第2話 知らない人たち

午前七時を過ぎると、白鷺ハイツの廊下には人の動きが戻ってきた。
階段を下りる靴音。閉まりきらない扉を押す音。水道の蛇口をひねる音。どれも、昨日までと変わらないはずだった。けれど私には、建物全体が黒田の部屋を避けて動いているように感じられた。
301号室の前を通る人間は、必ず少しだけ歩幅を変えた。
露骨に避ける者はいない。扉の前で立ち止まりもしない。ただ、靴底が床を擦る時間が半拍短くなる。視線が壁へ逃げる。郵便受けを見ないようにする。その小さなずれが、私には見えた。
私は302号室の前に立ち、住人たちが階段へ向かうのを待った。
待っているという形を取ると、誰かに話しかける理由ができる。そう思っただけだった。実際には、誰にも尋ねずに済む口実を探していた。自分から声をかけるのは、扉の向こうへ手を伸ばすのと同じくらい、私には難しい。
最初に現れたのは、204号室の男だった。
名前は知らない。白鷺ハイツに十年近く住んでいるらしいが、私は彼を部屋番号でしか覚えていなかった。灰色のジャケットを着て、片方の靴紐を結び直しながら階段へ向かってくる。
私は一歩だけ、廊下の中央へ出た。
男は顔を上げかけたが、私の肩越しに何かを見るふりをした。
「すみません」
声をかけると、男の指が靴紐の上で止まった。
「301号室の黒田さんですが」
「黒田さん?」
聞き返す声に、驚きはなかった。知らない名前を聞いた人の反応ではなく、知っている名前を聞かされた人の反応だった。
「昨日から、部屋が空になっています。郵便受けも塞がれていて、鍵穴も交換されている」
男は結びかけの靴紐を見たまま、ゆっくりと息を吐いた。
「転居じゃないですかね」
「転居の荷物を運ぶ音は、聞きませんでしたか」
「いやあ、私は夜が早いので。九時には寝ますから」
「黒田さんが出ていくところを見た人は?」
「そこまでは、ちょっと」
「転居先を知っていますか」
「さあ。そういうのは、本人に聞かないと」
言葉は途切れずに続いた。けれど、会話は少しも前へ進まなかった。男は質問のたびに、手元の靴紐をわずかに締め直した。最後に結び目を二度押さえ、立ち上がる。
「まあ、最近は人の出入りも多いですし。いなくなる人がいても、珍しくはないでしょう」
その言い方が、気になった。
「いなくなる人、というのは」
男は初めて私を見た。目が合ったのは一秒にも満たなかった。
「いや、そういう意味じゃなくて。引っ越す人が多いってことです」
彼はそれ以上何も言わず、階段を下りていった。
その背中を見送ってから、私はメモ帳を取り出した。
302号室前。午前七時十二分。
204号室。黒田の転居を推測。転居先は知らない。
私はそこまで書いて、ペンを止めた。男が「いなくなる人」と言ったときの声を、文字にできなかった。言葉そのものではなく、言ってから急いで別の言葉に置き換えた、その間のほうが残っていた。
しばらくして、207号室の女が階段を上がってきた。
片手に買い物袋を提げている。袋の中で、ペットボトルが二本ぶつかり合っていた。彼女は私の前で足を止め、301号室へ視線を送り、それから視線を床へ落とした。
私は道を空けなかった。
「黒田さんのことを、少し聞きたいんですが」
「私、何も知らないですよ」
まだ質問を終えていないのに、彼女はそう言った。
「最近、黒田さんの部屋から音はしていましたか」
「音?」
「テレビとか、換気扇とか」
彼女は買い物袋の持ち手を、右手から左手へ持ち替えた。袋の底が膝に触れ、ペットボトルがまた小さく鳴る。
「最近は夜、静かでしたよ。前から静かな人でしたけど」
「いつからですか」
「さあ……。先週くらい?」
「黒田さんが何か困っているように見えたことは」
「困っている?」
「立ち退きのことです。反対していたと聞きました」
「聞いたんですか」
問い返した声が、少しだけ強くなった。
彼女はすぐに表情を戻した。買い物袋の中から、冷蔵庫の中身を思い浮かべているような顔を作る。
「説明会で、少し揉めていたのは見ました。でも、よくあることでしょう。立ち退きって、誰でも不安になりますから」
「黒田さんは、誰でもという感じではなかった」
「そういう人だったんじゃないですか。細かいことを気にする人」
彼女の言葉に、私は反応できなかった。
黒田は確かに細かかった。回覧板の日付が一日違っているだけで指摘したし、掲示板の紙が斜めに貼られていれば、誰も見ていない隙に端を押さえた。けれど、それを「細かい人」という言葉で片づけると、黒田が何を見ていたのかまで消えてしまう。
「黒田さんは、何か記録していませんでしたか」
聞いた瞬間、彼女の袋を持つ指が止まった。
「記録?」
「回覧板や、掲示板のことです。何か写したり、控えを取ったり」
「知りません。見たことはないです」
「見たことがない、というのは、存在を知らないという意味ですか。それとも、見たけれど覚えていないという意味ですか」
彼女は返事をしなかった。
廊下の奥で、どこかの換気扇が回り始めた。低い唸りが壁に沿って近づき、私たちの間を通り過ぎていく。彼女はその音を聞くと、わずかに肩をすくめた。
「佐伯さん」
「はい」
「こういうこと、あまり聞かないほうがいいと思います」
「どうしてですか」
「黒田さんが転居したなら、それで終わりです。何か事情があったとしても、住人が分かることではないでしょう。管理人さんや警察が確認することです」
「もう確認しています」
「なら、なおさらです」
彼女は買い物袋を抱え直した。
「ここは、みんな忙しいんです。自分の生活だけで精いっぱいで、隣の人のことまで考えていたら、何もできなくなる。黒田さんだって、誰かに助けてほしいなら、そう言えばよかったんです」
その言葉の最後だけ、乾いていた。
彼女は自分が言ったことを聞き返すように、口を閉じた。それから小さく頭を下げ、階段へ向かった。
私は呼び止めなかった。
彼女の言うことは、間違っていない。誰かに助けてほしいなら、そう言えばいい。困っているなら、声を出せばいい。私もずっと、そう思っていた。
けれど、声を出せない人間がいることを、私は今朝の手紙で知ってしまった。
九時を少し回ったころ、掲示板の前で藤崎美沙を見つけた。
彼女は管理人室から出てきたところだった。薄い灰色のカーディガンの袖をまくり、剥がれかけた掲示物の角を指先で押さえている。長年使っているらしい鍵束を、右手の中で一度鳴らした。
乾いた金属音が、廊下の壁で短く跳ねた。
「藤崎さん」
彼女は顔を上げなかった。
「301号室のことですが」
「朝からそればかりだね」
「黒田さんは、転居したんですか」
藤崎は掲示板の紙から指を離し、浮いた角をしばらく見ていた。
「さあね」
「管理人なら、分かるでしょう」
「管理人だから分かることと、管理人でも分からないことがある」
「鍵穴が交換されています。郵便受けも塞がれている。部屋番号の札まで剥がされている。それで、何も分からないんですか」
藤崎はそこで初めて私を見た。
視線は鋭かった。怒っているわけではない。私がどこまで見て、どこから見ないことにしているのかを測っているようだった。
「佐伯さん。あんた、黒田さんと親しかったかい」
「いいえ」
「話をしたことは」
「何度か」
「名前を呼んだことは」
私は答える前に一拍遅れた。
「……ありません」
藤崎は鍵束を掌で包んだ。
「それで今さら、黒田さんがどこへ行ったか知りたいのかい」
「手紙が届きました」
藤崎の指が、鍵束の一本を押さえた。
「手紙?」
「私の郵便受けに。黒田さんの字に似ていました。部屋の中に入るな、と」
掲示板の前から、古い紙の匂いがした。何枚も貼られては剥がされた紙の糊が、木の板に染み込んでいる。白い剥がし跡の下から、さらに古い白い跡が見えていた。建物が長い時間をかけて、同じ場所を何度も隠してきたようだった。
「見せな」
藤崎が言った。
私は手紙を取り出しかけて、指を止めた。
「見せてもいいんですか」
「見せる気がないなら、最初から言わなければいい」
「黒田さんが書いたものか、分かりますか」
「分かるかどうかは、見てからだよ」
私は封筒から便箋を出し、彼女へ渡した。
藤崎は紙の中央に置かれた一文を読むと、すぐには何も言わなかった。便箋を裏返し、光に透かし、封筒の糊の跡を指でなぞる。紙を扱う手つきが、私より慎重だった。
「黒田さんの字ですか」
「似ているね」
「似ているだけですか」
「字は、顔より真似しやすい」
「でも、黒田さんが書いた可能性はある」
「あるだろうね」
「部屋の中に入るなというのは、301号室に入るなという意味ですか」
藤崎は便箋を私へ返した。
「そう思うなら、そう思っておけばいい」
「あなたは意味を知っているんですか」
彼女は掲示板の端へ視線を戻した。
「知らないよ」
「知らない人の顔ではありません」
「顔で人を判断するほど、私は若くない」
「なら、何を知っているんですか」
長い沈黙があった。
廊下の窓から、白い光が差し込んでいる。朝の湿気は薄れ始めていたが、壁紙の継ぎ目にはまだ水の匂いが残っている。藤崎は剥がれた紙の端を爪で押さえたまま、低い声で言った。
「この建物じゃね、何かがなくなっても、すぐには誰も騒がない。荷物が減って、音が消えて、郵便受けが塞がって、それから名前が消える。順番にやるんだよ。そうすれば、最後に誰かが気づいても、いつからそうだったのか分からない」
「誰がやるんですか」
「誰か一人が、全部やるわけじゃない」
「でも、誰かが鍵を替えて、郵便受けを塞いで、記録を消す」
「そうだね」
「それを管理人が知らないはずはない」
藤崎は手を止めた。
「知っていても、止められないことはある」
「止めようとしたんですか」
彼女の目が、私の手元の便箋へ落ちた。
「止めるってのは、何をすることだい。大声で怒鳴ることか。警察を呼ぶことか。紙を一枚、剥がさずに残すことか。私は昔、紙を残そうとして、別の誰かが困るのを見た。記録があるせいで、住んでいる場所を追われた人もいる。記録がないせいで、何もなかったことにされた人もいる。どっちがましだったのか、今でも分からない」
「分からないまま、消す側にいたんですか」
言ってから、少し強すぎたと思った。
藤崎は怒らなかった。掲示板の白い剥がし跡を見ていた。そこには、紙を剥がすときにできた細い傷が何本も走っている。
「そう見えるだろうね」
「違うんですか」
「違わないよ。管理人は、貼る人間でもあるけど、剥がす人間でもある。住民の名前を覚える仕事だと思って始めたのに、いつの間にか部屋番号だけを覚えるようになった。番号なら、間違えても誰も傷ついた顔をしないからね」
彼女の声は淡々としていた。その淡々とした調子が、かえって長く抱えてきたものの重さを伝えていた。
「黒田さんは何を知っていたんですか」
「黒田さんは、知ろうとした」
「同じことでは?」
「違う。知っている人間は黙る理由を持つ。知ろうとする人間は、黙る理由がない」
「だから消された?」
藤崎は答えなかった。
ただ、便箋の端を見た。
「この紙、どこに入っていた」
「私の郵便受けです」
「朝、郵便受けは開いていたかい」
「投函口が少しずれていました。誰かが触った跡だと思います」
「そうかい」
「何か分かりますか」
「分からないよ」
「また、それですか」
「分からないと言えることも、管理の一つだよ。知らないふりをしている人間と、本当に知らない人間は違う。あんたは、その違いを見分けたいんだろう」
藤崎はそう言って、掲示板の脇にある小さな鍵穴へ鍵束を近づけた。
「ただし、見分けたら、もう前と同じ場所には戻れない」
鍵は差し込まれなかった。彼女は手を下ろし、私の横を通り過ぎる。
「余計なことはしないほうがいい」
「それは忠告ですか」
「建物の言葉だよ」
「建物はしゃべりません」
「しゃべるさ。住んでいた人間がいなくなったあとに、いちばんよくしゃべる」
藤崎は管理人室へ戻っていった。
残された私は、手紙を封筒へ戻した。紙の角が、最初に触れたときより柔らかくなっていた。
昼近く、高瀬怜が来た。
管理人室から出てきた藤崎と入れ替わるように、階段を上がってくる。紺色の上着に皺はなく、片手には黒いファイル、もう片方には缶コーヒーがあった。私を見ると、すぐに足を止め、穏やかに会釈した。
「佐伯さんですね。少しお時間よろしいですか」
私は302号室の前で話すことにした。
高瀬は壁際に立ち、手帳を開いた。表紙の角は擦り切れているが、中の紙はきちんと揃っていた。彼は私の名前、部屋番号、黒田と最後に会話した日時を順に尋ねた。
「最後に黒田さんと話したのは、いつですか」
「先週の回覧板です」
「内容は」
「日付が違う、と言われました」
「それだけですか」
「はい」
「黒田さんの様子は」
私は壁を見た。
「いつもと変わりませんでした」
高瀬はその言葉をそのまま書いた。
「いつもと変わらない、というのは、元気だったという意味でしょうか。それとも、普段と同じように見えたという意味でしょうか」
私は少し驚いた。聞き方だけなら、藤崎より丁寧だった。
「後者です。普段の様子を、よく知っていたわけではありません」
「そうですね」
高瀬は否定も肯定もしなかった。手帳の端を指で押さえ、私の言葉を一行に収める。
「手紙について、もう一度確認させてください。黒田さんの筆跡に似ていると思った。そういうことですね」
「似ているだけではありません。書き方に癖があります」
「癖、というのは」
「文字の最後で、ペンを離すのが遅い。線の終わりが少し濃くなる」
「黒田さんの字を、どの程度見ていましたか」
「回覧板で」
「複数回?」
「はい」
高瀬はうなずき、手帳へ書き込んだ。
「手紙の内容からすると、黒田さんが部屋の中へ入らないよう警告した可能性はあります。ただ、部屋の中というのがどこを指すかは分かりません。301号室かもしれないし、佐伯さんの部屋かもしれない。その点は、まだ判断できません」
「郵便受けが塞がれていて、鍵穴も交換されています。転居なら、あんなふうにする必要はないでしょう」
「管理会社が防犯上の措置を取った可能性はあります」
「誰が頼んだんですか」
「確認中です」
「誰に確認しているんですか」
「管理会社と、所有者側です」
「再開発会社は」
高瀬のペンが一度止まった。
「城戸さんの会社ですか」
「白鷺ハイツの再開発に関わっている会社なら、確認の対象にはなるでしょう。ただ、現時点では失踪との関連を示すものはありません」
「関連を示すものがないのは、調べていないからではないですか」
声が自分のものではないように聞こえた。
高瀬は顔を上げた。責める表情ではない。むしろ、私がどこまで踏み込んだのかを測っていた。
「佐伯さん。私は、何もないと言っているわけではありません。ただ、失踪の相談を事件として扱うには、いくつか確認が必要です。本人の意思で移動した可能性もありますし、立ち退き交渉をめぐるトラブルがあったとしても、それだけで犯罪とは限りません」
「黒田さんがいなくなったことは、犯罪でない限り重要ではないんですか」
「そういう意味ではありません」
「でも、今の話し方だと、重要でないものを順番に作っているように聞こえます」
高瀬は黙った。
手帳の上で、彼の指がペンをゆっくり回した。回して、止めて、また紙の端を揃える。
「以前、似たようなことがありました」
彼は低く言った。
「ある住人の方が、隣の部屋から変な音がすると相談してきた。私は、まず管理会社に確認し、騒音の記録を取り、生活時間の聞き取りをしてから対応しようとしました。結果的には事件ではなかった。でも、そのあと相談してきた方が引っ越してしまった。もっと早く、本人の不安をそのまま受け止めればよかったのかもしれません」
「受け止めなかったんですか」
「受け止めたつもりでした。手続きを進めましたから」
「手続きを進めることと、話を聞くことは違います」
「ええ。今は、少し分かります」
その言葉に、私は返せなかった。
高瀬は自分の発言を訂正するように、すぐに続けた。
「ただ、だからといって、証拠のないことを断定するわけにはいきません。住民の方々からも、黒田さんが連れ去られた、あるいは脅されていたという証言は出ていません」
「みんな、知らない、見ていないと言っています」
「そうですね」
「それを証言と呼べるんですか」
高瀬は、手帳を閉じた。
「呼べないかもしれません。でも、呼べないものを無理に証言に変えることもできません」
「なら、どうするんですか」
「一応、失踪届は受理します。周辺の防犯カメラ、金融機関の利用状況、携帯電話の位置情報など、必要な確認は取ります。部屋については、管理会社から立ち入りの許可が出るまで、こちらで勝手に入ることはできません」
「部屋の前は、もう誰かが片づけています」
「片づけたという根拠は」
「郵便受け、鍵穴、部屋番号の札」
「それは、管理上の措置とも説明できます」
「あなたは、説明できることだけを信じるんですか」
高瀬は答えるまでに少し時間を置いた。
「信じるというより、書類に残せる形を優先しています。そうしないと、あとで何も追えなくなる」
「書類に残らないものは、追わない?」
「追えないものを、追えると言うほうが危険です」
言葉は穏やかだった。だからこそ、その穏やかさに押し戻された。
高瀬は立ち上がり、ファイルを脇に抱えた。
「手紙は保管してください。できれば封筒も含めて、触る回数を減らしておいてください。何か思い出したことがあれば、連絡を」
「今の話も記録されますか」
「はい」
「私が、黒田さんは消されたのかもしれないと言ったことも」
高瀬は手帳を見下ろした。
「そのまま書くことはできます」
「では、書いてください」
高瀬のペンが動いた。
紙を擦る音が、廊下に小さく響く。
「佐伯さん」
「はい」
「断定はできませんが、あなたが何か見たと感じていること自体は、記録しておきます」
その言い方は、親切にも聞こえた。けれど私は、高瀬が「見た」とは書かず、「見たと感じている」と書いたのだろうと思った。事実から一歩だけ遠い場所へ、言葉を置く。そこなら誰も傷つかず、誰も責任を負わずに済む。
高瀬が階段を下りていく。
私はその背中を追わなかった。
廊下には、また静けさが戻ってきた。301号室の前に立つと、黒いテープの端がわずかに光っている。誰かが貼った。誰かが鍵を替えた。誰かが部屋番号を剥がした。けれど、その誰かを見た人はいない。
知らない。
見ていない。
二つの言葉が、古い壁の中で湿気を含み、ゆっくり膨らんでいるようだった。
私は自分の郵便受けを見た。
投函口は、まだ少し傾いている。
朝のままなのか、それとも今、誰かが触れたのか分からない。私は指で押さえずに、角度だけを見た。
そのとき、301号室の内側から、かすかな音がした。
紙が擦れたような音だった。
私は反射的に一歩近づき、それから止まった。
「部屋の中に入るな」
手紙の一文が、胸の奥で遅れて響いた。
扉の向こうには、何も聞こえない。換気扇も、テレビも、椅子を引く音もない。ただ、遠くの幹線道路を走る大型車の振動だけが、床を薄く揺らしている。
音がしたのかどうかさえ、もう確かではなかった。
私は301号室を見たまま、手紙を封筒の中へ戻した。
この建物では、見たものを見なかったことにするだけでは足りない。聞いたものまで、聞き間違いにしなければならない。
そうやって、誰かがいなくなった。
そうやって、私は今までここにいた。
廊下の窓の外で、午後の光が白く濁っていた。住人たちはそれぞれの部屋へ戻り、扉を閉めていく。ひとつ、またひとつ。閉じた扉の向こうで、生活の音が薄い壁に吸われていく。
私は301号室の前に残った。
黒田の名前を、声に出してみようとした。
けれど、喉の奥で音が止まった。
名前を呼べば、そこにいた人間が本当にいたことを認めることになる。認めてしまえば、私はもう「知らない」と言えない。
それでも、しばらくしてから、私は小さく息を吸った。
「黒田さん」
声は廊下へ出た。
返事はなかった。
ただ、壁のどこかで換気扇が低く唸り、遠い車の音が重なった。その間に、誰かのものだった沈黙が、いないはずの声のように残った。
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