7話 301号室の乾き

その夜、私は黒田宗一の筆跡を写した紙と、藤崎から見せられた事故記録簿の複写を胸ポケットへ入れて、三階の廊下へ出た。

仕事から帰ってすぐ、机の上に紙を並べた。回覧板の控え、白い剥がし跡から拾った紙片、灰色の封筒。そこへ事故記録簿の複写を重ねると、黒田の名前と部屋番号だけが、薄い紙の上で妙に黒く浮かんだ。

私は一度、紙の角を揃えた。

それから、揃えたことが何の役に立つのか分からなくなり、紙を胸ポケットへしまった。

廊下へ出ると、湿った空気が顔に触れた。窓は閉まっているのに、外の冷気が壁の隙間から入り込んでいる。白鷺ハイツの建物は、夜になると内部から冷えていく。昼のあいだに吸い込んだ生活の匂いを、少しずつ吐き出すように。

私は靴音を立てないように歩いた。

一つ。

二階の換気扇が回っている。

二つ。

階段の踊り場で、古い金属が震えている。

三つ目の音は、三階へ上がりきる前に消えた。

301号室の前だけ、空気が乾いていた。

廊下全体には湿気がある。壁紙の継ぎ目から古い糊の匂いがし、手すりに触れると、指先へ薄い水気が移る。それなのに、301号室の前へ立つと、鼻の奥がひりついた。乾いた紙を何枚もめくったときのような、粉っぽい匂いがした。

扉は閉まっていた。

鍵穴の周りには、新しく交換された金属の縁がある。周囲の塗装が古いぶん、その部分だけが妙に明るい。黒いテープで塞がれた郵便受けは、投函口の内側から何かを詰め込まれたように膨らんでいた。テープの表面には、指で押さえた細かな凹みが残っている。

急いで塞いだのではない。

塞いだあと、開かないことを確かめるために、何度も押さえた跡だった。

床には浅い線があった。家具の脚を引きずった跡だろう。線は扉の前で途切れ、そこから部屋の奥へ向かって伸びている。さらにその上に、白い剥がし跡が重なっていた。部屋番号の札か、掲示物の切れ端か、何かを貼って剥がした跡。

私はしゃがみ込んだ。

以前なら、白い繊維に指を近づけるだけでやめていただろう。けれど今夜は、胸ポケットの紙が皮膚に触れるたび、黙ったままではいられない気持ちが強くなった。

指先で床をなぞる。

乾いていた。

廊下の床は湿気を含んでざらついているのに、301号室の前だけ、粉を撒いたようにさらさらしている。指についた白いものを照明へかざすと、細かな繊維と糊のかたまりが混じっていた。

私は手を拭わず、そのまま扉を見上げた。

黒田は、ここで暮らしていた。

夜になるとテレビをつけ、しばらくして換気扇を回した。椅子を引き、机の端を揃え、回覧板の控えを複写した。誰も気に留めない紙の変化を拾い、誰にも頼まれていない記録を残した。

黒田は怒鳴らなかった。

残す。貼る。写す。

消される前に、せめて形だけでも残す。

私はそうやって、黒田のことを理解しようとしていた。けれど、私が知っているのは、彼が残した紙と、壁越しに聞いた音だけだった。どんな食事をしていたのか、誰に電話をかけていたのか、夜中に眠れず何を考えていたのか、何一つ知らない。

隣に住んでいたのに、私は彼の生活を見ていなかった。

見ないことを、思いやりだと思っていた。

扉の隙間に目を落とした。

下端のゴムが、数ミリ浮いている。

風のせいではない。扉の内側から何かを運び出すとき、家具か箱が当たったのだろう。黒田がいなくなったあと、部屋の中へ入った人間がいる。家具を動かし、郵便受けを塞ぎ、鍵を替え、部屋番号を剥がした人間が。

私はポケットから灰色の封筒を出した。

便箋には、短い一文しかない。

部屋の中に入るな。

黒田が私を守ろうとしたのか、それとも、部屋の中に残されたものを守ろうとしたのか、まだ分からない。

封筒の裏に、薄い赤い跡がある。

藤崎の台帳に押された印影と似ていた。円の左下が欠け、朱肉の濃淡が一方へ流れている。黒田が封筒を管理人室の台帳へ重ねたのか。あるいは、誰かが台帳の上で封をしたのか。

私は懐中電灯を取り出し、扉の周囲を照らした。

新しい鍵穴。

白い糊。

黒いテープ。

床の引きずり跡。

それぞれは別の痕跡に見える。けれど、どれも同じ方向を向いていた。生活の中身を片づけるのではなく、生活があったという輪郭を消す方向へ。

そのとき、扉の内側で、かすかな音がした。

紙が擦れたような音だった。

私は息を止めた。

音は一度だけだった。続けて誰かが歩く気配も、家具が軋む音もない。耳を澄ますと、壁の向こうから換気扇の低い唸りが聞こえた。301号室のものではない。隣の部屋か、二階か、建物の別の場所から回ってきた音だろう。

それでも、私は扉の取っ手へ手を伸ばした。

触れた金属は冷たかった。

新しい鍵穴は閉じている。だが、取っ手をわずかに下げると、扉が数ミリだけ動いた。

私は手を離した。

鍵がかかっていない。

誰かが施錠し忘れたのか。あるいは、施錠したように見せるため、鍵穴だけを交換して扉そのものは閉めただけなのか。どちらにしても、部屋の中へ入れる状態が残っていることが、ひどく不自然だった。

私は封筒を握った。

部屋の中に入るな。

警告は明確だった。なのに、扉は私の前で開く。

開けられるものを開けないことが、いつも正しいとは限らない。以前の部屋で、私はそうやって電話をかけなかった。隣人の異変を、聞き間違いにした。その結果、空室になった部屋の前で、何も知らない顔をして暮らし続けた。

今度も同じことをするのか。

私は取っ手を下げ、扉をほんの少しだけ開いた。

室内から、乾いた空気が流れてきた。

生活の匂いがしなかった。黒田の部屋には、いつも紙とインスタント食品と、古い布の匂いが混じっていた。けれど今は、埃を払ったあとの木材の匂いと、洗剤の薄い臭気しかない。部屋を空にしたというより、部屋の記憶を洗い流したようだった。

暗がりの先に、窓だけが白く見えた。

私は敷居をまたがなかった。

片足を廊下に残したまま、懐中電灯を室内へ向ける。床には何もない。壁際に、家具を置いていた跡だけが四角く残っている。畳の一部は色が違い、棚を動かした場所だけ、古い日焼けが線になっていた。

部屋の奥に、引き戸がある。

黒田の机が置かれていた場所だろうか。引き戸の表面にも埃はなかった。誰かが触った部分だけ、周囲より白く浮いている。

私は、入るなという言葉を思い出しながら、腕だけを伸ばした。

指先が引き戸の取っ手に届いた。

ゆっくり引く。

戸は音を立てずに動いた。

裏側の隙間から、細い紙が落ちた。

床へ落ちた紙は、乾いた音を立てた。

私は反射的に手を伸ばしたが、途中で止めた。紙を拾うことは、部屋へ入ることと同じではない。それでも、手を伸ばした時点で、私はもう外側にいる人間ではなかった。

廊下の換気扇が低く唸った。

一つ。

二つ。

その間に、遠くの幹線道路を大型車が走り、床がかすかに震えた。

私は紙を拾った。

細長いメモだった。二つ折りにされている。折り目は二度ついていた。黒田が紙を机の端に合わせるときに見せた、あの折り方と同じだった。

表には、黒田の字で一行だけ書かれていた。

久米原静。

その下に、数字が並んでいる。

三階東側・旧管理資料・保管番号八一七。

私は数字を何度も見直した。

八一七。藤崎が見せた事故記録簿の欄外に押されていた管理番号と、最初の二桁が一致している。偶然かもしれない。黒田が別の資料を指しているだけかもしれない。

けれど、久米原静という名前がここにある。

藤崎が口にするのを避けた名前。事故記録簿の白い欄の周囲に残っていた、細い写し跡。立ち退き資料の紙面から一度消され、再び現れた部屋番号。

私はメモの裏を返した。

何もない。

だが、紙の下端に赤い色がごく薄く付着していた。灰色の封筒に残った朱肉と同じ、左下の欠けた印影の一部だった。

その瞬間、手紙の意味が変わった。

黒田は私に301号室へ入るなと言ったのではない。

301号室へ入った人間が、次に何をされるかを知っていたのだ。

そして、私が部屋へ入ることを予想したうえで、紙を残していた。

私は敷居から退いた。

室内を見回す。空になった床。家具の跡。埃のない引き戸。生活を消した人間は、何かを持ち去った。だが、すべてを持ち去ったわけではない。黒田は、見つけられる場所に紙を置いた。けれど、見つけた人間が勝手に奥へ進まないよう、手紙で止めた。

警告は、拒絶ではなかった。

私を部屋の中へ誘うための言葉でもなかった。

次に消される側へ向けた、最短の経路だった。

私はメモを封筒へ入れず、胸ポケットの事故記録簿の複写と重ねた。紙の端が擦れ合い、小さな音を立てる。その音が、隣室から届いた声のように聞こえた。

廊下へ出て、扉を閉める。

閉まる直前、部屋の奥に何か白いものが見えた。壁に貼られた紙の跡か、窓から差した光か、確かめる前に扉が閉じた。

私は301号室の前に立ったまま、鍵穴を見つめた。

久米原静。

保管番号八一七。

その二つを、メモ帳へ書き写す。

日付より先に、部屋番号を書いた。

301

302

それから、黒田宗一。

文字を書き終えると、指先がわずかに震えていることに気づいた。怖いという言葉では足りなかった。怖ければ逃げればいい。けれど今感じているのは、逃げる場所そのものが、すでに誰かの手で整理されているような感覚だった。

扉の向こうには、黒田はいない。

それでも、彼が残した手順だけがある。

紙を折る順番。印を押す位置。名前を隠す場所。空欄の残し方。

人がいなくなったあとも、手つきは消えない。

私は灰色の封筒を指でなぞった。柔らかくなった紙が、指の体温を吸い取っていく。

301号室から届いたのは、助けの呼び声ではなかった。

黒田はもう、自分が助かることを前提にしていなかったのだと思う。

彼が最後に望んだのは、誰かが自分を見つけることではなく、自分のあとに同じ場所へ立つ人間が、何も知らないまま扉を開けないことだった。

私はその願いを、半分だけ破った。

部屋の中へ入りはしなかった。

けれど、紙を拾い、名前を読んだ。

遠くで換気扇が鳴った。

一つ。

二つ。

三つ目の音は、最後まで来なかった。

白鷺ハイツの廊下は、何事もなかったように冷えていた。塞がれた郵便受けは黒い口を閉じ、白い剥がし跡は床の上で乾いている。

私は301号室から離れた。

背中を向けても、扉の向こうに残った乾いた空気が、薄い布のように追ってきた。

その夜、隣室から届いた声は、もう聞き間違いではなかった。

ただし、その声を聞いたことを記録する人間は、まだ私しかいなかった。

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