3話 記録のほつれ

夜、私は机の上に回覧板の控えを広げた。

窓を閉めていても、幹線道路の音は壁の薄いところを選ぶように部屋へ入り込んできた。大型車が通るたび、窓ガラスがかすかに震える。その振動に合わせて、机の上の便箋の角がわずかに浮いた。

私は指で押さえた。

「部屋の中に入るな」

朝から何度も読み返した一文は、読むたびに意味を変えた。警告にも、拒絶にも、助けを求める声にも見える。けれど、どの意味を選んでも、最後には301号室の黒い郵便受けへ戻ってくる。

回覧板の控えは、黒田から以前、何気ない仕草で渡されたものだった。

三週間ほど前の夜、私は帰宅して、302号室の前で郵便物を仕分けていた。黒田は301号室の扉を開けたところで、私の手元を見た。私が回覧板をそのまま隣の部屋へ回そうとしていると、彼は一度扉を閉め、それから薄い紙を一枚持って出てきた。

「見出しだけ写しておけばいい」

それが、黒田の言葉だった。

「何のためにですか」

私は珍しく聞き返した。

黒田は答える前に、廊下の掲示板を見た。誰かが貼った自治会の告知が、右上だけ少し浮いていた。彼はそこへ近づき、親指で紙の端を押さえた。

「見出しが残れば、あとで中身が変わっても分かります」

「中身が変わることなんて、ありますか」

「ありますよ」

黒田は回覧板を私に差し出した。日付と部屋番号が、細い字で書き込まれていた。

「変わったものは、変わる前には戻りません。だから、戻らないものを覚えておくんです」

そのとき私は、返事をしなかった。

黒田は気にした様子もなく、紙の端を揃えてから部屋へ戻った。私はその紙を捨てずに、机の引き出しへしまった。なぜ残したのか、自分でも分からない。ただ、あの人の字が書かれた紙を、広告や請求書と一緒に処分するのがためらわれた。

今、その紙を机に並べると、欄外に押された小さな印影が見えた。

赤い朱肉の跡だった。

印は部屋番号の欄外に一つずつ押されている。部屋番号、日付、回覧の順番。黒田はそこまで細かく記録していた。印影は完全な円ではなく、左下だけがわずかに欠けている。私は便箋の封筒を取り出し、裏側に残った赤い色と見比べた。

似ている。

同じだと断言できるほど、私は印鑑に詳しくない。それでも、欠けた位置と、朱肉が紙へ移った濃淡はよく似ていた。

私は小型の懐中電灯を取り出し、封筒の裏へ光を当てた。赤い跡は、封をした部分ではなく、その少し下に残っている。誰かが封筒を閉じる前に、朱肉のついたものを押しつけたのだろうか。それとも、管理人室にある何かへ封筒を重ねたのか。

考えれば考えるほど、紙は黙ったまま細部を増やしていった。

私は控えの一枚目へ戻った。

日付は先月の十二日。見出しは「再開発計画に伴う今後の予定について」。その下に、301302305307という部屋番号が並んでいる。黒田の字で、各部屋の欄外に小さな点が打たれていた。

次のページでは、301が消えている。

部屋番号の並びは、302305307になっていた。けれど、紙の左端には、黒田が書いたらしい細い線が残っている。消された301の位置を示すように、線だけが途中で途切れていた。

私はページを裏返した。

紙の裏には、黒田の筆跡で短い言葉があった。

――抜けたところを、先に見る。

その文字を見た瞬間、白鷺ハイツの古い掲示板が浮かんだ。

掲示板には、何かが貼ってあった跡だけが白く残っている。掲示物を剥がしたあとにできた、長方形の空白。糊の輪郭。紙の端が削れたような細い傷。事故の告知だったのか、立ち退きの知らせだったのか、それとも、誰かの名前を載せた紙だったのか。

私は部屋を出た。

廊下へ出ると、昼間に感じた湿気は少し引いていた。代わりに、古い壁の内側から乾いた埃の匂いが漂っている。三階の窓は黒く、遠くの道路だけが赤と白の光を流していた。

私は換気扇の音を数えながら、掲示板へ向かった。

一つ。

階段の踊り場に近い部屋の換気扇が鳴っている。

二つ。

301号室の隣、私の部屋の換気扇は止まっている。

三つ。

廊下の端から、低い唸りが遅れて届いた。

掲示板の前に立ち、私は紙の重なりを見た。新しい告知の下に、古い紙の端が何層も沈んでいる。掲示板は何度も貼り替えられていた。けれど、剥がす人間はいつも同じではなかったらしい。白い跡の高さも幅も、微妙に違っている。

その中に、管理人室にある古い台帳の背表紙と同じ幅の跡があった。

私は一度、部屋へ戻った。

戻ってから、また出た。

同じ場所を二度見るのは、私の癖だった。最初に見たときは、見たいものだけを見ている。二度目に見ると、見たくなかったものが残る。

掲示板の下端には、白い紙片が挟まっていた。指で引き抜くと、表面に黒い線が一本走っている。文字は残っていない。けれど、紙の厚みは今貼られている告知より明らかに薄く、裏側に古い糊のざらつきがあった。

事故記録簿。

そう思ったのは、連想に過ぎなかった。

それでも私は、管理人室のほうへ歩いた。

部屋の明かりは消えていたが、扉の下から細い光が漏れている。ノックをすると、しばらくして鍵束の音がした。金属が一度、二度、乾いた壁の向こうで鳴る。

藤崎美沙が扉を開けた。

「まだ起きていたんですか」

「そっちこそ」

「管理人は、寝る前に建物を見るんだよ」

彼女は私の手にある紙片へ目を落とした。

「何を拾った」

「掲示板から」

「拾う前に、どこにあったか覚えているかい」

「下端です。古い紙に挟まっていました」

藤崎は紙片を受け取らなかった。代わりに、扉を半分だけ開けたまま、奥の机を見た。机の上には湯呑みが一つ置かれ、濃い茶の匂いが残っている。帳面が三冊、背表紙を揃えて並んでいた。

「黒田さんの回覧板を見ていたんだろう」

「どうして分かるんですか」

「そんな顔をしている」

「私の顔で分かることなんて、ほとんどないでしょう」

「顔じゃない。紙の持ち方だよ」

藤崎は私の指先を見た。

「黒田さんの紙を持つとき、みんな角を折らないようにする。あんたは、それ以上に、紙の端を逃がさないように持っている」

私は返事をしなかった。

藤崎は一歩、廊下へ出た。鍵束を腰のあたりで押さえ、掲示板のほうを見る。

「何を見つけた」

「部屋番号の空欄です」

「空欄なら、見つけるものじゃない。最初からそこにある」

「黒田さんは、抜けたところを先に見ろと書いていました」

藤崎の視線が、紙片へ戻った。

「黒田さんらしいね」

「この掲示板には、何が貼ってあったんですか」

「いろいろだよ」

「事故の告知も?」

彼女はすぐに答えなかった。

廊下の奥で、換気扇が低く回り始めた。音は壁の中を通り、足元から上がってくるようだった。藤崎は鍵束を握ったまま、しばらくその音を聞いた。

「事故の告知を貼ったことはある」

「いつですか」

「昔だよ」

「何年前ですか」

「古い話を年数だけで並べると、かえって分からなくなる」

「でも、記録には残っている」

「残っていればね」

私は彼女の顔を見た。

「残っていないんですか」

「残したものが、残るとは限らない。残さなかったものが、残ることもある」

「それは、答えになっていません」

「答えというのは、聞いた人間が使える形になって初めて答えになる。あんたが欲しいのは、使える形の話だろう。でも、そういう話はすぐ消される」

「誰が消すんですか」

藤崎は私を見た。長い沈黙のあと、視線だけを少し外した。

「今は、まだ名前を出す段階じゃない」

「黒田さんの名前は、もう消されています」

「だから、あんたは焦っている」

「焦っているんじゃありません。何かが消されているのに、みんなが見ていないことにしている。それが分かるだけです」

「分かったなら、どうする」

「残します」

「何を」

「見たものを。紙でも、メモでも、記憶でも」

藤崎は小さく息を吐いた。

「黒田さんも、同じことを言っていた」

「なら、どうして助けなかったんですか」

口にした瞬間、廊下の空気が薄くなった。

藤崎は怒らなかった。ただ、鍵束を持つ手から力が抜けた。

「助けるってのは、便利な言葉だね。助けたいと思った人間が、実際に何をしたかは、その言葉の後ろに隠れる」

「藤崎さんは何をしたんですか」

「掲示板の紙を、何枚か剥がさずに残した。帳面を捨てずに取っておいた。黒田さんが持ってきた控えを、見なかったことにしなかった。それだけだよ」

「それだけで、助けたことになるんですか」

「ならない」

「では、何なんですか」

「見捨てなかったふりだろうね」

声が低くなった。

「私は何十年も、ここで人の出入りを見てきた。引っ越しの荷物が運び出されるときも、救急車が来た夜も、誰かが大声で泣いた朝もあった。そのたびに、管理人として必要なことだけをした。鍵を開け、扉を閉め、掲示を貼り、剥がした。そうしているうちに、人の名前より部屋番号を覚えるようになった。名前は残ると困ることがある。部屋番号なら、誰も泣かない」

「泣かないだけで、消えていないわけではない」

「そうだね」

「黒田さんは、消えることを分かっていたんでしょうか」

「分かっていたから、あんたに紙を渡したんだろう」

「なぜ私に」

「それは黒田さんに聞きな」

「もう聞けません」

藤崎の視線が、301号室の方向へ流れた。

「そうだね」

その言葉は、あまりに静かだった。

私は紙片を握り直した。湿気を吸った紙が、指の間で柔らかく沈む。

「管理台帳を見せてください」

藤崎はすぐには答えなかった。

「今夜は遅い」

「明日でもいいです」

「見て、どうする」

302号室の前の住人について確認します」

「今のあんたには、まだ早い」

「何が早いんですか。前の住人がいたことを確認するだけでしょう」

「確認したら、次は理由を知りたくなる。理由を知ったら、誰が消したのか知りたくなる。その先は、あんたが今まで避けてきた場所だよ」

「避けてきたから、見るんです」

言葉が出たあとで、自分でも驚いた。

藤崎は、私の顔ではなく、手元を見た。

「前の部屋でも、そう言ったのかい」

私は答えられなかった。

藤崎はそれ以上追及しなかった。鍵束から一本だけ鍵を外し、管理人室の奥にある小さな戸棚を見た。

「明日の夕方、来な」

「見せてくれるんですか」

「見せるとは言ってない。来れば、そこにあるかもしれない」

「記録が?」

「空欄が」

彼女は扉を閉めようとした。

私は咄嗟に呼び止めた。

「藤崎さん」

「何だい」

「この紙片は、持っていてもいいですか」

「黒田さんのものなら、あんたが持っていればいい」

「黒田さんのものだと、分かるんですか」

藤崎は紙片を見た。

「紙の端を二度折る癖がある。黒田さんは、見出しを書き写すとき、必ず下を二度折った。机の端に合わせるためだ」

「紙片も二度折られています」

「そうだね」

「それだけで黒田さんのものだと言うんですか」

「違う。そう思いたいだけだよ」

藤崎は、今度こそ扉を閉めた。

鍵が回る音が二度した。

私は掲示板の前へ戻った。白い剥がし跡を照らすと、その下端に、黒田が写した回覧板の欄外と同じ高さの傷が見えた。紙の角が何度も当たり、板の表面だけが細く削れている。

部屋へ戻る途中、301号室の前で足が止まった。

郵便受けは黒いテープで塞がれている。扉の部屋番号は剥がされ、白い長方形の跡だけが残っている。床には、朝見た粉のような繊維がまだあった。

私はしゃがみ込み、紙片をその近くへ置いてみた。

幅が合った。

掲示板から剥がした紙片の下端と、301号室の扉に残る白い跡。その二つは、同じ紙の一部ではない。けれど、同じ種類の糊が使われたように見えた。貼る場所が違うだけで、剥がす手つきは似ている。

私は手を伸ばし、紙片を拾い上げた。

そのとき、扉の向こうから音がした。

紙が擦れたような、ごく小さな音だった。

私は一歩近づき、それから止まった。

「部屋の中に入るな」

手紙の一文が、胸の奥で遅れて響いた。

扉の向こうには、何も聞こえない。黒田のテレビも、換気扇も、椅子を引く音もない。ただ、遠くの幹線道路を走る車の振動だけが、床を薄く揺らしている。

私は扉に耳をつけなかった。

つければ、聞こえたものを事実にしなければならない気がした。

301号室から離れ、自分の部屋へ戻る。机の上には、回覧板の控えと、灰色の封筒と、掲示板から剥がした紙片が並んだ。私はそれらを日付順に揃えようとしたが、すぐに手を止めた。

日付がない。

部屋番号もない。

名前もない。

あるのは、誰かが消したあとに残った白さだけだった。

私はメモ帳を開き、日付より先に部屋番号を書いた。

302

その下に、次の行を足す。

301

さらに、その下に、空欄と書いた。

空欄。

文字にしてみると、空白はただの空白ではなくなった。そこには、誰かが書かなかったのではなく、書かれたものを消した手がある。見えない手が、紙の上から名前を抜き取り、扉から番号を剥がし、郵便受けを塞いで、部屋の中の生活を外から確認できない形にしている。

私は、黒田の紙を机の中央へ置いた。

以前の彼なら、ここで日付を揃え、部屋番号を並べ、抜けた場所に印をつけただろう。私はその真似をしてみた。回覧板の欄外にある赤い印影を一つずつ写し、白い剥がし跡の幅を記録し、301号室の郵便受けが塞がれていた時刻を書いた。

午前五時四十一分。

黒田の換気扇が止まっていた。

301号室の部屋番号が剥がされていた。

郵便受けが黒いテープで塞がれていた。

そして、私の郵便受けは二ミリずれていた。

最後の行を書いたところで、ペン先が止まった。

私は、最初のずれを見つけたときから、もう関係者だったのかもしれない。見つけたあとで、触れずに戻った。黒田の扉を開けなかった。声をかけなかった。警察が来たときも、私が聞いた音のことを「紙が擦れたようだった」としか言わなかった。

私は、事実を記録しているつもりで、事実から少しずつ離れていた。

その距離が、沈黙と呼ばれるものだった。

窓の外で、また大型車が通った。部屋全体が薄く震え、机の上の紙が一斉に揺れた。けれど、黒田の控えだけは動かなかった。紙の端を、私は重しのように指で押さえていた。

その夜、私は回覧板の控えを封筒へ戻さなかった。

灰色の手紙と、掲示板から拾った紙片と一緒に、机の上へ残した。

空欄を閉じないためだった。

白鷺ハイツのどこかで、換気扇が低く唸っている。

一つ。二つ。

三つ目の音が来るまでに、長い間があった。

その間に、301号室の向こうから、誰かのいない声がしたような気がした。

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