6話 再開発説明会

再開発説明会の日、私は仕事を休まなかった。

休めなかった、というほうが近い。会社へ行けば、決められた時刻に電車へ乗り、決められた席で端末を開き、決められた数字を表へ移す。そこでは、誰かの名前が抜けていても、行を詰めれば済む。白鷺ハイツの空欄を考えずにいられる。

けれど、説明会は午後七時からだった。

定時を過ぎて駅を出ると、空はすでに暗くなっていた。再開発区域の仮囲いに沿って歩く。囲いには新しい街の完成予想図が貼られていた。ガラス張りの建物、広い歩道、植えられたばかりの木々。図の中には、白鷺ハイツの姿はなかった。

足元に、工事用の細かな砂が浮いていた。靴底で踏むたび、乾いた音がした。風が吹くと、囲いの継ぎ目が低く震える。まだ壊されていない街が、壊されたあとの顔をしている。

白鷺ハイツへ戻ると、集会室の前に住人が集まっていた。

誰も話していないわけではない。小さな声で、家賃のことや移転先のことを口にしている。けれど、会話はすぐに途切れた。私が近づくと、声の端が床へ落ちる。301号室の名前を口にした人はいなかった。

集会室の扉を開けると、蛍光灯の白い光が目に入った。

机は五列に並べられていた。椅子の背が同じ方向を向き、机の上には透明なファイルとボールペンが一組ずつ置かれている。空調は動いていたが、部屋の隅には湿った壁の匂いが残っていた。窓の外から、幹線道路を走る車の音が低く流れ込んでくる。

私は後ろの壁際に座った。

前方には城戸誠司が立っていた。濃紺のスーツに、折り目のない白いシャツ。会議を始める前に、彼は資料の角を一度だけ揃え、腕時計を見た。それから、集まった住人へ丁寧に頭を下げた。

「本日はお時間をいただき、ありがとうございます。すでにご案内しておりますとおり、本日は白鷺ハイツを含む周辺区域の再整備計画について、今後の工程と、各住戸に関わる手続きの流れをご説明いたします」

声は静かだった。聞き取りやすく、語尾も乱れない。

城戸はスクリーンへ図面を映した。白鷺ハイツを含む区画が、薄い青色で塗られている。建物の位置は四角い枠で示され、住戸は番号に置き換えられていた。

「まず、全体工程です。現在は事前調査の段階にあり、次に個別面談、移転条件の確認、契約手続きへ移行します。皆さまの生活への影響をできるかぎり抑えながら、段階的に進めてまいります」

「できるかぎりって、いつまで住めるんですか」

前列から声が上がった。

城戸はすぐに答えなかった。数秒だけ沈黙し、相手の焦りが部屋全体へ広がるのを待ったように見えた。

「現時点で、正確な退去時期を一律に申し上げることはできません。建物の状態、個別の契約状況、移転先の確保など、複数の要素を確認する必要があるためです。ただし、計画全体としては、来年度上期の解体着手を目標としております」

「来年度って、半年もないじゃないですか」

「目標でございます。確定ではありません」

「でも、もう解体の話をしている」

「解体を前提とした調査を進めている、という段階です。順番がございますので、皆さまに不利益が生じないよう、必要な手続きは省略いたしません」

城戸の言葉は、反対する余地を残しながら、反対する理由だけを細くしていった。誰かが怒鳴れば、感情的だと見なされる。黙れば、理解したと受け取られる。その中間に立つことを、彼は仕事として身につけているらしかった。

別の住人が手を挙げた。

「補償金の額は、まだ決まっていないんですか」

「建物の所有形態や契約内容によって異なりますので、全体説明の場で一律の金額をお示しすることはできません。後日、個別にご案内いたします」

「個別って、隣の人と話せないじゃないですか。みんな条件が違うと言われたら、比べようがない」

城戸は微笑みを崩さなかった。

「個別事情を尊重するための対応でございます。ほかの方の契約内容を、こちらからお伝えすることはできません」

「尊重じゃなくて、ばらばらにするんでしょう」

その言葉のあと、集会室が静かになった。

私は城戸の手元を見た。彼の指が、資料の端をゆっくり撫でている。紙に折れ目がないか確かめるような動きだった。

「皆さまのご不安は理解しております」

城戸は言った。

「ただ、今回の計画は、個々の感情を無視して進めるものではありません。生活への影響を一つずつ確認し、条件を整理し、合意形成を進めるものです。個別面談は、住戸ごとの事情を丁寧に伺うために必要な手続きです。全員が同じ条件であることが公平なのではなく、それぞれの事情に応じて適切に調整されることが公平だと、弊社では考えております」

言葉だけを聞けば、誠実だった。

けれど、「住戸ごとの事情」という言い方が、私には引っかかった。人ではなく、部屋番号に事情がある。そういう順序で話が進んでいる。

私は配布された資料を開いた。

表紙には「白鷺ハイツ再整備計画 住民説明資料」とある。紙は厚く、表面は滑らかだった。ページをめくると、住戸番号の一覧が載っている。

一〇一、一〇二、一〇三。

二〇一、二〇二、二〇三。

三〇一、三〇二、三〇三。

そこまで目を追ったとき、紙の白さが一箇所だけ違っていることに気づいた。

三〇一の行の周囲だけ、わずかに盛り上がっている。

私は指の腹で触れた。紙の表面に、薄い段差があった。元の印字を削り、その上から別の文字を出力したような段差だ。三〇一の数字そのものは見える。けれど、数字の下には、別の数字を隠すために削った跡が残っている。

私はページを裏返した。

裏面の光沢が、一部分だけ乱れていた。何かを擦ったあとに、上から印刷したのだろう。三〇一は、最初からここにあったのではない。いったん消され、別の位置へ戻された。

隣の三〇二の行にも、同じような跡がある。ただし、こちらは三〇一ほど深くない。

私はメモ帳を開いた。

日付より先に、部屋番号を書く。

302

その下に、301

数字の下へ、何度も線を引いた。

城戸がスクリーンを切り替えた。移転先候補の地図が映る。駅から徒歩十五分の新築集合住宅。間取り図と家賃の比較表が並び、住戸ごとの面積が数字で示されている。

「現在のお住まいと同等以上の居住性を確保できるよう、候補を選定しております。もちろん、通勤や通学、介護などの個別事情についても、面談の際に確認いたします」

「黒田さんの分はどうするんですか」

誰かが言った。

声は小さかった。けれど、集会室の全員に届いた。

城戸の目が、資料から離れた。

「黒田さん、というのは」

301号室の黒田さんです。いなくなったままなのに、立ち退きの話だけ進めるんですか」

城戸は、すぐには答えなかった。数秒の沈黙のあと、ゆっくりと資料を閉じた。

「黒田様については、現在、契約上の確認を進めております。ご本人の所在が確認できない状態で、弊社から個別の事情を申し上げることは控えさせていただきます」

「所在が確認できないって、転居したんですか」

「その点も含め、確認中です」

「部屋は空になっていて、鍵も交換されている。誰が交換したんですか」

「管理上の措置については、所有者側へご確認ください」

「再開発会社は関係ないんですか」

「現時点では、弊社が黒田様の住戸に立ち入った事実はございません」

立ち入ったとは言っていない。

私はその言葉をメモした。

城戸は、質問を避けるときほど正確な言葉を選んだ。失踪とは言わない。所在が確認できないと言う。消えたとは言わない。契約上の確認と言う。そうすれば、何も断定せずに、部屋だけを次の工程へ移せる。

「黒田さんは、立ち退きに反対していました」

私は口を開いた。

声が集会室の中央へ出るまでに、少し時間がかかった。何人かが振り返った。大勢の前で話すことは苦手だった。喉が乾き、舌の裏に紙のようなざらつきが残った。

「回覧板や掲示物の変化を記録していました。資料の部屋番号も、最初のものから変わっています」

私は資料を持ち上げた。

「三〇一号室の行に、削った跡があります。最初からここに印刷されていたものではない」

城戸は私の手元を見た。

「佐伯様、資料の印刷状態については、こちらで確認いたします。ただ、紙面の加工を前提にお話しされますと、誤解を招く可能性があります」

「誤解ではありません。触れば分かります」

「紙の状態には、印刷機や保管環境による差もございます。現在の資料が正式版であることに変わりはありません」

「正式版なら、前の版はどこへ行ったんですか」

室内の空気が止まった。

城戸の笑顔は変わらなかったが、目の奥からだけ、温度が抜けたように見えた。

「旧版の管理については、社内規定に基づいて処理しております」

「処理というのは、捨てたということですか」

「必要な記録は保管しております」

「必要かどうかを決めるのは、誰ですか」

城戸は資料を見下ろした。

「プロジェクトの進行に必要なものを、所定の手続きで管理しております」

「人がいなくなったことも、プロジェクトの進行に必要なものとして管理するんですか」

言ったあと、自分の心臓の音が耳の内側で大きくなった。

城戸は返事を急がなかった。彼は相手の言葉を受け止めるふりをしながら、どの部分を記録に残し、どの部分を外へ落とすか選んでいるようだった。

「人を数字として扱っているわけではありません」

「でも、あなたは部屋番号で話している」

「説明会の資料が住戸番号を基準にしているためです。契約や建物の管理は、そうした単位で行われます」

「黒田さんは三〇一号室ではありません。黒田宗一という人間です」

「承知しております」

「承知しているなら、どうして名前を出さないんですか」

城戸の指が、資料の端を撫でた。

「個人情報への配慮です」

「本人がいないから、名前を出せない?」

「ご本人の事情が確認できていない段階で、第三者が公の場で詳細を語ることは適切ではありません」

「では、確認する気はあるんですか」

「必要な確認は進めております」

「その確認の中に、部屋の中を見ることは含まれていますか」

「それは所有者と管理者の判断になります」

「郵便受けを塞ぐことは、確認の前にできるんですね」

城戸は初めて、ほんの少しだけ息を詰めた。

すぐに表情を戻したが、資料の端を撫でる指が止まった。その一瞬だけで、私の背中に冷たい汗が広がった。

「佐伯様。繰り返しになりますが、弊社が郵便受けを塞いだという事実は確認されておりません。根拠のない推測を、説明会の場で広げることは、ほかの住民の皆さまの不安をいたずらに煽る結果になります」

「不安は、言葉にしなければ存在しないんですか」

「そうは申し上げておりません」

「誰も黒田さんがいなくなったことを説明していない。なのに、部屋番号だけは資料に残っている。残っているように見せて、実際には一度消している。これが不安でなくて何ですか」

城戸は私を見た。

「不安は、事実と区別して扱う必要があります」

「事実は、誰かが区別してくれるまで待っているんですか」

私の声が少し震えた。

城戸の声は震えなかった。

「事実確認には時間がかかります。すぐに結論を出すことが、必ずしも誠実とは限りません。誤った情報を広げれば、住民の皆さまの生活に、より大きな混乱を招きます。私は、その混乱を避ける責任があります」

「混乱を避けるために、名前を消す」

「名前を消したという前提には同意いたしかねます」

「前提ではありません。紙に跡が残っている」

「紙の跡だけで、誰かの意図を断定することはできません」

「では、誰が確認するんですか」

「必要な部署が確認します」

「その部署に、黒田さんのことを直接知っている人はいますか」

城戸は沈黙した。

集会室の蛍光灯が、かすかに明滅した。誰かが椅子を動かし、脚が床を擦る。窓の外で大型車が通り、壁が低く震えた。

城戸はその振動が収まるのを待ってから、資料を閉じた。

「この場では、再開発計画に関する説明を優先させていただきます。個別の案件については、後日、担当窓口へお問い合わせください」

個別の案件。

黒田宗一の失踪が、案件になった。

その言葉が、集会室の白い光の中で平らに置かれた。

城戸の隣に座っていた女性が、説明資料を集め始めた。紙の角を一枚ずつ揃え、クリップで留めていく。城戸もそれを手伝った。二人の手が同じ速度で動く。そこには、話し合いが終わったあとに残るものを、話し合いの前と同じ形へ戻す作業があった。

そのとき、後方の扉が開いた。

高瀬怜が入ってきた。手には黒いファイルと、折り目のない出席簿がある。彼は集会室を見渡し、城戸に軽く会釈した。それから私の隣の空いた椅子へ座った。

「遅れて申し訳ありません。少し確認がありまして」

城戸が穏やかに応じた。

「高瀬様、お越しいただきありがとうございます。ちょうど質疑に入ったところです」

「黒田さんの件について、少しお話があったようですが」

「住民の方からご不安の声がありましたので、必要な確認を進めている旨をお伝えしたところです」

高瀬は出席簿を開いた。住人の名前ではなく、部屋番号の欄を見ている。

「警察としても、現在のところ事件性を示す情報は確認できておりません。失踪の相談については受理しておりますが、本人が自発的に移動した可能性も含めて確認中です」

「部屋が空になって、鍵が交換され、郵便受けが塞がれているのにですか」

私は言った。

高瀬は私のほうを向いた。

「その点については、管理上の措置である可能性もあります。事実関係が整理されるまでは、特定の関係を結びつけないほうがよいかと思います」

「誰が整理するんですか」

「関係者から確認を取り、記録を照合したうえで判断します」

「その記録が抜けている」

「抜けているというのは、どの記録ですか」

私は答えようとして、言葉を探した。事故記録簿の白い欄。回覧板の空欄。資料の削られた三〇一。けれど、それらを一度に話そうとすると、すべてが私の思い込みに見える気がした。

城戸が静かに口を挟んだ。

「佐伯様は、管理記録と配布資料の状態について、いくつかご懸念をお持ちのようです。弊社としては、必要な資料は適切に管理しておりますし、古い資料については、更新に伴って差し替えが生じることもございます」

「更新ではなく、削った跡があります」

「紙の状態については、確認させていただきます」

「確認する気があるなら、今ここで資料を預けます」

私は手元の資料を城戸へ差し出した。

城戸は受け取らなかった。

「その資料は、皆さまへ配布したものです。佐伯様のお手元で保管いただいて構いません」

「私が持っていても、正式な記録にはならない」

「正式な記録にする必要がある場合は、所定の窓口へご提出ください」

「窓口へ出せば、今度は別の資料に差し替えられる」

私の言葉に、何人かの住人が顔を上げた。

城戸は笑顔を保ったまま、声を少し低くした。

「差し替えという表現は適切ではありません。更新です」

「黒田さんの部屋番号も、更新されたんですか」

「三〇一号室は、現在も資料に記載されています」

「一度消されてから?」

「消されたという事実は確認されておりません」

「確認されていないことを、なかったことにしないでください」

声が大きくなった。

集会室の空気が硬くなる。自分の発言が部屋の中で浮いているのが分かった。私は大勢の前で怒るのが苦手だった。自分のために声を張ることもできない。なのに、黒田の部屋番号をめぐる言葉だけは、喉の奥から勝手に出てきた。

高瀬がゆっくり手帳を開いた。

「佐伯さん、少し落ち着いてください」

「落ち着けば、何が残るんですか」

「今のお話は、こちらで記録します」

「記録するだけですか」

「確認の材料にします」

「確認した結果、また『事件性は薄い』と言うんでしょう」

高瀬のペンが止まった。

「事件性が薄いというのは、黒田さんの不在が重要でないという意味ではありません。私たちは、可能性を一つずつ確認しています。早い段階で一つの見方に寄せれば、別の可能性を失います」

「可能性を失わないために、事実を薄くする」

「そういう言い方は、正確ではありません」

「正確さって、誰も傷つけない言葉に置き換えることですか」

高瀬は答えなかった。

彼の出席簿の角が、指先でぴたりと揃えられている。紙の位置を整えることで、返すべき言葉を探しているようだった。

城戸が立ち上がった。

「皆さま、本日は予定していた説明事項が残っております。個別のお申し出については、説明会終了後に担当者が承ります。ここで結論を急ぐことは、皆さまにとっても望ましいことではないかと存じます」

結論を急ぐ。

私は、結論を求めているのではなかった。誰かがいなくなったという事実を、いなくなったまま置かないでほしかった。けれど、それを説明する言葉を私は持っていなかった。

説明会は、その後も続いた。

移転先の設備。契約の期限。補償金の算定方法。ひとつひとつの項目が、白い紙の上で整然と並べられていく。住人たちは時折質問したが、質問の多くは自分の生活に直接関わるものだった。家賃はいくらになるのか。駅まで何分か。ペットは飼えるのか。高齢の親を連れていけるのか。

どれも当然の質問だった。

誰かが生活を守ろうとすれば、まず自分の生活を守らなければならない。黒田の失踪を考えている私のほうが、他人の事情を無視しているのかもしれなかった。

その考えが、胸の中で重くなった。

黒田も、誰かに同じように思われていたのだろうか。自分の記録に執着する、細かくて面倒な人間。みんなが生活を守ろうとしているとき、一人だけ過去を掘り返して場を乱す人間。

それでも、部屋番号が消されている。

その事実だけは、誰の生活事情でも薄まらなかった。

説明会が終わると、城戸の前に住人が列を作った。彼は一人ずつ話を聞き、要点を端末へ入力した。名前より部屋番号を確認し、希望条件を数字へ置き換え、最後に「こちらで整理してご連絡します」と言う。

その言葉を聞くたび、住人の表情が少しずつ緩んだ。

整理してくれる。

自分で抱えなくていい。

そう思えることが、安心なのだろう。

私は集会室の隅で、手元の資料を見ていた。三〇一の行は、何事もなかったように整っている。紙の表面を撫でると、削られた段差が指に残った。

高瀬が近づいてきた。

「佐伯さん」

「はい」

「先ほどの資料ですが、写真を撮っておきましょうか」

意外な言葉だった。

「高瀬さんが?」

「記録として、こちらでも確認します。紙面に加工の跡があるということでしたら、現物をお預かりするより、まず状態を残したほうがよいかもしれません」

「事件性が薄いのに?」

「薄いから確認しない、ということではありません」

高瀬はそう言ってから、少しだけ目を逸らした。

「ただ、確認した結果が、佐伯さんの考えているものと同じになるとは限りません」

「分かっています」

「本当に?」

「分かりません。でも、分からないまま消されるのは嫌です」

高瀬はスマートフォンを取り出した。画面の明るさは低く設定されている。彼は資料の角度を変え、光が反射しない位置を探した。撮影する前に、三〇一の行を指で押さえる。

「この部分だけでいいですか」

「端も入れてください。紙の白さが違う場所と、裏側も」

高瀬は無言で撮影した。

シャッター音が、片づけの始まった集会室に小さく響いた。

私はその音を聞きながら、警察の記録もまた、別の空欄を作るのではないかと思った。撮影された画像が、どこに保存され、誰に見られ、どの時点で必要でないものになるのか。高瀬は信じられる人間なのか。それとも、善意のまま、空白を次の場所へ運ぶ人間なのか。

「佐伯さん」

「はい」

「黒田さんと最後に話したときのことを、もう少し詳しく教えてください」

私は回覧板のことを話した。

黒田が「見出しだけ写しておけばいい」と言ったこと。掲示板の端を押さえたこと。日付の違いを指摘したこと。彼が紙の角を揃えてから部屋へ戻ったこと。

高瀬は途中で口を挟まず、手帳へ書き込んだ。

「そのとき、黒田さんは何か言いませんでしたか」

「ほかには、何も」

「視線や手の動きは」

「掲示板を見ていました。貼り替えられた紙を」

高瀬は一度、ペンを止めた。

「掲示板の紙が貼り替えられたことを、黒田さんは知っていた?」

「そうだと思います」

「黒田さんがそう言ったわけではない」

「はい。でも、見ていました」

「佐伯さんは、見たことを事実として記録したいんですね」

「見たことを、感じたことに変えたくない」

高瀬は手帳を閉じた。

「分かりました。今日のところは、これで」

「高瀬さん」

「はい」

「三〇一号室の資料が、一度消されていたことを確認してください」

「確認します」

「城戸さんにも」

「確認先は分けて記録します」

「それだけですか」

高瀬は、集会室の机を見た。資料を集め終えた城戸が、最後の一枚を端に揃えている。紙の角が、蛍光灯の光の中で白く光った。

「それ以上のことは、確認してからです」

穏やかな声だった。

私はその穏やかさに、もう以前ほど押し戻されなかった。確認という言葉が、何かを始めるためではなく、何かを始めないために使われることを知ってしまったからだ。

住人たちが帰り始めた。

椅子を引く音。扉が開く音。階段へ向かう足音。集会室は少しずつ空になり、白い蛍光灯だけが机の上を照らし続けた。

私は最後まで残った資料を見た。

三〇一号室の数字の下に、黒田の名前を小さく書き込もうとして、ペンを止めた。

ここへ名前を書くのは、記録を戻すことなのか。新しい記録を勝手に作ることなのか。

迷ったあと、私は資料には書かなかった。

代わりに、自分のメモ帳を開いた。

302

301

黒田宗一。

その下に、再開発説明会、午後七時、と書いた。

さらに、三〇一の行は一度消され、別の位置に印刷し直されている、と記した。

集会室を出ると、廊下は冷えていた。窓の外を走る車の音が、遠いところで絶えず続いている。換気扇は一つ、二つと鳴り、三つ目の音だけが長く遅れた。

私は三階へ上がった。

301号室の前には、黒いテープで塞がれた郵便受けが残っている。誰かが貼り、誰かが確認し、誰かが記録しないことにしたもの。そのすべてが、何事もなかったように扉へ貼りついていた。

私はメモ帳を閉じた。

集会室では、資料の角がすべて揃っていた。

けれど私の手元の紙だけは、部屋番号の下に引いた線が何度も重なり、黒く濃くなっていた。そこだけが、整えられることを拒んでいるようだった。

301号室の郵便受けの奥で、紙が擦れる音がした。

私は足を止めた。

手紙は、胸ポケットの中にある。

部屋の中に入るな。

いないはずの隣人の声が、今度は集会室で交わされた言葉の隙間から、ゆっくりと戻ってきた。

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