第8話 煙の向こうの記憶

夜になるのを待っていたわけではない。
けれど、日が落ちてからでなければ、書斎の机に向かう気にはなれなかった。駅前で早苗の名前を口にしてから、私は家へ戻り、夕食を半分だけ食べた。美佐子は何も訊かなかった。魚の骨を取り、味噌汁の椀を私の手元へ寄せ、冷める前に食べるよう目で促しただけだった。
それが、かえってありがたかった。
言葉にすれば、今日思い出した名前が、また別の誰かの言葉に置き換わってしまいそうだった。早苗という音を、自分の声のまま保っておきたかった。
夕食の片づけが終わるころ、外はすっかり暗くなっていた。坂の下の家々に明かりが増え、窓ごとに異なる暮らしが浮かんでいる。犬を呼ぶ声、テレビの音、風呂場の戸を閉める音。三十年前には、もっと多くの窓が灯っていた。工場がまだ動いていて、港から帰る人が坂を上り、商店街の店主たちが店先の椅子を片づけていた。
今は、夜が来ると町の方が先に眠る。
私は書斎へ上がった。
机の上には、隆から借りた地図の写し、千代の写真帖を複写した紙、役場の資料を書き写したメモが重なっている。早苗の名前を書こうとして、私は万年筆の蓋を外した。
紙の中央へ、まず日付を書いた。
八月二十一日。
その下に、駅前。
さらに、早苗。
そこまで書いたところで、ペン先が止まった。
名前は書けた。三十年間、日記の中で避け続けた二文字が、紙の上ではあっけなく形になった。だが、名前を書いたことで、記憶まで戻ってくるわけではない。むしろ、名前の周りにあった空白が、いっそう広がった。
私は紙を机の左端へ移し、代わりに領収書の束を引き出した。
清掃事業所に勤めていた頃のものだ。日付順に並べていたはずだが、退職の日から何度も手に取ったせいで、何枚かの角がずれている。私は一枚ずつ取り出し、発行年月を確認し、机の上で揃えた。こうしていれば、思考も順番を守ってくれるような気がした。
平成八年八月二十一日。
その日付の領収書はなかった。火災の翌朝、現場の清掃に使った消耗品の記録も、別の束へ移されている。作業用手袋、吸水シート、消毒剤。どれも珍しいものではない。だが、同じ月の他の日の領収書と比べると、駅前分だけが一枚抜けていた。
抜けている。
それだけで、何かを示すわけではない。けれど、いまの私には、紙のない場所ほど目立った。
私は目を閉じた。
煙が見えた。
最初に戻ってきたのは、火そのものではなかった。煙だった。黒ではなく、灰色に近い煙。湿った夜気の中で、低く垂れこめ、駅前の看板を半分だけ隠していた。鼻の奥に、焼けた紙と溶けたプラスチックの匂いが入り込む。
誰かが叫んでいた。
声は一つではない。消防車を呼ぶ声、道を空けろと怒鳴る声、店の名前を呼ぶ声。何人もの声が重なって、意味を失った音の塊になっている。
その中に、早苗の声があった。
私は目を開けた。
手のひらが汗ばんでいる。領収書の紙が指に貼りつき、角が少し曲がった。
私はもう一度、目を閉じた。
駅前の時計が見えた。
白い文字盤。十一時四十七分。
時刻を見たのは、火災が起きる前だったのか、火が回ったあとだったのか。今の私には分からない。時計を見た記憶だけが、写真のように切り取られて残っている。
その下に、早苗がいた。
文具店の裏手に回る細い路地。表通りより暗く、建物の壁が煙を押し返していた。路地の奥に、黒い鉄の扉がある。扉の向こうから、何かが落ちる音がした。鉛筆か、金属の小箱か。軽いものが床を跳ねる音だった。
私は扉へ近づいた。
誰かの手が、隙間から伸びていた。
細い手首だった。袖口が濡れている。私はその腕を掴んだ。指の間に灰が入り、爪の脇がざらついた。手を引けば、外へ出せたはずだ。
はずだ。
記憶の中では、いつもそこで止まる。
私は椅子の背にもたれた。心臓が、胸の奥で遅れて鳴っている。掴んだ手の感触が、いまも指の節に残っていた。若い女性の腕だった。軽く、冷たく、力がなかった。
そのあとに、声がした。
低い男の声だった。
「安藤、離せ」
木村辰夫の声だ。
名前を思い出したときから、声の主も少しずつ形を持ちはじめていた。木村は火災当時、駅前商店街の世話役をしていた。誰かが困ると先に現場へ入り、誰かが責任を問われそうになると間に立った。人の前ではいつも穏やかで、断定を避け、最後には「まあ、そういうこともある」と言って場を終わらせる男だった。
あの夜も、彼はそうだった。
「消防を待て。中へ入れば、二人とも死ぬ」
私は扉の隙間を見ていた。
「中に人がいる」
「分かっている」
「なら、引き出す」
「分かっているから言っている」
木村の手が、私の肩へ伸びた。作業着の布が引かれた。私は腕を掴んだまま、扉の向こうの早苗を見ていた。煙が濃くなり、目が痛んだ。早苗は何か言っていた。声は届かなかった。口元だけが動いていた。
私は、もう一度引いた。
そのとき、背後から別の足音がした。
美佐子だった。
彼女は濡れた手で、私の作業着の袖を掴んだ。家にいるはずの時間だった。どうして駅前にいたのか、私は今も知らない。けれど、彼女の手が冷たかったことは覚えている。井戸水か、消火栓の水か、雨ではない何かで濡れていた。
「誠一、離して」
「早苗がいる」
「分かってる」
「なら、手を貸せ」
「だめ」
「なぜだ」
「火が回ってる」
「まだ間に合う」
「間に合わない」
美佐子の声は、私の耳元で震えていた。普段の彼女なら、声を震わせることはなかった。どれほど困っても、皿を洗い、湯を沸かし、必要なことだけを口にした。その彼女が、あの夜は息を乱していた。
「誠一、こっちへ来て」
「手を離せない」
「離して」
「早苗が――」
「その名前を言わないで」
私は手を離した。
離した瞬間の感触だけは、はっきりしている。
指の間から、袖が滑った。濡れた布が、皮膚を冷たく撫でた。鉄の扉が煙の向こうへ沈み、早苗の手が見えなくなった。私はもう一度掴もうとしたが、美佐子が私の胸へ身体を寄せ、両手で作業着を引いた。
そのあと、何が起きたのか。
火が扉の上部を舐めた。
誰かが消防車の到着を叫んだ。
木村が私を路地の外へ押し出した。
そこから先は、いくつもの記憶が重なっていた。私は戻ろうとしたのかもしれない。戻らなかったのかもしれない。戻れなかったという言葉だけで、長い年月を済ませようとしてきたのかもしれない。
私は机の上の紙を見た。
書かれた名前が、にじんでいた。涙ではない。汗か、万年筆のインクが湿気で浮いたのだろう。私は紙を持ち上げず、指先でその端を押さえた。
そこへ、美佐子の足音が近づいてきた。
床板が一枚鳴る。
私は慌てて領収書を束ねた。だが、日付の順番が崩れた。何枚かが床へ落ち、乾いた音を立てて散らばった。
「何をしているの」
戸口に美佐子が立っていた。
「思い出そうとしていた」
「そう」
「早苗のことを」
美佐子は、すぐには返事をしなかった。
彼女の目が、床に落ちた領収書へ向く。いつもなら、私より先に日付を確認し、順番を直すだろう。だが今夜は動かなかった。両手を身体の前で重ね、散らばった紙を見たまま立っている。
「あなた、手が濡れているわ」
私は自分の手を見た。汗で指先が光っていた。
「火事の夜のことを思い出した」
「そう」
「俺は、早苗の手を掴んだ」
美佐子は目を伏せた。
「掴んだあと、離した」
「ええ」
「お前が離せと言った」
「ええ」
「なぜだ」
美佐子は戸口から一歩だけ入った。書斎には、蚊取り線香の煙がまだ残っている。煙は窓から外へ流れず、机の周りで薄く滞っていた。
「あなたを助けるためよ」
「俺を?」
「あなたが中へ入れば、あなたも死んでいた」
「早苗は死んだ」
「分からないわ」
私は顔を上げた。
美佐子は、今度は私を見ていた。怖がっているのではない。言葉を出したあとに生じるものを、受け止めようとしている目だった。
「分からないと言うな」
「分からないものを、分かったようには言えないでしょう」
「新聞には、けが人なしとある」
「新聞が書いたことを、あなたは信じるの?」
「役場にも名前がない」
「名前がないから、いなかったことになるの?」
「では、早苗はどうなった」
「それを探しているのでしょう」
「お前は知っているのか」
美佐子はすぐには答えなかった。彼女の呼吸が、わずかに浅くなった。私はそれを見逃さなかった。長く暮らしてきた者には、怒りよりも、沈黙の前の息の変化の方がよく分かる。
「知っていることはある」
「話してくれ」
「今、ここで?」
「ここでなければどこで話す」
「あなたは、聞いたことをすぐに自分の中で順番にする。順番にして、私が言ったことを事実に変える。そうすると、私の記憶まであなたの記録へ入ってしまう」
「俺は、事実を知りたい」
「事実は、ひとつの形ではないわ。あなたが見たこと、私が見たこと、木村さんがしたこと、早苗さんが残したもの。それぞれが別の場所にある。あなたはそれを一枚の紙に押し込もうとする」
「押し込まなければ、また消える」
「消えないようにするために、あなたは日記を書いてきた。でも、書いたことで消したものもあるでしょう」
私は黙った。
美佐子は床の領収書を一枚拾い上げた。日付を見て、私へ渡す。私は受け取ったが、すぐに束へ戻せなかった。
「何を消した」
「あなた自身の中から」
「俺が?」
「あなたは、あの夜のあと、毎晩日記を書いた。最初の何年かは、何度も書き直していた。文章の途中で紙を破り、別の頁へ同じ日付を書き直した。早苗さんの名前を書いた頁もあった。けれど、翌朝には消えていた」
「お前が消したのか」
「いいえ」
「では誰が」
「あなた自身よ」
その言葉を聞いた瞬間、黒い万年筆の重さが手の中へ戻ってきた。
私は日記を書く前、必ず靴を揃えていた。机の上を整え、窓を少し開け、湯呑みを左手の届く場所へ置く。そうしてから、名前を書き、名前を消した。記憶が戻らないのではない。戻ってきたものを、自分で追い返していた。
「なぜ、止めなかった」
私は言った。
「なぜ、お前は俺が消すのを止めなかった」
美佐子の指が、拾った領収書の端をなぞった。
「止めたら、あなたは壊れると思った」
「壊れても、書くべきだった」
「そう言えるのは、今だからよ」
「三十年も黙っていた」
「あなたも黙っていたわ」
「俺は、何も知らなかった」
「知らないふりをしていた」
美佐子の声は大きくなかった。だが、逃げ道を塞ぐには十分だった。
「あなたは、あの夜から戻ってきたあと、私の顔を見て何も言わなかった。私が駅前にいたことも訊かなかった。私の袖が濡れていることも、あなたの作業着から煙の匂いがしたことも、早苗さんの名前を口にしかけてやめたことも、全部見ていたのに、見なかったことにした。あなたがそうしたから、私も黙った。あなたが日記を閉じたから、私も戸棚を閉めた。それを三十年続けて、いまさら私だけが沈黙を破れば、あなたは私の言葉を正しい記録として使うでしょう」
私は床へ視線を落とした。
領収書は、まだ数枚散らばっている。日付はばらばらで、順番が崩れていた。私は手を伸ばして、一枚を拾った。次の一枚を探そうとして、やめた。
今夜は、揃えなくてもいい気がした。
「早苗は、生きているかもしれない」
美佐子が言った。
私は顔を上げた。
「何を根拠に」
「根拠なんてないわ。ただ、名前が記録から消えたことと、死んだことは同じではないでしょう」
「火の中にいた」
「あなたが見たのは、手と煙と扉だけよ。早苗さんの死を見たわけではない」
「では、なぜ町は名前を消した」
「木村さんに訊いて」
「お前は何を知っている」
「知っているのは、あなたがあの夜、何度も戻ろうとしたこと。私はそれを止めたこと。そして、あなたが翌朝から、早苗さんの名前を日記に書いては消し続けたこと。それだけ」
「それだけで三十年、黙っていたのか」
「それだけではなかったからよ」
美佐子は、机の上の「早苗」という文字を見た。
「私も、名前を呼ばなかった。呼べば、あなたが戻れなくなると思った。あなたが暮らしを続けられなくなると思った。だから、朝になれば弁当を作り、夜になれば茶を淹れ、あなたが日記を書き終えるまで待った。そうしているうちに、守ることが習慣になった。習慣になった沈黙は、いつしか私自身の罪になったわ」
私は返事をしなかった。
美佐子が一歩近づいた。机を挟んでいるため、手を伸ばしてもまだ届かない距離だった。若い頃なら、そこを簡単に越えられただろう。今は、二人の間に三十年分の紙と沈黙が積まれている。
「日記を持っていったのは、お前か」
「ええ」
「どこへやった」
「まだ、言わない」
「なぜ」
「あなたが早苗さんの名前を、自分の声で呼べたから。日記を戻せば、あなたはまた紙へ逃げるでしょう。だから、もう少しだけ、紙のないところにいてほしいの」
「俺は逃げていたのか」
「逃げながら、暮らしを守っていたのよ」
その言葉は、赦しには聞こえなかった。けれど、断罪でもなかった。逃げていた事実と、守ろうとしていた時間が、同じ場所に置かれた。
私は机の上の紙を見た。
早苗。
たった二文字なのに、これまでの三十年を押し返す力があった。私はその名前の前に、「見捨てた」と書こうとして、万年筆を置いた。
まだ、そう言うには早い。
見捨てたのかもしれない。助けられなかったのかもしれない。助けようとして戻らなかったのかもしれない。どの言葉も、私の行動の一部しか覆っていない。
だから、今夜は決めなかった。
私は散らばった領収書を拾い集めた。けれど、順番には戻さず、机の端へ重ねただけにした。
美佐子がそれを見ていた。
「揃えないのね」
「今は、揃えない」
「そう」
「早苗のことを、木村に訊く」
「ええ」
「お前も一緒に来てくれ」
美佐子はすぐに答えなかった。
障子の隙間から、海風が入ってきた。蚊取り線香の煙がふたつに分かれ、ひとつは窓の外へ、もうひとつは机の上へ流れた。美佐子はその煙を目で追い、それから私を見た。
「分かったわ」
短い返事だった。
けれど、その声には、長いあいだ閉じていた戸を少しだけ開ける音が含まれていた。
私は「早苗」と書いた紙を、引き出しへしまわなかった。万年筆の横に置き、紙の角も揃えなかった。
夜の家は静かだった。
水道管の奥で水が動き、坂の下を車が一台通り過ぎ、障子が風にふくらんだ。美佐子が床へ落ちた最後の領収書を拾い、私の手元へ置く。
その指が、私の指先に触れた。
ほんの一瞬だった。
私は今度も、手をつかまなかった。代わりに、触れた場所を引かずにそのままにした。
紙の上の名前は、まだ空白に囲まれている。
それでも、煙の向こうにいた人を、私は初めて見失わずに済んだ。
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