第2話 灯子の沈黙、帳簿の空欄

翌朝、霧はまだ家々の屋根より低いところに溜まっていた。
雨戸を開けると、庭の石が濡れて黒く光っている。昨夜、家の中で鳴ったはずの電話の呼び出し音は、それきり聞こえなかった。叔父も何も言わなかった。朝食の席には、冷えた味噌汁と白飯が置かれていたが、椀を持つ手は一度も向かい合わなかった。
俺は紗夜の位牌を上着の内ポケットへ入れた。
布に包んで持ち出したはずなのに、木の角が肋骨のあたりへ当たっている。歩くたび、そこだけが小さく痛んだ。位牌が重いのではない。名前を隠したまま持ち歩いていることが、体の内側に引っかかっている。
「役場へ行くのか」
玄関で靴紐を結んでいると、叔父が背後から言った。
「灯子に会う」
「何を聞く」
「聞いてから決める」
「余計なことを聞くな」
俺は結び目を締めた。濡れた靴紐は指に冷たく、力を入れすぎると切れそうだった。
「余計なことって、紗夜のことか」
叔父は答えなかった。
振り向くと、彼は台所の入口に立ったまま、右手で左の袖口を整えていた。昨夜と同じ仕草だった。布の皺を伸ばしているだけなのに、そこに何かを押し込めているように見える。
「俺は、妹のことを聞きに来た」
「お前に妹はいない」
「その言い方、誰に教わった」
叔父の指が止まった。
「誰に何を教わったかなんて、もう覚えていない」
その声は、ひどく疲れていた。怒っている人間の声ではない。長いあいだ同じ場所に立ち続けて、足元の土ごと沈みかけている人間の声だった。
俺は返事をせず、家を出た。
村役場までは、駅へ向かう道を逆に辿る。霧のために家々の距離感が狂っていた。角を曲がるたび、見慣れたはずの塀が別の家のものに見える。子どもの頃にはもっと近かった川が、今は歩いても歩いても音だけしか近づいてこなかった。
道端の石垣に、古い提灯が一つ掛かっていた。紙は破れて骨組みだけになっている。風はないのに、提灯はゆっくり揺れた。
その脇を通り過ぎると、背後から戸を開ける音がした。
振り向くと、向かいの家の老人が軒先へ出ていた。俺を見ている。目が合った瞬間、老人は口元を手で覆い、家の奥へ引っ込んだ。
見られている。
その感覚は、都会で誰かに監視されるのとは違う。神伏では、見られたことを誰も認めない。視線だけが霧の中に残り、こちらが振り返ると、最初から存在しなかったことになる。
役場は、昔のままだった。
木造の平屋で、入口の脇に村の掲示板がある。山の祠へ登る七月の行事案内が貼られ、白い紙の下部には、提灯を持って参加するようにという文面が並んでいた。肝心の行事名だけが、薄い墨で塗りつぶされている。
紙の端が浮いていた。
爪を差し込めば、下に別の紙がある。そう思ったが、俺は触れなかった。触れれば剥がれる。剥がせば、貼った人間が隠したものまで出てくる。そういう予感がした。
中へ入ると、ストーブの灯油臭さと、濡れた紙の匂いが混じっていた。
「朝比奈さん?」
窓口にいた若い男が顔を上げた。俺の顔を見て、すぐに視線を名札へ落とす。
「志岐は奥です。呼びます」
「いい。自分で行く」
奥の事務室では、灯子が机に向かっていた。
髪を後ろでまとめ、薄い灰色のカーディガンを着ている。記憶の中の灯子は、いつも膝を擦りむいていた。紗夜の手を引き、俺の後ろを走っていた。今は泥のついた靴も履かず、書類の角を揃えながら静かに座っている。
灯子は顔を上げた。
俺を見るまでに、一拍あった。
「……蓮」
昔と同じ声だった。少し低くなっている。けれど、名前の最後だけが柔らかく落ちるところは変わっていなかった。
「久しぶり」
「そうだね。十年ぶりくらい?」
「正確には十年と三か月」
灯子は笑った。笑ったあとで、俺の手元を見た。上着の内ポケットがわずかに膨らんでいる。位牌が入っている場所だ。
「お母さんの四十九日、大変だったね」
「母さんの話をしに来たんじゃない」
「うん」
「紗夜の話だ」
灯子はすぐには答えなかった。机の上に置いた鉛筆を、一本ずつ揃え直している。削ったばかりの鉛筆の先が、すべて同じ方向を向いていた。
「その名前は、ここではあまり口にしないほうがいいよ」
「ここでは、ってどこだ」
「神伏では」
「家でも、叔父が同じことを言った。紗夜なんて子はいなかったってな」
「……そう」
「お前もそう言うのか」
灯子は鉛筆を揃える手を止めた。窓の外を見た。ガラスは白く曇り、向こうの山も川も見えない。
「言わない」
「なぜ」
「いたから」
その言葉を聞いたとき、胸の奥で張りつめていたものが、ほんの少しだけ緩んだ。だが、安堵した直後に、別の疑いが膨らんだ。
「なら、なぜ黙っていた」
「黙っていたのは、私だけじゃない」
「俺が聞いてるのは、お前のことだ」
灯子は俺を見た。目の奥に、昔と同じ色があった。紗夜が川へ石を投げるのを、少し離れたところから見ていたときの色。何かに気づいていたのに、子どもだから止められなかった。そのときの、言葉になる前の怯え。
「蓮、百鳴きの丘には行かないで」
「理由は」
「行かないで」
「理由を言え」
「言ったら行かない?」
「内容による」
「そういうところ、変わってないね」
「お前もだ。肝心なところだけ、昔から言わない」
灯子は微笑んだ。柔らかな顔のまま、言葉の端だけが鋭かった。
「言わないんじゃない。言えないことがあるの」
「誰に止められてる」
「誰か一人に、という話じゃないよ。神伏では、皆が少しずつ知っていて、皆が少しずつ黙っている。誰かが命令する必要なんてない。隣の家が黙っているから、自分も黙る。自分が黙れば、次の家も黙る。そうやって、言葉が村の中を一周する頃には、最初に何を隠したのか誰も覚えていない。ただ、口にしてはいけないという形だけが残る」
「それで紗夜を消したのか」
「消したわけじゃない」
「叔父も同じことを言った」
「そうだろうね」
「なら、何だ。紗夜はどこへ行った」
灯子は返事をせず、机の引き出しを開けた。中から古い名簿を取り出す。表紙は濃い緑色で、角が擦れて白くなっていた。開いたとき、乾いた紙の匂いが立つ。その下に、湿った土のような匂いが混じっている。
「これを見て」
名簿には、神伏の家々の名前が並んでいた。世帯主、住所、続柄、転入日、転出日。役場で扱う普通の記録に見える。だが何ページかめくると、死亡年月日の欄だけが空白になっている家があった。
一軒ではない。
二軒、三軒と続いている。
灯子は指先で行を追った。
「山崩れの前からあるものもある。崩れた年に増えて、その後も少しずつ増えた」
「死亡年月日がないなら、記録としておかしいだろ」
「おかしいよ」
「なのに直さない」
「直せない」

「役場の仕事だろ」
「書き込むだけならできる。日付も、名前も、家族構成も。でも書いたものが、そのまま残るとは限らない」
俺は名簿の紙端を押さえた。
わずかな浮きがあった。
紙が二枚重なっている。上の紙の端だけが、糊で雑に貼られていた。指の腹で押すと、下から硬い感触が返ってくる。
「これ、下に何かある」
灯子の顔から笑みが消えた。
「触らないで」
「何が貼ってある」
「古い記録」
「剥がせばいい」
「そういうことをするから、ここでは人が帰れなくなるの」
声は静かだった。だが、これまで聞いた灯子の声の中で一番強かった。
俺は手を止めた。
灯子は名簿を閉じずに、紙の端を見つめている。机の上には、小さな梅干しのおにぎりが置かれていた。包み紙は少し湿っている。彼女は朝から一度も食べていないらしい。
「紗夜の名前もあるのか」
「……」
「この中に」
「あると思う」
「思う?」
「私が見たときには、あった。けれど、次に開いたときには違う場所にあったり、別の字に見えたりする。記録が変わるというより、見る側の記憶が変えられる感じがするの」
「そんな話を信じろっていうのか」
「信じなくていい。蓮は昔から、目で見たものより手で触れたものを信じるでしょう」
灯子の言葉に、指先が硬くなった。
「触れば、違いがわかる」
「わからないものもあるよ」
「わからないままにするのが、お前たちのやり方か」
「それで誰かが生き延びたこともある」
「誰が」
灯子は答えなかった。
俺は立ち上がり、窓際へ歩いた。白い霧がガラスの向こうに張りついている。川の音だけが、役場の壁を越えて聞こえていた。水が石にぶつかり、戻り、また流れていく。何度も同じ場所へ戻ってくる音だった。
「灯子」
「なに」
「俺は、紗夜を探す」
「探しても、見つからないかもしれない」
「それでも探す」
「見つけたら、どうするの」
「連れて帰る」
「帰る場所が、生きている人間の側とは限らないよ」
その言葉は、あまりに自然に出てきた。
灯子自身も、言ってしまってから気づいたようだった。髪を耳の後ろへかける。何度も同じ仕草を繰り返している。
「今のは何だ」
「忘れて」
「忘れろって言うのか」
「そうじゃない」
「叔父もそう言った」
「私は、蓮に死んでほしくないだけ」
灯子は机の上の名簿を閉じた。紙と紙の間から、細い紙片が一枚滑り落ちた。彼女が拾うより先に、俺が手を伸ばした。
紙片には、子どもの字で丘の絵が描かれていた。
三角形の丘。川。赤い点がいくつも浮かぶ提灯。そして、丘の下に小さく書かれた文字。
さや。
その字を見た瞬間、喉の奥で何かが擦れた。
「これ、紗夜の字だ」
「そうだね」
「どこにあった」
「私の机の中」
「なぜ持ってる」
「捨てられなかったから」
「お前は、何を知ってる」
灯子は長いあいだ黙っていた。
やがて、机の引き出しから古い地図を出した。村の道が薄い線で描かれ、百鳴きの丘と山の祠を結ぶ線だけが何度も引き直されている。途中に、川沿いの電話ボックスの印もあった。
「この道を辿っても、紗夜には会えない」
「なら、何のための道だ」
「会えないものを、どこへ返すか決めるための道」
「意味がわからない」
「わからないままでいい。今は、丘に行かないで」
灯子は地図を俺へ渡した。
紙は湿気を含み、柔らかくなっていた。けれど、線の一部だけは何度もなぞられて硬い。誰かが同じ道を、同じ迷い方で辿った跡だった。
「蓮」
「まだあるのか」
「紗夜の名前を呼ぶなら、昼にして。ひとりで呼ばないで。霧の中では、返事があっても振り向かないで」
「何が返事をする」
灯子は答えなかった。
代わりに、窓の外へ目を向けた。霧の向こうで、何かが白く揺れている。提灯の紙のようにも、誰かの袖のようにも見えた。
「灯子」
「今日は帰って」
「俺は――」
「お願い」
その一言だけが、昔の灯子に戻っていた。
紗夜がいなくなった日の夕方、灯子も同じ声で俺を呼んだ。帰ろう、と。けれど俺は聞かなかった。白い霧の中へ消えた妹を追って、山道を走った。足元の石に躓き、転び、泥を掴んだ。手を伸ばせば届くと思っていた。声を張れば戻ってくると思っていた。
あのとき、返事が聞こえた。
振り向いた。
けれど、そこには誰もいなかった。
俺は紙片を握りしめた。端が指に食い込む。
「俺はもう、帰れない」
灯子の顔から、最後の笑みが消えた。
役場の時計が、乾いた音を立てた。
外の霧は窓いっぱいに広がり、川の音だけが遠くなっていく。灯子は何かを言いかけたが、結局、口を閉じた。
その沈黙の中で、俺の内ポケットにある位牌が、かすかに震えた。
木が鳴った。
ぱき、と。
名簿の閉じた表紙の向こうから、子どもの声がした。
――兄ちゃん。
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