんて子はいなかったと言う。でも、この位牌はある。木の欠け方から見て、そんなに新しいものじゃない。何年も、誰かが線香をあげてきた痕跡がある」

宗徳は湯呑みの蓋にもう一度触れてから、静かに口を開いた。

「朝比奈さん。あなたのお仕事は、建物を壊すことだと伺っております」

「それが何の関係が」

「壊すからには、見立てをなさるのでしょう。ここは持つ、ここはもう保たない、と」

「そうです」

「私の仕事も、似ています。ただし私が見立てるのは、木や石ではなく、名前です」

宗徳はそこで初めて、俺の目をまっすぐ見た。皺に埋もれた瞳の奥に、何十年分もの帳簿の重みが沈んでいるように見えた。

「名が残ることと、残してよいことは、違うのです」

俺は湯呑みの湯気が薄くなっていくのを見ながら、その言葉を頭の中で繰り返した。理解しようとするほど、掴みどころがなくなる。まるで、霧そのものを言葉にしたような言い回しだった。

「わからない。名前がある。それが妹だ。それ以上、何を見立てる必要がある」

「では伺いますが」宗徳は湯呑みを両手で包み、少しだけ体を前に傾けた。「あなたは解体の現場で、壁の中に何かの遺留品を見つけたとき、それをすべて表に出しますか」

「状況によります」

「そうでしょう。時には、出さないほうがいい。出せば、遺族が二度傷つく。出せば、建物そのものが訴訟になり、誰も救われない。そういう場面を、あなたはご存知のはずだ」

「今のはそれとは違う」

「違いません」宗徳の声は、少しも大きくならなかった。「神伏という村は、小さな帳面の中に何十年分もの家の恥と、家の罪と、家の悲しみを溜め込んで、それでも今日まで崩れずに立ってきました。なぜだと思いますか」

俺は答えなかった。宗徳は答えを待たず、続けた。

「見せないからです。すべてを見せて、すべてを語って、それで救われる村など、私はこの土地で一度も見たことがありません。語れば楽になるのは、語る本人だけです。周りにいる者たちは、その重さを分けて背負わされる」

「妹が消えたことも、その『見せない』のうちか」

宗徳は目を伏せた。初めて見せた、迷いのようなものだった。

「山崩れのあった年、この村では複数の子どもと大人が姿を消しました。原因は自然災害として片づけられましたが……本当のところ、誰も、原因のすべてを知っているわけではないのです。ただ、皆が知っていることが一つだけあります」

「何だ」

「戻そうとするほど、こちら側の輪郭が崩れるということです」

俺は帳面へ手を伸ばした。宗徳は止めなかった。ページをめくると、朝比奈家の欄があった。死亡年月日の位置に、何も書かれていない。だが空欄というより、何かが一度書かれて、消された跡があった。紙の繊維が毛羽立ち、その下にうっすらとインクの染みが残っている。

「これは何だ」

「記録です」

「空欄じゃないか」

「空欄も、記録の一つの形です。何も書かないことで、そこにあるはずのものを、この村の側に留めておく。そういう祈りの形が、昔からありました」

「祈りだと? こんなもの、隠蔽だろう」

宗徳は初めて、微かに眉を寄せた。怒りではない。もっと深い場所からくる、疲労の色だった。

「隠すために沈黙してきたのではありません。抱えたまま崩れないために、沈黙してきたのです。あなたのお父上の代、お祖父様の代からずっと、この帳面を預かってきた者として、私はその重さを、誰よりも知っています」

俺は帳面の端をもう一度指でなぞった。空欄の周りだけ紙がわずかに凹んでいる。何度も指で押さえられた跡だ。宗徳ひとりの指か、それとも他の誰かも同じ場所を触れてきたのか。

「妹は、生きてるのか」

宗徳はしばらく黙っていた。湯呑みの湯気は、もうほとんど消えていた。

「私には、それをお答えする資格がありません」

「資格の話をしてるんじゃない。知ってるか知らないかを聞いてる」

「知っていることと、答えられることは、違うのです」

その言い方が、灯子の言葉と重なった。「言わないんじゃない。言えないことがあるの」――彼女もそう言った。この村では、誰もが同じ形の壁の前に立たされている。

宗徳は帳面を静かに閉じた。俺の指がまだ触れていたが、老いた手は驚くほど正確に、迷いなく紙を合わせた。閉じた瞬間、部屋の空気が一段階、重くなった気がした。

「朝比奈さん。あなたが妹さんを想う気持ちを、私は否定いたしません。ただ、これだけは申し上げておきます。呼べば呼ぶほど、こちら側との境が薄くなる場所が、この村にはあります。あなたのお心が強いほど、その場所はあなたを引き寄せるでしょう」

「脅しか」

「忠告です。私にできるのは、それだけです」

俺は位牌を布に包み直し、内ポケットへ戻した。木の角が、また肋骨のあたりへ当たった。

「帰ります」

宗徳は立ち上がって見送ろうとはしなかった。ただ、座ったまま、一度だけ言った。

「名を記すことは、名を閉じ込めることでもあります」

俺は答えなかった。答えれば、何かが始まる気がした。

見送りの家を出ると、霧はさらに濃くなっていた。石畳を踏む音が、自分の足音なのか、後ろからついてくる別の足音なのか、途中でわからなくなった。振り返っても、白い壁のような霧があるだけだった。

家に戻る道すがら、川沿いを通った。古い電話ボックスが、霧の中にぼんやりと立っている。子どもの頃、あの中で灯子と紗夜と三人でふざけて受話器を取り合ったことがあった。誰にかけるあてもないのに、硬貨を入れる真似をして、順番に適当な話をした。紗夜はいつも最後に、こう言って笑っていた。「もしもし、そっちは晴れてる?」――こっちはずっと霧なのに、電話の向こうにだけは晴れた場所があると信じているような口ぶりだった。

夜になっても、俺は眠れなかった。仏間の隅で位牌を膝に乗せ、木目を指でなぞりながら、宗徳の言葉を何度も反芻した。名が残ることと、残してよいことは違う。呼べば呼ぶほど、境が薄くなる。言葉の意味は、わかるようでわからない。だが、体の芯だけが、その言葉の重さを覚えていた。

深夜、川の音に混じって、乾いた音が響いた。

一度。

二度。

三度。

間があって、また三度。

俺は膝の上の位牌を握りしめたまま、動けなかった。呼び出し音は、家の外から届いているはずだった。だが、耳に届くその音は、まるで頭の内側で鳴っているようだった。

気づけば、外に出ていた。

霧が肌にまとわりつく。冷たさは、皮膚の表面だけでなく、その下の血の流れにまで届くようだった。裸足のまま踏んだ地面は、湿った土と小石の感触を返してくる。壊れた建物の梁を確かめるときの指先の感覚と同じだった。表面は平らに見えても、少し力を入れれば沈む。この村全体が、そういう場所だった。

川沿いの電話ボックスの前に立つと、受話器はすでに外れて、鎖の届く限り宙にぶら下がっていた。誰かが取ったあとのように。俺はそれを拾い上げ、耳に当てた。

雑音の向こうから、息をひそめるような、幼い声が聞こえた。

「――兄ちゃん」

十年分の理屈が、その一言でひび割れた。

俺は受話器を握ったまま、何も言えなかった。言葉の代わりに、喉の奥から押し出されたのは、名前だった。

「紗夜」

返事はなかった。ただ、受話器の向こうで、何かがひどく静かに息を吸う気配だけがした。

俺は受話器を置いた。

濡れた石段を踏みながら、霧の奥へ向かって歩き出す。百鳴きの丘へ続く道は、記憶の中よりずっと長く感じられた。背後で、誰かの足音が一つ、遅れてついてくる。振り向いても、そこには白い霧があるだけだった。

ただ、川の音の中に、もう一つ別の呼吸が混じっていた。

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見送りの家、鳴る電話 - 霧に呼ばれる妹 - 誰でも作家life