8話 管理室の奥、台帳の匂い

翌日の夕方、私は約束どおり管理人室へ向かった。

仕事を早く切り上げたわけではない。会社を出る時刻も、駅で乗り換える時刻も、いつもと同じだった。ただ、白鷺ハイツへ戻る道だけを、普段より遅く歩いた。急いでしまえば、見たくないものまで先に見えてしまう気がした。

駅前の再開発区域では、仮囲いの向こうで重機が止まっていた。作業員の姿はなく、工事用の照明だけが白く点いている。囲いには新しい街の完成予想図が貼られていた。ガラス張りの建物、広い歩道、植えられたばかりの木々。そこには、白鷺ハイツの姿は描かれていない。

まだ壊されていないものを、壊されたあとに見せる絵だった。

風が吹くたび、仮囲いの継ぎ目が低く震えた。足元には細かな砂が浮いていて、靴底で踏むと、乾いた音がした。私はその音を聞きながら、黒田の部屋の前に残っていた白い剥がし跡を思い出していた。紙を剥がした音も、きっとこんなふうに乾いていたのだろう。

白鷺ハイツの門をくぐると、湿った風が袖口から入り込んだ。雨は降っていない。それでも建物は一日じゅう空気の中から水分を吸い上げているらしく、階段の手すりも壁の継ぎ目も冷たく濡れていた。

三階へ上がる途中、私は無意識に換気扇の音を数えた。

一つ。

踊り場の奥で、低い唸りがする。

二つ。

二階の廊下から、金属が震えるような音が返る。

三つ目を数える前に、管理人室の扉が開いた。

藤崎美沙が立っていた。薄い灰色のカーディガンに、濃い色の前掛けをつけている。右手には鍵束があり、左手は扉の縁に置かれていた。私を見ると、挨拶の代わりに胸ポケットへ視線を落とした。

「持ってきたかい」

「何をですか」

「紙だよ」

私は黒田の回覧板の控えと、灰色の封筒を取り出した。

藤崎は手を伸ばさなかった。先に廊下の左右を見た。誰かがいるわけではない。三階の窓は曇り、住人の扉はすべて閉じている。それでも彼女は、壁の向こうにいる人間まで確かめるように、しばらく動かなかった。

「中へ」

管理人室は、表から見るより奥行きがあった。受付の机の後ろに棚が並び、そのさらに奥に古い流し台と電気ポットが置かれている。壁際には、使われていない蛍光灯や錆びた工具が積まれていた。濃い番茶の匂いに、紙と埃と、長く閉め切った押し入れのような湿気が混ざっている。

藤崎は私を椅子へ座らせると、手袋を外した。鍵束から一本だけ細い鍵を抜き、奥の棚の下段へ向かう。

「ここから先は、あんたが見たことを、あんたの記憶だけで並べな」

「記憶だけで?」

「紙を見ながらだと、紙に引っ張られる。黒田さんは紙を信じすぎた。だから最後には、紙に残ったものだけが自分の味方だと思うようになった」

「記録を信じるのが悪いことですか」

「悪くはないよ。けれど、記録は残した人間の手から逃げられない。書き方にも、抜き方にも、残したくないものが出る。紙は嘘をつかないが、紙を扱う人間は、嘘が見えない形に整えることができる」

藤崎は、布張りの帳面を一冊抜き出した。

表紙は擦れて白くなり、背表紙の文字も半分ほど読めない。彼女は机へ置く前に、指先で表紙の埃を払った。埃は床へ落ちず、薄い灰色の筋になって机の縁へ残った。

帳面を開く。

紙が擦れる音がした。乾いているのに、どこか湿っている。長く閉じられていた頁が、開かれることを嫌がっているように聞こえた。

最初の数頁には、入居者の名前、部屋番号、入居日、退去日が並んでいた。名前の欄は細い罫線で区切られ、印鑑を押す位置まで決められている。藤崎は頁をめくるたび、一拍置いた。

私は紙面より、彼女の指を見ていた。

指先は荒れている。爪の間には薄い黒ずみが残っている。それでも、紙を押さえる力は均一だった。角を折らず、めくった頁を戻しすぎず、必要な位置でぴたりと止める。帳面のどこに何があるのか、指が先に知っているようだった。

302号室」

藤崎が言った。

私は身を乗り出した。

302号室の欄には、私の名前がある。その上には、前の住人の記録が続いているはずだった。しかし名前の欄だけが、白く抜けていた。削った跡はない。修正液の塗りむらもない。ただ、最初から何も書かれていなかったように、そこだけ紙の色が新しい。

入居日は空欄。

退去日は空欄。

理由も空欄。

二つの記録の間に、誰も住んでいなかった時間があるように見えた。

「前の住人の名前は、分からないんですか」

「分かるよ」

「なら、なぜ書かれていない」

「書いてあったけど、今はない」

「誰が消したんですか」

藤崎は答えず、さらに頁を戻した。

301号室の欄へ移る。

黒田宗一の名前は、まだ残っていた。だが、その行には薄い擦れがある。名前の中央、「宗」の一画だけが妙に薄い。指でこすった跡ではない。上から別の紙を重ね、何度も押さえつけたような、平らな傷だった。

私は灰色の封筒を机へ置いた。

「この手紙の裏に、赤い跡がありました」

藤崎はすぐには触れなかった。封筒の表面へ視線を落とし、紙の角、封の糊、裏側の赤い汚れを順番に見た。

「朱肉だね」

「台帳の印影と同じですか」

「同じかどうかは、印鑑を見ないと分からない」

「でも、欠け方が似ています。左下が少し欠けている」

藤崎は帳面の欄外に押された印影へ指を置いた。古い朱肉は赤というより茶色に近く、円の左下が細く途切れている。

「これは管理人室の印ですか」

「昔はね」

「今は使っていない?」

「使っていない」

「でも、黒田さんの手紙に付いている」

「そうだね」

「黒田さんが管理人室に来たんですか」

「来たことはある」

「いつですか」

藤崎の手が、帳面の端で止まった。

「何度も」

「最後は?」

「最後の日までは、来ていた」

「最後の日というのは、黒田さんがいなくなった夜ですか」

「夜に来たとは言っていないよ」

「では、いつです」

「日付を知って、どうする」

「日付を知れば、黒田さんが何を見て、何を残そうとしたのか追えるかもしれない」

「追って、それでどうするんだい」

「見つけます」

「誰を」

「黒田さんを」

声にした瞬間、胸の奥が痛んだ。

藤崎は私を見なかった。白く抜けた名前の欄を、指の腹でゆっくり押さえている。

「見つけると言う人間は、多くの場合、見つかったあとに何をするかを考えていない」

「考えています」

「本当に?」

「少なくとも、見つけたことにして終わらせるよりはましです」

「見つけたことにして終わらせる。誰がそんなことをした」

「黒田さんの部屋です。鍵を替え、郵便受けを塞ぎ、部屋番号を剥がした人間です」

「それは、部屋を片づけた人間だよ」

「片づければ、消したことにならないんですか」

「片づける人間は、消したつもりがない。そこが厄介なんだ」

藤崎は帳面を閉じた。だが、手は表紙から離れなかった。

「事故があったときも、同じだった」

彼女は言った。

「廊下に血が残って、壁に何かがぶつかった跡があって、救急車が来た。住民はみんな見ていた。なのに、翌日には『体調不良』になって、その次には『一時帰省』になった。しばらくすると、部屋番号だけが空いた。名前を覚えている人間はいた。でも、名前を口にする人間はいなかった」

「なぜですか」

「怖かったからだろうね」

「誰が怖かったんですか。管理会社ですか。再開発会社ですか」

「怖いものは一つじゃない。家賃が上がること、部屋を追われること、仕事を失うこと、近所で面倒な人間と思われること。人間は命に関わることだけを恐れるわけじゃない。暮らしが少し悪くなる可能性にも、ずいぶん素直に従う。隣人を庇ったせいで、自分まで厄介な住人と見なされる。それだけで、黙る理由にはなる」

「だから、みんな黙った」

「みんなが一度に黙ったわけじゃない。ひとりが『知らない』と言い、別のひとりが『見ていない』と言う。その二つを聞いた三人目が、自分も同じ言い方をしようと思う。そうやって、黙ることが建物の作法になる」

「藤崎さんも、その作法に従った」

「そうだね」

短い返事だった。

けれど、その一言には、何年分もの時間が沈んでいるようだった。

藤崎は再び帳面を開いた。今度は、302号室よりさらに前の頁を探す。紙の端が指に触れるたび、湿った匂いが濃くなる。帳面の底に閉じ込められていた水分が、開いた空気へ逃げているようだった。

「ここだよ」

指先が止まった。

何年も前の記録だった。部屋番号の並びの中に、301302303と続いている。その下に事故の欄がある。日付は黒いインクで残っているのに、事故の内容だけが白く抜けていた。

隣の欄には、応急処置、立ち入り制限、設備確認という言葉が残っている。けれど、誰が、どこで、何に巻き込まれたのかは書かれていない。

さらに下に、管理番号があった。

その番号は、302号室の前住人の退去欄にも押されていた。

「この番号は何ですか」

「管理の番号だよ」

「事故と退去が、同じ番号でつながっている」

「番号は、いろんなものをつなげられる。名前より便利だからね」

私は紙面へ顔を近づけた。インクの匂いに、古い湿気と乾ききらないカビの気配が混じっている。頁の端には、誰かが別の紙から写したような細い文字が残っていた。

――三階、東側。記録から抜けた部屋あり。

筆跡は黒田のものに似ていた。

ただ、完全に同じではない。黒田の字より細く、線の終わりが弱い。黒田が誰かの記録を写したのなら、この文字の持ち主は別にいる。

「これは黒田さんが書いたんですか」

「さあね」

「見れば分かるでしょう」

「分かることと、言えることは別だよ」

「なぜ言えないんですか」

「言ったら、あんたは次に、その人を探すだろう」

「探します」

「だから言えない」

藤崎の声には、初めて明らかな拒絶が混じった。

私は封筒の赤い跡を見た。白い空欄の中に落ちた赤は、小さな傷のようだった。

「黒田さんは、これを私に渡すつもりだったんでしょうか」

「郵便受けに入れたなら、そうだろうね」

「なぜ私なんですか。私は、あの人とほとんど話していない」

「話していないからじゃないかい」

「どういう意味ですか」

藤崎は帳面を閉じ、両手を表紙の上に重ねた。

「近くにいる人間ほど、近くにいることを利用しない。隣に住んでいても、声をかけない。壁越しの音を聞いても、聞かなかったことにする。そういう人間の郵便受けは、誰かに紙を入れるには都合がいい。余計な関係がないから、受け取った側も最初は他人事でいられる」

「黒田さんは、私が他人事にすると思った」

「思ったんだろうね」

「それでも入れた」

「だから、手紙なんだよ。口で言えば、あんたは返事を求められる。紙なら、読むか捨てるかを選べる。黒田さんは、あんたに選べる形で警告を残した」

「それは警告じゃなくて、遺言みたいに聞こえます」

「同じようなものだよ」

「違います。遺言なら、死んだことを前提にする」

「前提にしなければ、残せない言葉もある」

藤崎の顔には、怒りも悲しみも浮かんでいなかった。けれど、帳面を押さえる指先だけが白くなっていた。

「黒田さんは部屋の中へ入るなと言った。でも、藤崎さんは記録を見せてくれた。矛盾していませんか」

「部屋に入るなと言われたんだろう。管理人室まで入るなとは書いていない」

「黒田さんが守ろうとしたのは、部屋の中にあるものですか」

「そうかもしれない」

「それとも、部屋の中に入った人間に起きることですか」

藤崎は返事をしなかった。

管理人室の奥で、ポットが小さく沸いた。電源が切れ、金属が冷える音がする。外では誰かが廊下を歩いている。靴音は三階の掲示板の前で止まり、すぐに遠ざかった。

「この記録簿を、黒田さんは見ていたんですか」

「見ていた」

「誰から?」

「私から」

「なぜ見せたんですか」

「見せたくて見せたんじゃない。黒田さんが、すでに知っていたからだよ。記録簿の存在も、空欄の位置も、番号のつながりも。私は、知らないふりを続けるには遅すぎると思った」

「それでも、全部は教えなかった」

「全部を教えると、知った人間の行き先まで決まる」

「黒田さんの行き先が決まったのは、藤崎さんが教えなかったからですか」

言葉が落ちたあと、室内の空気が固まった。

藤崎はしばらく私を見た。初めて、まっすぐ目が合った。

「そうかもしれない」

声は低く、乾いていた。

「でも、教えたから決まったのかもしれない。黙ったから助かった人間もいる。話したから傷ついた人間もいる。そんなことを並べていたら、何もしなかった自分が正しいように思えてくる。だから、あんたには言っておくよ」

「何を」

「見たなら、名前をつけな。番号のままにするな。空欄のまま置くな。名前を呼べば、少なくとも自分の中では、その人を部屋から追い出さずに済む」

私は黒田宗一という名前を思い浮かべた。

口に出すには、まだ喉が狭かった。

藤崎は事故記録簿を閉じ、白い布で表紙を包んだ。

「今日はここまでだ」

「この記録簿を、持ち出せますか」

「持ち出せない」

「コピーは」

「機械がない」

「写真を撮ってもいいですか」

藤崎は少し考えた。

「撮るなら、空欄も撮りな」

私はスマートフォンを取り出した。画面の白い光が、帳面の紙面を照らす。記録の残っている部分だけでなく、名前の抜けた欄、日付の途切れた行、欠けた印影、頁の端に残った細い写し跡を、一枚ずつ撮った。

シャッター音は小さく、紙を擦る音より乾いていた。

最後に、302号室の前住人の欄を撮る。

白い空欄が、画面の中でひどく明るくなった。

「そこまでにしな」

藤崎が言った。

私はスマートフォンを下ろした。

「何か見つかりましたか」

「見つかったというより、見つからない場所が分かった」

「それは同じでは?」

「違うよ。見つからない場所には、見つからないようにした人間がいる」

藤崎は事故記録簿を棚へ戻した。背表紙を揃え、隣の帳面との間に指一本分の隙間を空ける。その隙間が気になったのか、一度押し込み、また少し戻した。

私はその手元を見ていた。

きれいに整える人間の手だった。

けれど、その手は、整えたものの中に空白を残している。

管理人室を出ると、夜の廊下は昼より冷たかった。湿気は薄れていたが、代わりに壁紙の奥の埃の匂いが濃くなっている。私は301号室の前を通り過ぎることができず、扉の前で足を止めた。

黒いテープで塞がれた郵便受け。

新しい鍵穴。

剥がされた部屋番号。

事故記録簿の白い欄。

それらが、ばらばらのものではなく、同じ順番で並んでいるように見えた。

誰かが名前を消す。

次に日付を消す。

理由を消す。

最後に、そこにいたこと自体を、空欄として残す。

私は封筒を指でなぞった。紙はもう、最初の硬さを失っていた。

「黒田さん」

今度は、声に出せた。

扉の向こうから返事はなかった。

それでも、聞こえないことが返事ではないとは、もう思えなかった。音がない場所にも、誰かが残した手順がある。紙の端の折れ、印影の欠け、頁の湿り。声にならなかったものは、消えたのではなく、別の形へ移っている。

私はメモ帳を開いた。

日付より先に、部屋番号を書く。

302

その下に、301

さらに、空欄の数を記した。

三つ。

名前、退去日、理由。

そこまで書いてから、私は一度ためらい、空欄の横に黒田宗一と書き足した。

紙の上に名前が戻った。

けれど、戻ったのは文字だけだった。

301号室の中で何が起きたのか、黒田がどこへ消えたのか、記録を誰が抜いたのかは、まだ分からない。分からないまま、廊下の換気扇が低く唸り始めた。

一つ。

二つ。

三つ目の音は、なかなか来なかった。

私は301号室の前を離れた。階段へ向かうと、窓の外の幹線道路を大型車が走り、白鷺ハイツの床がかすかに揺れた。管理人室の扉の下から漏れていた光が、細い線になって廊下へ伸びている。

その線の上に、紙の小さな繊維が一つ落ちていた。

私は拾わなかった。

拾えば、また何かを自分のものにしてしまう気がした。

けれど、通り過ぎてから振り返ると、繊維はもう見えなかった。誰かが掃いたのか、風に飛んだのか、最初からなかったのかも分からない。

白鷺ハイツは、何もなかったように夜を深くしていた。

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