第10話 事件性なし、という言葉

交番に寄ったのは、通勤前の短い時間だった。高瀬怜は机の上に広げた受理簿を整えながら、私の話を最後まで遮らずに聞いた。写真も、回覧板の控えも、封筒の裏に浮いた朱肉の跡も、一枚ずつ見せた。彼はそのたびに小さくうなずき、手帳へ何か書き込んだ。
「印影の欠け方が、管理人室の旧い印と同じに見えるんです」
「同じに見える、というのは大事な情報ですね」
高瀬はそう言ってから、手帳のページを一つ戻した。
「ただ、印影の一致だけでは、失踪の背景にまでは踏み込めません。黒田さんの件は、住民票の異動もなく、緊急性を示す通報もない。ご家族からの申告もまだです」
「家族がいないから、誰も届を出さないんです」
「それは分かります。ですが、事件性を判断する基準は、そこにはありません」
言葉は静かで、責めるような色はどこにもなかった。だからこそ、私は返す言葉を失った。彼は資料の束を丁寧に揃え、私の前へ戻した。角がぴたりと合っていた。
「佐伯さん。集めていただいたものは、記録として残しておきます。ただ、今の段階でこちらから強く動くと、逆に住民の方々を刺激してしまう可能性もあります」
「刺激されて困るのは、誰ですか」
高瀬は一拍置いた。
「それも、私には分かりません」
分からないという言葉を、彼はまるで正直さの証のように口にした。私は資料をバッグへ戻しながら、換気の悪い交番の空気を、初めて息苦しく感じた。
会社を出たあと、私は白鷺ハイツへ戻る前に、もう一度掲示板の前で足を止めた。剥がし跡の白さは、昨日より少し乾いて見えた。乾くということは、そこにあった水分がどこかへ抜けたということだ。抜けた水分がどこへ行ったのか、誰も気にしない。
管理人室の扉をノックすると、藤崎美沙はすぐに顔を出した。手には、白い布に包まれたままの帳面があった。
「事故記録簿の複写だよ」
「複写を、出してもいいんですか」
「元のものは持ち出せない。複写なら、うちで作った分がある。ずっと、渡す相手を選んでいた」
私を招き入れると、藤崎は机の上に薄い紙束を置いた。インクの色が、原本より少し薄い。頁の順番も、以前見せてもらった帳面と同じだった。
「三〇一の事故の欄を、もう一度」
私は頁をめくった。日付は残っている。処置、立ち入り制限、設備確認という言葉も、前と同じ位置にあった。ただ、複写の欄外には、原本にはなかった細い数字が一つ、鉛筆で書き添えられている。
「これは」
「管理番号だよ。誰が最終確認をしたか、記す欄がある。原本では、そこも消えている」
「消えているのに、複写には残っている」
「複写を取った日には、まだ書かれていたんだよ」
私は数字を見つめた。前住人の退去欄にあった番号と、同じだった。
「この番号は」
「久米原静さんの番号だ」
藤崎は名前を、初めてはっきりと口にした。声に力はなかったが、迷いもなかった。
「その人が、記録を消したんですか」
「消したというより、整えた。あの人にとっては、消すことも整えることの一部だ」
「なぜ、今それを教えるんですか」
藤崎は帳面の端を、指の腹で押さえた。
「あんたが、事件性がないと言われて帰ってきたからだよ」
「見ていたんですか」
「見ていなくても、分かる」
彼女はそう言って、掲示板の剥がし跡の方向へ、視線を投げた。壁の向こうにあるはずのその跡を、透かして見ているようだった。
「これを持って、久米原さんに会いに行くのかい」
「行きます」
「会って、何を聞く」
「黒田さんが、最後に何を見たのかを」
藤崎は帳面の白い布を、もう一度きつく巻いた。
「その問いに、あの人はまっすぐには答えないよ」
「それでも聞きます」
「聞いたら、あんたの番号も、どこかの欄に加わるかもしれない」
私は答えなかった。答えられなかった。
管理人室を出ると、廊下の換気扇が、いつもより少し高い音で唸っていた。一つ、二つ、三つ――数え終わる前に、階段の下で誰かの足音が止まった。私はメモ帳を開き、部屋番号の下に、久米原静という名前を書き加えた。
紙の上でその名前は、まだ何も語っていなかった。
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