第1話 霧の駅、欠けた位牌

神伏駅のホームに降りたとき、霧は靴の甲まで垂れていた。
列車の扉が閉まり、鉄の車輪が湿った音を引きずって遠ざかっていく。最後尾の赤い灯が白い中へ消えるまで、俺は動かなかった。山裾の小さな駅には、駅員の姿も、迎えに来るはずの叔父の軽トラックもない。濡れたレールだけが、どこか見えない場所へ伸びている。
霧の匂いは、都会の雨とは違った。川底の石をひっくり返したときのような、生臭い冷たさがある。湿った土と苔、それから古い木材の腐りかけた匂いが、鼻から入って喉の奥に張りついた。
十年ぶりだった。
ポケットから古い切符を出した。帰りの列車に乗るつもりで買ったものではない。神伏を出た日に、駅員から渡された切符を、なぜか捨てられずに持っていた。紙は柔らかくなり、角が丸くなっている。指で撫でると、破れかけた紙の繊維が爪に引っかかった。
俺は壊れたものの具合を、手で見てしまう。
解体現場では、梁に触れれば内部の腐りがわかる。壁の一部だけが妙に軽ければ、その奥で水が回っている。見た目が立っていても、触れたときに浮いているものは、いずれ崩れる。
神伏も同じだった。
駅舎の木の柱に手を置くと、塗装の下で木が湿っているのがわかった。表面はまだ固い。けれど、指の腹にわずかな沈みが返ってくる。
「……まだ建ってるのか」
誰に言うでもなく呟いた。
返事の代わりに、屋根のどこかで水滴が落ちた。
実家までは歩いた。叔父が忘れたのか、来られなかったのかは、どちらでもよかった。電話をかける気にはなれなかった。母が死んだことを知らせる電話を受けてから、まだ一度も叔父の声を聞いていない。
駅から坂を下ると、霧の向こうに村の家々が現れた。どの家も雨戸を閉め、軒先には白い布が掛けられている。母の四十九日だからだろう。人の気配はあるのに、道を歩く者はいない。
角を曲がったところで、窓の内側から女がこちらを見ていた。
目が合う前に、女は障子を閉めた。
神伏では、昔からそうだった。大人たちは誰かを見つけると、まず湯呑みを持ち替えた。話の途中でも、視線を外した。紗夜の名前を口にしたときだけ、その癖がひどくなった。
あの頃は、俺が何か悪いことをしたのだと思っていた。
今は違う。悪いことをした人間ほど、相手の顔を見ない。
実家の門は、錆びた蝶番が片方だけ浮いていた。押すと、ぎ、と低く鳴った。音を立てないように押したつもりだったが、霧の中ではその音だけが妙に長く残った。
玄関を開けると、線香の匂いがした。湿った畳と古い衣服の匂いに混じって、甘く焦げた香りが鼻へ入る。靴を脱ぎ、揃えて置いた。叔父の靴はなかった。
「叔父さん?」
返事はない。
母の遺影がある仏間へ入ると、灯りがついていた。仏壇の前に、黒い座布団が二枚並べられている。そのうち一枚は、誰かがついさっきまで座っていたように中央が沈んでいた。
遺影の中の母は、知らない女の顔をしていた。
笑っている。俺の記憶にある母は、いつも口元をきつく結んでいた。写真になると笑う人だったのかもしれない。あるいは、死んだあとに残る顔は、生きている人間の記憶とは別のものなのかもしれない。
焼香をしようとして、俺は仏壇の右端にあるものへ目を止めた。
小さな位牌だった。
母の位牌よりずっと低く、黒い木肌は煤けている。上部の角が欠け、表面には細いひびが走っていた。俺はしゃがみ込み、指で縁をなぞった。
朝比奈紗夜。
目で読んだだけなのに、喉が狭くなった。
「……これ、何だ」
背後で畳が鳴った。
振り返ると、叔父が立っていた。いつ入ってきたのかわからない。濡れた作業着の肩に霧が乗り、白髪の先から水が落ちている。
「帰ったか」
「これ、紗夜の位牌だろ」
叔父は俺の手元を見た。見たはずだった。だが、視線は位牌の少し横を通り過ぎ、仏壇の花立てに止まった。
「母さんの四十九日だ。線香をあげろ」
「聞いてるのか」
「聞いてる」
「紗夜の位牌がある。どうして誰も何も言わない」
叔父は濡れた袖口を指で押さえた。昔から、都合の悪い話になると服の端を整える癖があった。
「位牌なんて、どれも似たようなものだ」
「名前が彫ってある」
「見間違いだろ」
「俺は字を見間違えない」
声が大きくなった。自分でもわかった。親指の爪が掌へ食い込んでいる。
叔父はしばらく黙っていた。仏壇の灯りが、位牌の欠けた縁を照らしている。欠けた部分だけ、木の内側が白く見えた。新しい傷ではない。だが、何度も指で触られたように滑らかだった。
「紗夜なんて子は、うちにはいなかった」
その言葉を聞いた瞬間、仏間の空気が一枚、薄く剥がれた。
俺は叔父の顔を見た。冗談を言っている顔ではない。嘘をついているときの顔でもない。本人の中では、本当にそうなっている顔だった。
「ふざけるな」
「ふざけていない」
「俺の妹だ」
「お前に妹はいない」
叔父の声は静かだった。怒鳴られるより、その静けさのほうが怖かった。誰かに言い聞かせる声ではない。もう何度も同じ言葉を口にして、自分の中へ押し込んだ人間の声だった。
「母さんは知ってた」
「母さんはもういない」
「だから聞いてる。母さんは紗夜を知ってた。俺も知ってる。ここで一緒に暮らしてた」
「蓮」
叔父が初めて俺の名を呼んだ。
その呼び方だけは、昔のままだった。叱る前の呼び方。言っても無駄だとわかっているときの呼び方。
「お前は都会で疲れてる。四十九日が済んだら、戻れ。ここに長くいると、余計なことを思い出す」
「余計なことって何だ」
「忘れていたほうがいいことだ」
「忘れろって言うのか」
「そうは言っていない」

「同じだろ」
叔父は答えなかった。代わりに仏壇へ近づき、線香を一本取り出した。火をつけ、灰の中へ立てる。線香の先が少し斜めになった。叔父はそれを抜き、まっすぐに差し直した。
「壊れたままにしておくと、家は持たない」
俺は自分でも意外な言葉を口にしていた。
「壊れたなら、直すか、壊して片づける。名前だけ消して立ってるふりをするのは、修理じゃない」
叔父の指が止まった。
「お前の仕事は、壊すことだろう」
「壊す仕事だからわかる。崩れる前には、必ず浮いてるところがある」
「そういうものばかり見ていると、人間まで建物に見えてくるぞ」
「人間のほうが、よほど悪い」
叔父は俺を見た。ようやく目が合った。そこに怒りはなかった。ただ、疲れと、ひどく古い恐怖が沈んでいた。
「紗夜のことを口にするな」
「なぜ」
「家が揺れる」
「もう揺れてる」
その瞬間、仏壇のどこかで、木が小さく鳴った。
ぱき、と。
俺たちは同時に位牌を見た。
欠けた角から、細い木屑が落ちていた。誰も触れていない。なのに、位牌はほんの少しだけ前へ傾いている。
叔父が手を伸ばした。
俺はその手首を掴んだ。
「触るな」
「返せ」
「どこへ」
「あるべき場所へ」
「ここがあるべき場所じゃないのか」
叔父の手首は驚くほど細かった。脈が指の下で規則正しく打っている。その生きている感触だけが、今目の前にあるものを現実へ繋ぎ止めていた。
叔父は力を抜いた。
「お前は、何も知らない」
「なら話せ」
「話せば、聞こえる」
「何が」
叔父は口を開いたが、声を出さなかった。仏間の外で、雨戸が風に揺れた。遠くから川の音がする。水の音に混じって、子どもの足音のようなものが、廊下の奥を一つだけ走った。
叔父の顔から血の気が引いた。
俺が振り返るより先に、叔父は言った。
「今のは、聞かなかったことにしろ」
その夜、叔父は別の部屋で寝た。俺は仏間に残り、位牌を布で包んでポケットへ入れた。持ち出すとき、角の欠けが布越しに指へ当たった。誰かの歯のようだった。
眠れなかった。
天井の木目を見ながら、紗夜の名前を口の中だけで繰り返した。
さや。
さや。
さや。
名前を繰り返すたび、顔が少しずつ遠ざかった。笑う前に肩が揺れる子だった。泣くときも声を荒らげず、息をひそめるように泣いた。川辺で白い石を拾い、俺の作業着のポケットへ勝手に入れた。
――兄ちゃん、いつかここを出ようね。
あれは俺が言ったのか、紗夜が言ったのか、もうわからない。
夕方になって、台所の勝手口へ出た。雨は上がっていたが、霧は薄くならなかった。裏手の物置の脇に、錆びた金具が落ちている。
赤い布の切れ端がついていた。
拾い上げると、鈴の外れた髪留めだった。
紗夜が使っていたものだ。
赤い髪紐を結んだとき、鈴が鳴るたびに紗夜は振り返った。呼ばれたからではなく、音が自分を探していると思っていたのだろう。俺がからかうと、口元を指でなぞって、少し考えてから言った。
「音がしたら、ちゃんと返事するの」
「誰に」
「呼んだ人に」
「知らない人でも?」
紗夜は川へ石を投げた。水面が三度、白く跳ねた。
「兄ちゃんがいるなら、知らない人じゃないよ」
掌の中で、髪留めの金具が冷えていく。
霧の向こうで、何かが鳴った。
鈴ではない。
遠く、川沿いのどこかから、乾いた呼び出し音が一度だけ響いた。
俺は顔を上げた。
家の中から、叔父の声がした。
「蓮、そこを動くな」
俺は返事をしなかった。
呼び出し音が、もう一度鳴った。
今度は、家の中から聞こえた。
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