第9話 回覧板の空白、立ち退きの数字

自室へ戻ると、私はまず窓を確かめた。
鍵はかかっている。カーテンの隙間から見える廊下側の光も、いつもと変わらない。それでも一度、玄関の扉に鍵をかけ直してから、机の上に黒田の回覧板の控えを広げた。
紙を並べる順番は、もう頭に入っていた。日付を左から右へ、部屋番号を上から下へ。黒田の字は几帳面で、余白が少ない。行間を詰めて書くのが好きだったのか、それとも紙を節約する必要があったのか、今となっては分からない。ただ、その几帳面さのおかげで、抜けている箇所がひどく目立った。
ある月の回を境に、名前の並びが急に飛んでいる。
三〇一、三〇二、三〇五、三〇七――そこまでは変わらない。だが次の頁では、三〇一の欄だけ、名前がなく、押印だけが残っていた。誰が回したのかを示す印は残っているのに、誰が受け取ったのかを示す文字がない。判子だけが、まるで人の代わりに立っているようだった。
私はその頁を蛍光灯の下に持っていき、光を斜めに当てた。紙の繊維に沿って、うっすらと段差がある。一度書かれた文字の上から、別の何かで押さえつけた跡だ。黒田は書き直しをしない人間だった。この段差は、彼の筆ではなく、後から誰かが触れた痕跡だった。
一階まで下りて、宅配ボックスの前に立つ。
黄色い不在通知は、まだ同じ場所に刺さっていた。三〇一、黒田宗一様。配達の日付は変わらない。紙の端は湿気を吸って波打ち、印字の輪郭がにじんでいる。十日以上、誰もこの箱を開けていない証拠が、そこにひとつだけ残されていた。
掲示板の前まで戻ると、私は白い剥がし跡の寸法を、指の幅で測った。縦、横。それから、以前の説明会で配られた告知の大きさを思い出す。手元のメモには、その寸法も書き留めてあった。
一致する。
貼られていた紙を剥いだのではない。貼り替えのために、上から重ねて隠したのだ。だから跡は不自然に白く、糊の輪郭だけが古い層の上に浮いている。掲示板は、何かを隠すための場所ではなく、何かを上書きするための場所として使われていた。
廊下の奥で、換気扇が低く回り始めた。
一つ。
二つ。
三つ目の音を待つ間、私は住人たちの顔を、ひとりずつ思い出していた。靴紐を結び直しながら目をそらした男。買い物袋を持ち替えながら「静かでしたよ」とだけ言った女。あの人たちの口から出た「知らない」「見ていない」という言葉は、嘘ではなかったのだと思う。本当に見ていなかった。見ないことを、この建物で生きるための作法として、いつの間にか身につけていた。
その作法を、私も同じように身につけていた。
翌朝、管理人室の掲示に、個別説明会の日程が貼られていた。前回の説明会で出た質問への回答を、各住戸ごとに行うという。私の番は、午前の早い時間に割り当てられていた。
集会室に入ると、城戸誠司が一人で待っていた。前回よりも机は一つだけで、資料も薄い。彼は私が座るのを待って、静かに一枚の紙を差し出した。
「前回、佐伯様がご指摘された点について、社内で確認いたしました」
紙には、住戸番号の一覧が印字されている。私はまず、三〇一の行を見た。数字は変わらずそこにあった。だが紙の裏を光にかざすと、以前と同じ段差が残っている。削って、また出力し直した跡。
「確認した結果は」
「印字の乱れがあったことは、事実として認めます。プリンターの不調によるものと判断しております」
「プリンターの不調で、部屋番号だけが選んで消えるんですか」
城戸は資料の端を、指先でゆっくり撫でた。
「不調というのは、必ずしも均等に生じるものではありません。特定の位置に負荷がかかりやすい場合もございます」
「黒田さんの部屋だけに、負荷がかかる理由があるんですか」
「それは、機械的な問題ですので、私の説明できる範囲を超えます」
「あなたは、説明できないことを、説明できないという言葉で処理するんですね」
城戸は初めて、資料から目を上げた。
「佐伯様。私は、事実を都合よく作る立場にはありません。ただ、確認できないことを確認できたことのように語ることも、同じくらい誤りだと考えております」
「では、久米原静という人を知っていますか」
言った瞬間、集会室の空気が変わった。
城戸の指が、資料の端で止まった。長い沈黙ではなかった。けれど、それまでの穏やかな受け答えの中に、初めて隙間のようなものが生まれた。
「立ち退き資料の整理を、長く担当されている方です」
「担当というのは、どこまでの範囲ですか」
「記録の整備全般です。私の管轄とは異なります」
「異なるのに、名前は知っている」
「業務上、名前を目にすることはあります」
「その方が扱う記録には、黒田さんの部屋の履歴も含まれますか」
城戸は資料を閉じた。動作は変わらず滑らかだったが、紙を閉じる速度が、それまでより少しだけ速かった。
「含まれる可能性はあります。ただ、その方が個別の判断で記録を操作するようなことは、規定上、想定されておりません」
「規定にないことは、起きないんですか」
「起きないよう、規定を整えています」
「規定は、起きたことを、起きなかったことにするためにも使えますよね」
城戸は答えなかった。
その沈黙は、これまでの丁寧な言葉の裏にある、初めての「言えないこと」だった。私はそこに、久米原静という名前が持つ重さを、はっきりと感じた。
「佐伯様のご懸念は、記録いたします」
城戸はそう言って、資料を鞄へ収めた。折り目のない紙は、鞄の中でも角を揃えたまま消えていく。
集会室を出ると、廊下の窓から白い光が差していた。三〇一の郵便受けは、今日も黒い口を閉じている。私はメモ帳を開き、日付より先に部屋番号を書いた。
三〇一。
三〇二。
その下に、久米原静、と書き足す。
回覧板の空白、宅配ボックスの不在通知、掲示板の上書き、資料の削除痕――それらはばらばらの出来事ではなかった。ひとつの手つきが、順番に、丁寧に、この建物から人の輪郭を薄くしていく。その手つきの名前を、私はようやく、紙の上に定着させることができた。
けれど、名前を書いたところで、黒田は戻らない。
その事実だけが、廊下の湿った空気の中で、いつまでも乾かずに残っていた。
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