第1話 郵便受けのずれ

夜明け前の白鷺ハイツは、息をひそめたまま古い壁を冷やしていた。
目を覚ましたのは、音がしたからではない。音がしなかったからだ。
枕元の古い腕時計を見ると、午前五時二十七分だった。いつもなら、壁の向こうから黒田宗一の換気扇が低く唸っている。黒田の部屋の換気扇は、ほかの部屋より半音ほど高く、回り始めるときに一度だけ、金属の擦れるような音を立てた。
その音を、私は何度も聞いていた。
聞こうとしていたわけではない。薄い壁の向こうで、誰かが暮らしている。それだけのことだった。黒田とは、廊下で二、三度、会釈を交わしたことがある。回覧板を受け取ったときに、彼が「ここ、日付が違います」と言ったこともあった。私はそのたびに、返事をする前に一拍遅れた。
「そうですか」
それ以上の言葉を探さなかった。
その朝、壁は冷たく沈黙していた。
私は布団を出て、インスタントコーヒーを淹れた。湯を注ぐと、粉の焦げた匂いが狭い台所に広がった。窓の外では、まだ空が夜の色を残している。幹線道路を走る車の音だけが、遠い川の流れのように途切れず続いていた。
カップを置いたとき、玄関のほうから、ごく小さな金属音がした。
郵便受けだと思った。
私はすぐには立たなかった。音を聞き間違えている可能性を、いつものように一度考えた。建物は古い。配管も、扉も、どこかで勝手に鳴る。そういうことにしておけば、確かめる必要はない。
けれど、音のあとに残った沈黙が、いつものものとは違っていた。
カップの中の黒い液体が、わずかに揺れている。
私は玄関へ向かった。
靴を履く前に、扉の向こうの気配を聞いた。廊下には誰もいない。誰かが階段を下りる靴音もない。換気扇の音だけが、建物のどこかで途切れ途切れに鳴っている。
扉を開けると、湿った空気が頬に触れた。
白鷺ハイツの三階廊下は、夜明け前になると薄い青色に沈む。窓ガラスは曇り、外の街灯がぼやけた輪になっている。私は302号室の前で立ち止まり、まず郵便受けを見た。
投函口が、わずかに傾いていた。
右の角が、普段より二ミリほど下がっている。指先で押すと、金属が乾いた音を返した。
私は指を離し、もう一度見た。
二ミリというのは、他人にとっては存在しない程度のずれだろう。郵便受けの蓋は古く、蝶番も歪んでいる。雨の日にはもっと傾いていることがある。それでも、今朝の角度は違っていた。
誰かが触れた。
そして、元に戻そうとしたが、戻しきれなかった。
そう見えた。
私は投函口の周りを見た。塗装の剥げ方、埃の筋、金属の端に付いた指の脂。何か特別なものが見えるわけではない。見えないものを見ようとしている自分の目だけが、やけに熱かった。
そのまま廊下を歩いた。
無意識に換気扇の数を数える。
一つ。二つ。三つ。
二つ目と三つ目の間に、黒田の部屋がある。
301号室の前を通り過ぎるつもりだった。自分の部屋の郵便受けがずれていた、それだけなら、部屋へ戻って仕事の支度をすればいい。今日は出社の日で、八時十二分の電車に乗る必要がある。そういう日常の時刻を思い出せば、変なことを考えずに済む。
だが、301号室の前だけ、空気が乾いていた。
廊下全体には湿り気がある。古い壁紙の継ぎ目から、雨の前のような匂いがしている。手すりには夜露に似た水気が薄く浮いている。それなのに、301号室の前に立つと、鼻の奥がひりついた。
壁越しに、何も聞こえない。
昨日の夜までは、テレビの小さな音がしていた。内容までは分からない。男の話し声、拍手のような効果音、椅子を引く鈍い音。毎晩ほとんど同じ時刻に、黒田は台所の換気扇を回した。生活の音は、規則正しいというより、何かを崩さないために繰り返されているようだった。
今朝は、その規則だけが抜けている。
部屋の前へ回ると、郵便受けが塞がれていた。
黒いテープが、投函口を横切っている。貼り方は雑ではなかった。端が浮いていない。指で何度も押さえたのか、テープの表面に細かな凹みがある。誰かが急いで塞いだのではなく、塞ぐことを最初から決めていたように見えた。
鍵穴の周囲には、新しい金属の縁が光っている。
私はしゃがみ込んだ。
床に、白い跡が残っていた。紙か、ラベルか、部屋番号の札を剥がした跡だろう。白い部分の下端だけが、妙にまっすぐだった。剥がした人間が、残った糊や紙片まで取り除こうとしたらしい。完全には消えず、粉のような繊維が床に残っている。
指を近づけたが、触れなかった。
触れれば、そこにあるものが別のものになってしまう気がした。見ているだけなら、まだ自分は関係者ではない。そう考えた瞬間、自分の中にある古い癖が、冷たい形で戻ってきた。
以前の部屋でも、隣人の異変に気づいたことがある。
夜中に何度も水を流す音がして、翌朝には壁を叩くような音がした。私は管理会社の番号を調べた。調べただけで、電話はしなかった。数日後、その部屋は空室になっていた。引っ越しの理由を誰かに尋ねることもなかった。
関わらなければ、面倒は増えない。
そのやり方を、私は長いあいだ生活の知恵だと思っていた。
立ち上がり、黒田の扉を見た。
部屋番号の札も剥がされていた。白い壁に、長方形の跡だけが残っている。番号がなくなると、扉は部屋の入口ではなく、ただの平面に見えた。
私は腕時計を見た。五時四十一分。
戻ろうとしたとき、郵便受けの内部から、紙が擦れるような音がした。
私は振り返った。
黒いテープは動いていない。風もない。音は一度だけで、そのあと何も続かなかった。
自分の部屋へ戻り、郵便受けの鍵を差し込んだ。
開ける前に、投函口の角度をもう一度見た。
まだずれている。
中には、新聞も広告もなかった。差出人のない封筒が一通だけ、奥に立てかけられていた。
封筒は薄い灰色で、宛名には私の名前だけが書かれていた。
佐伯悠真様。
文字は整っていた。整いすぎていた。住所も部屋番号もないのに、間違いなく私宛てだった。
私は封筒を取り出し、指先で角をなぞった。紙は少し柔らかく、湿気を吸っている。封の糊は一度剥がされ、別のものを塗り直したように盛り上がっていた。
玄関の前で封を切った。
中には、便箋が一枚だけ入っていた。
「部屋の中に入るな」
それだけだった。
差出人も、日付もない。
私は一度、便箋を裏返した。何もない。窓から差し込む薄明かりに透かしてみても、透かし文字は見えなかった。
紙の中央に、短い一文が置かれている。
部屋の中に入るな。
命令なのか、忠告なのか、助けを求める言葉なのか分からない。黒田が誰かに見せるために書いたのなら、なぜ私なのか。私は彼と親しくなかった。廊下で会えば会釈をする程度で、話をしたのも数えるほどしかない。
それでも、筆圧に覚えがあった。
「ここ、日付が違います」
以前、黒田が回覧板を差し出したときの文字。細く、角が立っていて、最後の線だけがわずかに強い。便箋の文字にも同じ癖があった。書き終えたあと、紙からペンを離すのを少し遅らせるような筆圧だった。
私は便箋を机へ運んだ。
コーヒーはもう冷めていた。カップの縁に、黒い液体の薄い跡が残っている。私は便箋を机の中央に置き、周囲の物を直線に揃えた。ボールペン、小型のメモ帳、腕時計。普段なら落ち着くはずの配置が、今朝は紙を逃がさないための柵のように見えた。
メモ帳を開き、日付を書こうとして、手を止めた。
先に部屋番号を書いた。
302。
その下に、時刻。
午前五時四十一分。
さらに、301号室の郵便受けが塞がれていたこと、鍵穴が交換されていたこと、床に白い剥がし跡があったことを書いた。書きながら、黒田の姿を思い出そうとした。
顔は、すぐには浮かばなかった。
代わりに、彼の手が浮かんだ。回覧板を受け取るとき、紙の端を二本の指でつまむ手。角が折れないように、どこかの机の上へ置く手。掲示板の端が剥がれていると、誰にも言わずに押さえる手。
私は、黒田の手を見たことがある。
けれど、その手が最後に何をしたのかは知らない。
昨夜、何時まで黒田は部屋にいたのか。誰かが訪ねてきたのか。彼は助けを求めたのか。それとも、誰にも聞かれないように何かを書いたのか。
隣室から届いた手紙は、声の代わりだった。
声を出せない状態になった人間が、紙の上に残した声。
そう考えた途端、私は便箋から目を逸らせなくなった。
「部屋の中に入るな」
その部屋とは、301号室のことだろうか。
それとも、私の302号室か。
私は立ち上がり、再び玄関へ向かった。扉を開けると、廊下の湿った空気が流れ込んできた。301号室の前には、さっきと同じ白い跡が残っている。塞がれた郵便受けは、黒い口を閉じたまま動かない。
遠くで換気扇が鳴った。
一つ。二つ。
三つ目が鳴るはずの間に、何もなかった。
私は、郵便受けから抜き取った手紙を胸元で押さえた。
そして初めて、黒田宗一が転居したのではなく、転居したことにされようとしているのかもしれないと思った。
その考えを口にする相手は、まだ誰もいなかった。 それでも私は、301号室の前から動けなかった。
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