第10話 紙片の裏側

翌朝、美佐子はいつもより早く起きていた。
私が階下へ下りると、台所の窓が開いていた。薄い雲の向こうから光が差し、流し台の縁に置かれた包丁だけが白く光っている。美佐子は湯を沸かしながら、古い封筒を一枚、布巾の下へ隠すように置いた。
「それは何だ」
「見れば分かるでしょう」
「見せてくれ」
美佐子は火を弱めた。薬缶の口から、細い湯気が立ち上がる。
「木村さんのところへ行く前に、あなたに渡しておきたいものがあるの」
彼女は布巾をめくった。
封筒は茶色く変色していた。宛名はない。封の部分には、古い糊の跡が黒く残っている。私は受け取らず、指先だけで紙の厚みを確かめた。
「いつから持っていた」
「ずっと」
「日記と一緒に隠していたのか」
「隠していたというより、しまっていたのよ。捨てられなかったから」
「中身は」
「あなたが見たら、木村さんに会う意味がなくなるかもしれない」
「それでも見せてくれ」
美佐子は私の顔を見た。目を逸らさなかった。
「見たものを、すぐに事実にしないで」
「努力する」
「努力ではなく、待って」
「待ってきた。三十年」
声が思ったより低く出た。
美佐子は一度、唇を結んだ。それから封筒を私へ差し出した。
中には、小さく折り畳まれた紙が入っていた。紙の中央に、鉛筆で短い言葉が書かれている。
――裏口は開いていた。安藤は手を離した。美佐子は連れて出た。
私は読み終えたあとも、紙を持ったまま動けなかった。
「誰の字だ」
「木村さんの字だと思う」
「思う?」
「火事の翌朝、木村さんが私に渡したの。あなたには見せるなと言って」
「なぜ今まで黙っていた」
「あなたが、手を離したことだけを覚えたら困ると思ったから」
私は紙の端をなぞった。鉛筆の線は薄く、途中で何度も筆圧が変わっている。「美佐子は連れて出た」のところだけ、文字が妙に小さい。
「私は、早苗を連れて出たのか」
「分からない」
「この紙に書いてある」
「書いた人が見たことだけでしょう」
「お前は見ていないのか」
「見たわ」
美佐子の声が、初めて少し揺れた。
「あなたが手を離したあと、私はあなたを引いた。外へ出て、路地の角まで行った。そこで、木村さんが誰かを連れてきた」
「誰か?」
「顔は見えなかった。濡れた布をかぶっていたから」
心臓の奥が、遅れて強く鳴った。
「それが早苗だったのか」
「分からない」
「なぜ確認しなかった」
「あなたが戻ろうとしたからよ。木村さんが、あの人を別の車へ乗せた。私はあなたを押さえていた。あなたは煙を吸って、足元もふらついていた」
「俺は、見たのか」
「見ていない。見ようともしなかった」
責める言葉ではなかった。だからこそ、逃げることができなかった。
私は封筒の中へ紙を戻した。
「木村は、早苗を連れて出たことを知っているのか」
「知っているでしょう」
「それなら、なぜ記録から消した」
「消したのは、木村さんだけではないわ」
美佐子は薬缶の火を止めた。湯気が台所の天井へゆっくり昇っていく。
「早苗さんが生きていると分かったら、町は困ったのよ。店の責任、火元のこと、裏口の鍵のこと。誰かが説明しなければならない。でも、早苗さん本人が何も言わずにいなくなった。木村さんは、それを都合よく使った」
「いなくなった?」
「翌朝には、もういなかった」
「どこへ」
「誰も知らない」
私は椅子へ腰を下ろした。台所の床板が、体重を受けて小さく鳴った。
「お前は、早苗が生きていると思っているのか」
「思いたいわけではないの」
「では何だ」
「死んだと決めるものが、何も残っていないだけよ」
その言葉は、昨夜の千代の声と重なった。名前がないことと、いないことは同じではない。私はその違いを、三十年かけて見ないふりをしてきた。
昼前、私たちは木村の家へ向かった。
港に近い古い平屋だった。庭の隅に金木犀の木があり、まだ花の季節ではないのに、葉の間から乾いた匂いがした。木村は玄関先で待っていた。私たちを見ると、驚いた様子を見せず、ただ一度だけ美佐子へ目を向けた。
「来ると思っていた」
「なら、待たせないでください」
美佐子が言った。
木村は、彼女の言葉に少し眉を動かした。私には、それが恐れに近いものに見えた。
通された部屋には、古い扇風機と低い机があった。机の上には湯呑みが三つ並び、どれも縁が欠けている。木村は座る前に、机の上の紙を一枚ずつ揃えた。
「早苗のことを聞きに来たんでしょう」
「名前を知っていたのか」
「知っていた」
「生きていたのか」
木村はすぐには答えなかった。茶をすすり、湯呑みを置く。その音が、部屋の静けさをひどく大きくした。
「火事の夜は、そういうことを確かめる余裕がなかった」
「確かめたのか、確かめなかったのか」
「安藤さん、昔のことを今の言葉で裁くと、どこかが必ず歪む」
「歪んだままにしてきたのは、あなたたちだ」
木村は私を見た。
「あなたもでしょう」
私は返せなかった。
美佐子が封筒を机へ置いた。木村の目が、紙の角へ落ちる。ほんの一瞬だったが、彼はそれを見ていた。
「これを、まだ持っていたのか」
「あなたが渡したものです」
「渡した覚えはない」
「覚えていないのではなく、言わないだけでしょう」
美佐子の声には、私が知らない硬さがあった。
木村は紙を取り上げなかった。指先だけを机の上で握り込む。
「早苗は、裏口から出た」
その言葉を聞いた瞬間、胸の内側で何かが崩れた。
「生きていたのか」
「少なくとも、私が見たときは」
「どこへ行った」
「駅の反対側に車を回した。あの店には、火災の前から揉めごとがあった。店主は借金を抱え、娘さんはそれを知っていた。火元の原因も、ただの漏電ではなかった」
「何があった」
木村は目を伏せた。
「それは、早苗本人が話さなければならないことだ」
「本人はどこにいる」
「分からない」
「あなたが逃がしたのではないのか」
「逃がしたのではない。町から出した」
「同じことだ」
「違う。逃げる場所を用意しただけだ。戻るかどうかを決めるのは、本人だ」
木村の声が初めて乱れた。低く抑えていたものが、紙の端から滲み出るようだった。
「あなたは、彼女を助けたのか」
「助けたつもりだった」
「つもり?」
「助けた人間は、助けたと言い切れる。私は言い切れない。火を消すことも、店を守ることも、町の連中を黙らせることもできなかった。ただ、あの娘を別の車へ乗せただけだ」
「そのあと、誰も探さなかった」
「探した」
「記録にはない」
「記録に残せば、見つけられると思ったか」
「少なくとも、消す理由にはならない」
木村はしばらく黙っていた。
やがて、机の引き出しから一枚の写真を取り出した。古い駅前の写真だった。裏面には、日付と短い住所が書かれている。
「これが、早苗の行った先だ」
私は写真を受け取った。
知らない町の駅前。小さな旅館の看板。写真の隅に、鉛筆で名前が残っている。
早苗。
その下に、別の名前があった。
私は読めなかった。紙の繊維が潰れ、何度も消された跡がある。
「誰の名前だ」
「あなたが先に思い出すべきです」
木村はそう言った。
「その名前を、私は知っている」
「ええ。あなたの日記にも、一度だけ出てくる」
日記。
消えた三十年分の中に、まだ残っている一冊がある。美佐子が押し入れから出した、火災の前後だけが抜けていた日記帳。その頁のどこかに、私は早苗と一緒に別の名前を書いたのだ。
私は写真を握りしめた。
木村は視線を落としたまま、低く続けた。
「日記を消したのは、私ではない」
「知っている」
「では、誰が消したかも」
「美佐子だ」
「そうですか」
木村は美佐子を見た。
「あなたは、まだあの約束を守っているのですね」
美佐子の指が、膝の上で固く組まれた。
「守っていたのではありません」
彼女は答えた。
「終わらせたかっただけです」
部屋の外で、風に揺れた金木犀の葉が一枚、乾いた音を立てて落ちた。
私は写真の裏をもう一度見た。
消された名前の輪郭だけが、紙の上に残っている。
その筆跡を、私は知っていた。知らないはずがなかった。三十年前、私が毎晩使っていた万年筆の字だった。
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