第7話 駅前に残る空白

駅前は、明るすぎた。
午後五時を過ぎ、日は徐々に西へ傾いているはずなのに、再開発された広場には夕焼けの影が薄い。真新しい舗装は白に近いグレーで、街路樹の若木は等間隔に整列し、風に揺れる葉の音まで人工的に聞こえる。子どもが二人、自転車で広場を横切っていった。買い物帰りらしい女がビニール袋を提げ、袋の中の卵のパックが規則正しく揺れている。
三十年前、ここで火が出た。
その事実が、今の私にはひどく信じがたく思えた。
私は広場の中央に立ち、隆から借りた古い地図を広げた。紙は薄く、折り目に沿って何か所も破れかけている。地図の中の駅前は、今よりずっと入り組んでいた。細い路地が網の目のように広場を埋め、工場から港へ向かう道と、商店街から駅へ向かう道が、複雑に交差していた。
「消火栓は、確かここだ」
隆は地図の一点を指でなぞった。今、その場所には円形のベンチが置かれている。座面はまだ新しく、誰も座っていない。私はそのベンチの前に立ち、足元を見た。
アスファルトの下に、何かがある気がした。
もちろん、実際にはただの地面だ。三十年の間に、掘り返され、埋め直され、また舗装し直されている。かつてそこにあったものの痕跡など、物理的にはとうに消え去っているはずだった。それでも私の足の裏は、今の平らな地面と、記憶の中の凹凸のある地面との、微妙なずれを感じ取っているような気がしてならなかった。
「千代さんの写真帖では、このあたりに文具店があったはずだ」
私は千代から借りた写真帖の複写を取り出した。焼けて黒ずむ前の、細い間口の店。軒先には色鉛筆の束が吊り下げられ、ガラスケースの中に万年筆が並んでいる。硝子戸には白い文字で店名が書かれていたが、写真が古いせいで判読できなかった。
「見えるか、誠一」
隆の声が、私を写真から現実へ引き戻した。
「何がだ」
「今の広場と、この写真の路地を重ねてみろ。お前の足が今立っている場所は、写真で言えばどこになる」
私は写真の中の路地と、目の前の広場を交互に見比べた。工場帰りの人の流れがあった道。消火栓のあった角。駅へ向かう狭い歩道。それらを一つずつ地面に描き足していくと、今の広々とした広場の下から、別の町がゆっくりと浮かび上がってくるようだった。
文具店は、私が今立っている場所から、十数歩先にあったはずだ。
私はその方向へ歩いた。
一歩ごとに、足の裏の感覚が変わっていく。今のアスファルトは硬く、均一だ。だが記憶の中の路地は、雨の後にぬかるみ、夏には照り返しで熱く、冬には霜で滑った。足が覚えている歩幅は、今この広場を歩くときの歩幅より、明らかに狭かった。人は、道の形に合わせて歩き方を変える。道が変われば、歩き方も変わるはずなのに、身体の奥底には、消えたはずの道の記憶がまだ残っている。
私は立ち止まった。
そこは、ちょうど広場の端、街路樹の一本の根元にあたる場所だった。
由紀の言葉が、耳の奥で繰り返される。
――誠一さん、あんたはあの夜、真っすぐ帰ってないよ。
美佐子の言葉も。
――あなたは、戻ったのよ。文具店の裏から。
私はしゃがみ込み、街路樹の根元の土を見た。乾いた土は白っぽく、まだ根付いて日の浅い若木のせいで、周囲より柔らかい。掘り返せば何か出てくるかもしれない。そんな馬鹿げた考えが頭をよぎったが、私はすぐにそれを打ち消した。ここにあるのは、もう何もない。あるのは、私の記憶の中だけだ。
「誠一」
隆が私の肩に軽く触れた。
「何か思い出したか」
「まだだ」
「まだ、というのは、いずれ思い出すという意味か」
私は答えられなかった。
喉の奥に、何かが引っかかっている感覚があった。長い間、飲み込んだまま消化できずにいる小骨のようなものだ。それは名前の形をしていた。呼ぼうとするたび、舌の付け根で止まってしまう。呼べば何かが壊れる、そんな予感が、いつも先に立った。
私は目を閉じた。
瞼の裏に、写真帖で見た文具店の軒先が浮かぶ。色鉛筆の束、硝子戸に反射する街灯、その奥に、誰かの影があった。影はエプロンをつけ、棚の整理をしている。背は高くない。髪を後ろで結んでいる。顔は、まだ思い出せない。
けれど、声だけが蘇った。
「安藤さん、今日も遅くまでお勤めご苦労様です」
その声には、少し掠れた響きがあった。若い声だが、店番をする娘特有の、来客への丁寧な口調が滲んでいる。私は毎晩、仕事帰りにその文具店の前を通っていた。万年筆の替え芯を買うためだけではなく、その声を聞くためだったのかもしれない。そんな考えが、今更のように胸へ落ちてきて、私は自分自身に戸惑った。
「早苗さん」
口からこぼれた名前に、私自身が驚いた。
隆が振り向いた。
「今、何と言った」
「……早苗だ」
私は目を開けた。広場の白い舗装が、視界いっぱいに広がっている。子どもたちの自転車の音は、もう聞こえなくなっていた。買い物帰りの女も、いつの間にか広場を渡り終えている。
「文具店で働いていた女の名前だ。早苗という」
言葉にした瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。長年、日記の中で書きかけては、別の言葉に置き換えてきた名前だった。「駅前の店の人」「あの娘」「知り合い」。そうした曖昧な言い回しの奥に、私はこの二文字を三十年間、隠し続けていたのだ。
「隆、俺は覚えていた」
「何をだ」
「名前を。ずっと覚えていた。書けなかっただけだ」
隆は何も言わず、私の顔を見ていた。責める色はなかった。ただ、事実を一つ、記録の隅に書き留めるような、静かな目だった。
「思い出したことと、何があったかを思い出したことは別だ、と由紀は言ったんだろう」
「言った」
「なら、まだ半分だ」
私は頷いた。
名前を取り戻したことで、何かが解決したわけではない。むしろ、その名前が持つ重みが、これまで曖昧だった分だけ、はっきりと肩にのしかかってきた。早苗。三十年前のあの夜、文具店の裏にいたのは、彼女だったのだ。
私は写真帖の複写を、もう一度見た。
店の奥、黒い鉄の扉が写り込んでいる。その向こうに何があったのか、写真からは分からない。だが記憶の中で、その扉は焼け焦げ、蝶番が歪んでいた。
「戻るか」
隆が言った。
「もう暗くなる」
私は空を見上げた。日は西へ傾き、広場の白い舗装にも、ようやく赤みが差し始めていた。夏の終わりの夕焼けは、真夏ほど強くはない。むしろ、色褪せた布のような、淡い赤だった。潮の匂いを含んだ風が、街路樹の若葉を揺らしている。
私たちは広場を離れ、坂の方へ向かって歩き出した。
駅前を過ぎるとき、私はもう一度だけ振り返った。子どもたちの自転車も、買い物帰りの女も、もういない。ベンチには誰も座らず、街灯が一つ、点き始めていた。何もない、静かな広場だ。けれど、その静けさの底に、三十年前の声と煙と、名前だけが、確かに沈んでいた。
坂を上る足取りは、いつもより重かった。
自分の歩幅がいつもより狭いことに、私は途中で気づいた。まるで、記憶の中の狭い路地を歩く感覚のまま、今の広い坂道を歩いているようだった。身体は今ここにあるのに、足だけがまだ三十年前の道を踏んでいる。
「早苗という娘は」
隆が、坂の途中で口を開いた。
「役場の記録にも、新聞にも、名前が残っていなかった」
「ああ」
「なぜだと思う」
「分からない」
「本当に分からないのか。それとも、分からないことにしているのか」
私は答えられなかった。
海の方から、湿った風が坂を吹き上げてくる。その底に、乾いた焦げた匂いが混じっている気がした。実際には、そんな匂いがするはずはない。三十年前の火は、とうに消えている。それでも、鼻の奥に残る感覚だけは、消えなかった。
何を見なかったのか、ではない。
何を見ないまま、家へ帰ったのか。
その違いが、坂を上るごとに、背中へじわじわとのしかかってくる。安藤家の屋根が見え始めたとき、私は懐中時計を取り出し、蓋を開けた。針は相変わらず四時二十六分を指したまま止まっている。動かない針の下で、私はもう一度、その名前を口にした。
「早苗」
声は、坂道の風にすぐさらわれて消えた。
だが、消えたのは音だけだった。名前そのものは、もう二度と、私の中から失われることはないだろうと分かっていた。三十年間、書けなかった一行が、ようやく紙の外側で、私自身の声として存在し始めていた。
安藤家の窓に、明かりが一つ灯っている。美佐子が、書斎の灯りをつけたのだと分かった。彼女は、私が帰る時刻を、いつも足音より先に察している。今夜もきっと、玄関で私の顔を見た瞬間、何かを悟るだろう。
私は坂の途中で一度足を止め、深く息を吸った。
海の匂い、乾いた土の匂い、そして、まだ胸の底に残る、焦げた匂い。三十年前の夜と、今この瞬間が、坂の途中でわずかに重なっていた。
私は再び歩き出した。
今度は、狭い歩幅のままでよかった。それが、これから思い出さなければならないものの、ちょうどいい速さのような気がしたからだ。
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