第5話 回覧板の空欄

管理人室を出たあと、私はまっすぐには自室へ戻らなかった。
三階の廊下を一度だけ余分に往復した。理由はなかった。ただ、藤崎から渡された事故記録簿の白い欄が、まだ目の奥に残っていて、その残像を歩くことで薄めようとしていたのかもしれない。廊下の照明は半分が切れており、点いている蛍光灯だけが、床にまっすぐな光の帯を作っている。その帯を踏まないように、私は無意識に歩幅を調整していた。踏めば何かを起こしてしまう気がした。子供のころ、割れ目を踏むと不幸になるという遊びをしたことがある。私はもう子供ではなかったが、この建物にいるかぎり、そういう幼稚な用心が抜けなかった。
302号室に戻ると、机の上には昨夜のまま、回覧板の控えと灰色の封筒と、掲示板から拾った紙片が並んでいた。私は上着を脱がずに椅子へ腰を下ろし、控えをもう一度広げた。
黒田の字は、変わらず几帳面だった。日付、部屋番号、回覧の順番。三つの情報が、いつも同じ位置に、同じ大きさで書かれている。まるで定規を使ったように、行の高さも揃っていた。だが今夜は、以前より注意深くページを追った。前回は、抜けた部屋番号の位置だけを見ていた。今夜は、その抜けの「周り」を見た。
ある回に限って、印の押し方が浅い。別の回では、日付の数字だけが、他の文字より濃い筆圧で書かれている。まるで、その日だけ何かに苛立っていたか、あるいは何かを急いでいたかのようだった。私はそのページを蛍光灯の下に持っていき、光を斜めから当てた。紙の繊維に沿って、文字の下にもう一段、薄い線があるのが見えた。
一度書いて、消して、また書いた跡だ。
黒田は、消すという行為に慣れていない人間だった。彼の記録は、いつも一度で決まっていた。だからこそ、この一枚だけの迷いが、私には妙に生々しく見えた。
私は控えをめくり続けた。ある回の欄外に、他とは違う筆跡で「宅配」という文字が小さく書かれていた。黒田の字ではない。もっと丸みのある、女性らしい書き方だった。誰かがこの控えに、後から一言だけ書き足したのだろうか。それとも、黒田が誰かの字を、見たままに写しただけなのか。
私は宅配ボックスのことを思い出した。
三階から一階の集合ポストの脇まで下りると、宅配ボックスの列が並んでいる。四段のうち、上から二段目の左端に、黄色い未回収の紙が刺さっているのが、廊下の照明越しに見えた。
近づくと、紙は「301」という数字の下に、黒田の名前が印字されていた。配達の日付は先週の頭。もう十日近く、誰もこの箱を開けていない。
紙は少し湿って、端が波打っていた。この建物の湿気を、荷物までが吸い込んでいるらしい。私は紙に手を伸ばしかけて、また止めた。触れば、確認したことになる。確認すれば、次は誰かに伝えなければならなくなる。伝える相手が、藤崎なのか、高瀬なのか、それとも誰もいないのか、私にはまだ分からなかった。
けれど、指先はもう紙の端に触れていた。
湿った紙の感触は、思ったよりも柔らかかった。角が丸くふやけて、印字された文字の輪郭がにじんでいる。荷物の中身は分からない。誰が送ったのかも分からない。ただ、受け取るはずだった人間がいないという事実だけが、そこに静かに置かれていた。
私はその場にしばらく立っていた。
宅配ボックスの並びの向こうに、掲示板が見える。夜の廊下灯に照らされて、白い剥がし跡がぼんやりと浮いていた。何度見ても、その白さは慣れることがない。まるで、貼られていたものの重さだけが、そこに残っているようだった。
回覧板の空欄、未回収の荷物、掲示板の剥がし跡。
三つとも、同じことを言っている気がした。
消えたものが、自然に消えたのではない。消えたあとを、誰かが整えたのだ。
雑に破られた紙ではなく、几帳面に剥がされた紙。急いで塞がれた郵便受けではなく、丁寧に塞がれた郵便受け。この建物の「消し方」には、いつも手間がかかっている。手間をかけるということは、そこに誰かの意志があるということだ。意志のない消失なら、こんなに整っていない。
私は階段を上がりながら、換気扇の音を数えた。
一つ。
二階の奥、誰かの部屋の換気扇が低く回っている。
二つ。
三階へ上がる途中、踊り場のあたりでもう一つ。
三つ目を数える前に、私は三階の廊下に立っていた。
夜の廊下は、昼間よりもさらに湿っていた。壁紙の継ぎ目から、古い水の匂いが漂ってくる。窓の外では、幹線道路を走る車の音が絶え間なく続き、時折、タイヤが水気を含んだ路面を踏むような、鈍い音が混じった。雨は降っていないはずなのに、その音はいつも雨上がりのように聞こえる。
301号室の前に立つと、そこだけ空気の質が違うのが分かった。廊下全体の湿り気が、その一角だけ途切れている。まるで、そこだけ乾いた紙で覆われているようだった。
私は指先を鍵穴の縁に触れさせた。金属は冷たかった。新しく交換されたばかりの鍵穴は、周囲の古い金属部分よりも角が立っていて、触れると指の腹に細い痛みが残った。この痛みだけが、この部屋に起きたことの中で、唯一はっきりと感じられるものだった。
耳を澄ませても、何も聞こえない。
かつて、この壁の向こうからは、毎晩ほとんど同じ時刻にテレビの音がした。男の話し声、拍手のような効果音。時々、咳。椅子を引く鈍い音。それから、規則正しく回る換気扇の、あの半音高い唸り。
今は、何もない。
音がないというのは、静かということとは違う。静かな部屋には、まだ空気の動きがある。窓の隙間から入る風、家具の軋み、時計の音。だが301号室には、動くものが何もなかった。空気そのものが、そこで止まっているようだった。
私はその場に立ったまま、自分の呼吸の音を聞いた。
隣に住んでいた。壁一枚を隔てて、同じ時間を生きていた。なのに私は、黒田の顔をすぐには思い出せない。輪郭は覚えている。声も、たぶん覚えている。けれど、彼がどんな目をしてこちらを見ていたのか、どんな表情で「日付が違います」と言ったのか、記憶の中でそこだけが薄い。
見ていなかったのだと思う。
見ていたつもりで、実際には見ていなかった。回覧板を受け取るときも、掲示板の前で会釈するときも、私は黒田という人間の輪郭だけをなぞって、その内側にあるものを見ようとはしなかった。彼が何を几帳面に書き留め、何に苛立ち、何を恐れていたのか。知ろうとすれば知れたはずのことを、私は「関わらないこと」の名目で、ずっと後回しにしてきた。
藤崎の言葉が、耳の奥で繰り返された。
――近くにいる人間ほど、近くにいることを利用しない。
その通りだった。私は近くにいながら、その近さを一度も使わなかった。だから黒田は、私の郵便受けを選んだ。使われなかった距離こそが、彼にとって最も安全な経路だったのだ。
私はメモ帳を取り出し、宅配ボックスの未回収の日付と、回覧板の控えに残っていた別筆の「宅配」という一言を書き足した。それから、少し考えて、もう一行を加えた。
――黒田さんは、消される前に、消される順番まで知っていたのかもしれない。
書いてから、その一文が自分の推測なのか、それとも黒田の記録そのものが語っていたことなのか、区別がつかなくなった。記録を読み込むほど、私は黒田の思考の中に入り込み、彼の警戒を自分のものとして感じるようになっていた。それは危うい感覚だった。だが、もう引き返す気はなかった。
廊下の奥で、換気扇がまた低く回り始めた。
一つ。
二つ。
三つ目の音は、いつまでも来なかった。
301号室の前に立ち尽くしたまま、私は久米原静という名前を、まだ声に出せずにいた。藤崎が名前を出すのを渋ったその人物が、事故記録簿の奥にどう関わっているのか、まだ確かなことは何一つ分かっていない。分かっているのは、この建物の空白がすべて同じ手つきで整えられているということだけだった。
その手つきの持ち主に、私はまだ会っていなかった。
けれど、会う日はもう遠くないという予感だけが、湿った廊下の空気の中で、静かに形を取り始めていた。
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