9話 立花千代の古い箱

翌日、私は佐々木に伴われ、旧市街の古書店へ向かった。

朝から空は薄曇りだった。雨が降るほどではないが、海の方から上がってくる風には湿り気があり、坂道の石垣に生えた苔が黒く濡れて見えた。新しい集合住宅の前を通り過ぎると、工場跡地を囲っていた金属柵が、風のたびに低い音を立てた。昔はこの時間、出勤する人間の足音や自転車のベルが道を埋めていた。今は、開店前の店のシャッターと、誰も座っていないベンチだけが並んでいる。

佐々木は私の半歩前を歩いていた。古い手帳を胸ポケットに入れ、片手には役場で見た資料の写しを持っている。歩きながら、ときどき紙の角を指で確かめていた。

「昨日の報告書のことを、まだ考えているか」

「考えている」

「考えるのはいい。決めつけるな」

「駅前文具店の裏手で、関係者一名の所在確認があった。そこから先の一行が消されている。新聞にも名前がない。何を決めつければいい」

「決めつけていないようで、もうかなり決めている顔だ」

私は返さなかった。

役場の閉架資料室で見た白い帯が、頭から離れなかった。文章の途中だけが削られ、そこにいたはずの誰かが、紙の上から押し出されていた。日記の消えた引き出しと同じだった。何かがなくなっているのに、周囲だけは几帳面に整っている。

坂を下りるにつれて、潮江市の古い町並みが近づいた。魚屋の前に撒かれた水が、薄い光を反射している。閉まった薬局の看板には、色褪せた文字が残っていた。再開発の案内板では、この一帯も数年後には取り壊しの対象になっている。町は過去を忘れるのではなく、忘れやすい形に造り替えていくのだと、私は思った。

立花千代の古書店は、細い通りの奥にあった。

店先には竹箒が一本立てかけられ、軒下に古い暦が吊るされていた。千代は戸口の前を掃いていたが、私たちを見ると箒を壁へ戻した。それから、いつものように私の顔を見て、名前を確かめるように言った。

「安藤誠一さん。今日はお二人でいらしたのね」

「佐々木隆です」

「ええ、佐々木さん。お名前は存じています。紙より先に人を確認するのは、いい習慣です」

佐々木はわずかに口元を動かした。笑ったのか、皮肉を受け流したのか、私には判別できなかった。

店内へ入ると、外の湿気が遠のいた。乾いた木と古い糊、紙魚に食われた背表紙の匂いが混ざっている。棚と棚の間は狭く、肩を少し斜めにしなければ通れない。千代は奥の小さな卓袱台へ私たちを案内し、湯呑みを二つ出した。湯を注ぐ前に、器を手のひらで温める。

「役場で見つけたものを、もう一度見せていただけますか」

佐々木が写しを差し出した。

千代はすぐに紙をめくらなかった。発行日を確かめ、押印の位置を見て、綴じ穴の周囲を指で撫でる。紙の端のわずかな折れを見つけると、眼鏡を掛け直した。

「この一行ですね」

「印刷の濃さが違う」

「ええ。削ったあとに別の紙を貼り、その上から複写したのでしょう。下の紙と上の紙で、繊維の潰れ方が違います」

私は身を乗り出した。

「読めますか」

「読めるかどうかより、読めなくした人が何を残したかったかを見た方がいいわ」

「名前があったのか」

「名前とは限らないでしょう。時刻かもしれないし、場所かもしれない。人は隠したいものを消すとき、消した部分だけを特別なものにしてしまうの」

「つまり、何も分からないということですか」

「いいえ。分からないという事実が、ここには残っているのよ」

千代はそう言って、紙の端を押さえた。

「町は大きな音より、静かな削り取りの方で記憶を失います。火事そのものは誰もが覚えている。赤い炎、消防車、焼けた看板。でも、そのあと誰が帰らなかったか、誰の店が三日後に閉じたか、誰が翌朝から名前を呼ばれなくなったか。そういうものは、騒ぎが収まったあとで少しずつ削られる。新聞の一行、役場の備考欄、町内会の回覧板。ひとつひとつは小さいけれど、重ねれば人ひとり分の空白になるわ」

その声は穏やかだった。けれど、穏やかさの底には、何度も失われるものを見送ってきた人間の怒りがあった。

私は卓袱台の上の紙を見た。

「駅前火災の翌日の新聞を見せてください」

千代は答えず、店の奥へ歩いていった。棚の最下段から、潮江新聞の縮刷版が入った綴じ箱を取り出す。箱の蓋には、発行年が細い筆で記されていた。持ち上げたとき、紙の束が中で沈む音がした。

「この年の紙は、妙に軽いのよ」

「紙が薄い?」

「そうではありません。紙面に起きたことの重さがないの。頁をめくると、必要なものだけが抜けている感じがする」

千代は箱の蓋を撫で、それから私の前へ置いた。

「軽いものほど、誰かが何かを抜いた跡がある。紙は嘘をつかない、という人がいるけれど、私はそう思わないわ。紙は嘘を隠したまま残る。だから、何が書いてあるかだけでなく、どう残っているかを見るの」

縮刷版を開く。

駅前火災の記事は、思っていた以上に短かった。発生時刻、鎮火時刻、焼失した店舗、交通規制。負傷者なし。原因は調査中。文字は整然と並び、行間には不自然な白さがあった。

「大きな火事の記事には見えませんね」

佐々木が言った。

「大きな火事に見せないように組んだのでしょう」

「新聞社の判断ですか」

「新聞社だけの判断とは限らないわ。町には、記事を書く人より、記事を書かせない人の方が多いことがありますから」

千代は次の頁を開いた。火災の翌週に行われた商店街の臨時総会の記事だった。店舗の仮営業、被害補償、再開発に向けた協議。記事の下には、小さな写真が載っている。

私は写真を覗き込んだ。

駅前の商店主らしい人々が、建物の前に並んでいる。写真の端には、細い庇と、吊り下げられた色鉛筆の束が写っていた。文具店だと分かる。店は焼けているが、看板の文字はまだ読めた。

「この店は、火事のあとすぐに閉じたんですか」

「三日ほどは営業していたそうです」

「そうです、というのは?」

「当時の地域誌に、店主が店を開けたという記述があるの。けれど、その三日後から、店の名前が記事に出てこなくなった」

「店主は?」

「町を離れた、と言われています」

「言われているだけですか」

千代は、私の問いにすぐ答えなかった。茶を一口飲み、湯呑みを卓袱台の中央から少し内側へ戻す。美佐子と同じ動きだった。

「店主は、娘さんと二人で暮らしていたそうよ」

胸の奥で、何かが小さく鳴った。

「娘さん」

「ええ。店番をしていた女性です。火災の夜、店の裏手にいたという話もある」

私の指が、卓袱台の縁を探った。木の表面は乾いていたが、指先は濡れたように冷たかった。

「名前は」

千代は私を見た。

「安藤さんは、もう名前の一部を見つけているのではありませんか」

「封筒に、薄い鉛筆跡がありました。最後の二文字だけです。……枝、と読める」

「そう」

「何か知っているなら、教えてください」

「知っていることと、確認できることは違います。古書店主が噂を事実のように渡したら、紙を守る仕事はできません」

「では、確認できる資料を見せてください」

私の声が硬くなった。

佐々木が紙の端を二度叩いた。急ぐな、という合図だった。けれど千代は怒らなかった。むしろ、私の焦りを見て、少しだけ声を落とした。

「誠一さん。あなたが欲しいのは、名前だけですか」

「名前がなければ、何も始まらない」

「名前があれば、終わると思っているのではありませんか」

「そんなつもりはない」

「つもりではなく、紙の扱い方に出ています。名前を書けば、その人が自分の手元へ戻ってくる。記録できれば、失わずに済む。そう信じている。でも、紙に載った名前は、その人そのものではないわ。名前を残しても、残された人の罪や、言えなかった言葉まで一緒に残るとは限らない」

私は返事をしなかった。

千代は縮刷版を閉じ、別の棚へ向かった。今度は少し背の低い箱を取り出す。蓋には何も書かれていない。箱の角は擦れて丸くなり、紐は一度切れたものを別の糸で結び直してあった。

「これは、新聞社の資料ではありません」

彼女は言った。

「再開発の前に、駅前の店や路地を撮った写真を集めたものです。町が消えるとき、最初に消えるのは建物ではなく、そこにいた人の立ち位置だから」

箱を開けると、写真が布で包まれていた。千代は布をほどき、一枚目を表にする。

再開発前の駅前だった。

文具店の庇。消火栓。狭い路地。駅へ向かう人の肩。写真の右端には、黒い鉄の扉が半分だけ写っている。表通りからは見えない、店の裏手へ続く扉だった。

私は息を止めた。

記憶の底で、何かが動いた。

濡れた袖口。

灰の付いた指。

鉄の冷たさ。

誰かの手首。

「この写真、いつ撮られたものですか」

「火災の前です」

「日付は」

「裏に書いてあります」

千代は写真を裏返した。

鉛筆で、年月日が記されている。その横に、別の細い文字があった。何度も消され、紙の表面が毛羽立っている。

私は目を近づけた。

――八月二十一日、夜。

その下に、名前らしい線が残っている。

先頭の文字は読めない。最後の二文字だけが、かろうじて判別できた。

早枝。

いや、早苗かもしれない。

視界が揺れた。

「安藤さん」

千代の声が遠くなった。

「立てますか」

「……早苗」

口から出た名前に、佐々木が顔を上げた。

「今、何と言った」

「早苗だ。文具店の娘の名前だと思う」

声にした瞬間、名前が私の中で形を持った。三十年間、日記の端で書きかけては、駅前の店の人、知り合い、あの娘と置き換えてきた二文字だった。私は忘れていたのではない。呼ばないようにしていた。

千代は写真を取り上げなかった。私の前に置いたまま、紙の角を指で押さえていた。

「名前を探すなら、記事だけでは足りません」

「なぜです」

「名前は、人が呼んだときに初めて残るものだからです。紙に印刷された名前は、誰かが呼ぶことをやめたあとにも残る。でも、呼ばれない名前は、紙の上で少しずつ死んでいく」

「早苗は、死んだのですか」

千代は私を見た。

「私は、そこまでは知りません」

「火災の夜、文具店の裏手にいた」

「そう書いた記録はあります」

「それなら、なぜ名前が消えた」

「それを知るために、木村辰夫さんの古い手帳が必要になります」

佐々木が顔を上げた。

「木村の手帳を持っているのか」

「持っているとは言っていません。所在を知っているだけです」

「どこにある」

千代は答えず、写真を箱へ戻した。布をかける前に、早苗の名前らしき文字へ指を触れる。何かを確かめるというより、傷口を塞ぐような仕草だった。

「町内会の古い帳面を整理したとき、木村さんが残した紙片を一枚見つけました。火災の翌朝に書かれたものです」

「何と書いてあった」

「それは、まだ渡せません」

「なぜ」

「紙片だけでは、誠一さんはまた一つの答えを作ってしまうからです。名前、時刻、記録の抜け。それらを並べて、誰が悪かったのかを決める。けれど、あの夜は一人の名前だけで片づく話ではないでしょう」

私は拳を握った。爪が掌に食い込んだが、痛みは遠かった。

「では、何をすればいい」

「木村さんに会う前に、もう一度、駅前を歩いてください。写真の中の道を、今の足でなぞるのです。頭で順番を作らず、身体が覚えているものを確かめる。記録は、あなたの代わりに思い出してはくれません」

佐々木が低く言った。

「千代さん。あなたは、何を知っている」

「何もかもではありません」

「役場の記録に関わった人間を知っているのか」

「町では、紙を消す人間より、紙を消したあとに黙る人間の方が多いものです。誰が最初に消したかを探しても、たぶん最後には届かない。大事なのは、消えたあとも残っている違和感を、誰が拾うかです」

「それが俺だと?」

「あなたが拾ったのは、日記の空白でしょう。空白は、拾うものではなく、そこに立つものです」

千代は写真を箱へ戻した。

「明日、また来てください。木村さんの紙片を見せます。ただし、あなた一人では来ないで」

「美佐子を連れてくる」

自分でも驚くほど自然に、その名が出た。

千代は少しだけ目を細めた。

「そうしてください。あの夜を知っている人が、あなたのほかにもいるのなら」

店を出ると、午後の光は薄くなっていた。通りの奥から海風が吹き、古い看板を揺らしている。私は胸ポケットの封筒を押さえた。中身は空のままだったが、そこに書かれていた「文具店の裏」という言葉と、いま聞いた名前が重なっている。

早苗。

声に出しただけで、空白の形が変わった。

佐々木は隣で、写真の複写と役場の写しを別々の封筒へ入れ、二度同じ内容を書き留めていた。私はそれを見ながら、紙に残すことと、紙へ逃げることの違いを考えた。

「明日、木村に会う」

私が言うと、佐々木は歩いたまま答えた。

「会えば、何かが聞けるとは限らん」

「それでも行く」

「そうか」

「美佐子も連れていく」

佐々木はそこで足を止めた。

「それがいい」

「なぜだ」

「紙は三十年前のことしか残さない。人間は、三十年後の沈黙まで背負っている。どちらか一方だけでは、あの夜の形にならない」

私たちは駅前へ続く道を歩いた。新しい舗装の上に、古い路地の影はもうなかった。けれど私の足は、写真の中にあった狭い道幅を覚えている。歩幅が自然に小さくなる。足元のない道を、身体だけが辿っていた。

夕暮れが降り始めていた。

港の方から、塩気を含んだ風が坂を上がってくる。遠くで電車の音がし、商店街の軒下で風鈴が鳴った。紙の箱の中から戻ってきた名前は、風にさらわれず、私の内側に残っていた。

その名前を、私はもう別の言葉へ置き換えなかった。

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立花千代の古い箱 - 紙の空白 - 誰でも作家life