第6話 押し入れの一冊

家へ戻ると、美佐子は何事もなかったように夕飯の後片づけをしていた。
流し台には、洗い終えた茶碗が伏せて並んでいる。欠けたものと欠けていないものが、いつもの順番で水切り籠に収まっていた。包丁は刃を内側へ向け、布巾は蛇腹に折ってから、台所の隅の木箱へしまわれている。水の匂いと、薄い煎茶の匂いが混ざっていた。
私は玄関で靴を脱いだ。右の靴の先が外へ開いていたが、直さずに廊下へ上がった。
美佐子は私の帰宅を音で知っていたはずだ。それでも振り向かなかった。蛇口を閉め、流し台の縁を一度拭き、それから新しい布巾を取り上げた。
「書斎に入ったか」
私が訊くと、美佐子は首を振った。
振り方は小さい。だが、迷いはなかった。
「入ってないわ」
「本当に?」
「ええ」
「日記が消えたあとも?」
「入っていない」
「なら、なぜそんな顔をする」
言ってから、訊くべきではなかったと思った。美佐子の顔には、驚きも恐怖もなかった。ただ、何かを長いあいだ待っていた人間の疲れがあった。待つことに慣れすぎて、待っている姿勢そのものが身体に残っている。
美佐子は返事をせず、布巾を二度折った。
「役場で、記録を見た」
「そう」
「火災の報告書に、削られた一行があった」
美佐子の手が止まった。
「文具店の裏手で、関係者一名の所在確認を行った。そこから先が消されていた」
「そう」
「古書店では、新聞の記事が短すぎると言われた。負傷者なし。名前なし。余白だけが残っていた」
「そう」
「由紀は、俺があの夜、まっすぐ帰っていないと言った。作業着の袖が濡れていて、靴の底に灰がついていた。駅前清掃の記録写真を、俺が持っていたはずだとも言った」
美佐子は布巾を畳み終えた。畳み終えたのに、また広げた。
「それで?」
「お前は、何を知っている」
美佐子は答えなかった。
台所の時計が、一定の間隔で時を刻んでいる。窓の外では、夕方の風が電線を擦っていた。坂を下る車の音が近づき、家の前を通り過ぎ、やがて海の方へ消えていく。
「お茶を淹れるわ」
「今はいらない」
「あなたは、そう言うときほど飲むでしょう」
「質問に答えてくれ」
「答えたら、あなたはその答えを並べる。役場の記録の隣に置いて、新聞の余白に重ねて、由紀さんの言葉と比べて、最後には一つの形にする。あなたは、そうやってしか物事を受け取れないから」
「それの何が悪い」
「形にできないものまで、形にしてしまうことよ」
美佐子は急須を取り上げた。茶葉を入れ、湯を注ぐ。蓋を閉じる指先が、いつもより慎重だった。私は卓袱台の前に座った。椅子を引く音が床板を擦り、美佐子の肩が小さく揺れた。
湯呑みが一つ、私の前に置かれた。
「日記を探すのは、もうやめて」
「やめない」
「戻ってこないわ」
「それでも探す」
「何のために?」
「何を書いたのか確かめるためだ」
「書いたものを確かめて、書かなかったものが分かるの?」
私は湯呑みへ手を伸ばした。指先が器の縁に触れた。熱くはなかった。美佐子は、私がすぐには口をつけないことを知っている。茶はいつも少し冷ましてから出す。
「日記には、俺の三十年がある」
「あなたの三十年だけではないわ」
「どういう意味だ」
「日記を書くために、誰かが灯りを消さずに待っていた夜がある。あなたが書き終わるまで、洗い物を残していた夜がある。あなたが何も書けずに机の前で固まっているとき、声をかけずに階段を下りた人間もいる。書かれた文字の周りには、書いていない人の時間もあるのよ」
「お前のことか」
「私だけじゃないわ」
「なら、誰のことだ」
「だから、探さないでと言っているの」
声は低かったが、拒絶ではなかった。むしろ、そこに踏み込めば二人とも戻れなくなるという、ぎりぎりの制止に聞こえた。
私は茶を飲んだ。薄い渋みが舌に広がった。喉を通るまでに、ひどく時間がかかった。
「一冊だけ、残っている」
美佐子が言った。
私は湯呑みを置いた。
「何が?」
「日記」
美佐子は立ち上がった。椅子を引く音をさせないように、足を少し持ち上げてから動いた。長年この家で暮らしてきた人間だけができる、床板を鳴らさない歩き方だった。
「どこにある」
「押し入れ」
「なぜ、そこに」
「書斎に置けなかったから」
「いつから?」
「ずっと」
「消えた三十年分のうちの一冊か」
美佐子は返事をしなかった。
居間の押し入れを開ける音がした。襖の下を滑る木の音。中から布団を動かす気配。私は立ち上がり、彼女のあとを追った。
押し入れの中には、夏用の薄い布団、使わなくなった扇風機、古い座布団、箱に入れた年賀状が積まれていた。美佐子は一番下の布団を手前へ引き、奥にある木箱へ手を伸ばした。
木箱には、書斎のものと同じように角の欠けた跡があった。ただし、こちらは美佐子が包装紙ではなく、青い布で補修している。布の端はほつれていたが、縫い目は細かく揃っていた。
美佐子は蓋を開ける前に、表面を手のひらで拭いた。
「触っていいのか」
「あなたのものよ」
「だったら、なぜ隠した」
「隠したのではなく、置いたの」
「同じだ」
「あなたにはね」
木箱の中には、古い便箋の束と、裁縫箱、それから黒い表紙の日記帳が一冊入っていた。表紙の角は擦れて白くなっている。背表紙には、私の字で小さく年度が記されていた。
三十年前のものだった。
私は手を伸ばしかけた。
美佐子が先に日記帳を取り上げた。
「読むなら、ここで読んで」
「書斎へ持っていく」
「だめ」
「なぜだ」
「書斎に持っていくと、あなたは机へ座るでしょう。鉛筆を並べて、万年筆を置いて、紙の角を揃えて、それから読む。そうすると、また記録を読む姿勢になる」
「日記を読むのに姿勢があるのか」
「あなたにはあるわ」
美佐子は日記帳を卓袱台へ置いた。
私は向かいに座った。日記帳は、見た目より重かった。消えた日記の引き出しは軽くなったのに、この一冊だけは手のひらへ沈んだ。紙の重さではない。開く前から、書かれたものがこちらを見返しているようだった。
「鍵は?」
「かかっていない」
「お前が開けたのか」
「何度か」
「俺に黙って?」
「あなたが書いたものを、あなたに黙って読むのが悪いことなら、私は三十年の間に何度も悪いことをしたわ」
美佐子の声に、初めてわずかな棘が混じった。
「でも、あなたは日記を人に読ませるために書いていなかった。だから私は、読んだことを言わなかった。あなたが書いたものを、あなた自身が忘れていることもあったし、書いた直後に消しゴムで削った跡だけを見つけたこともあった。そういうものを、いちいち問いただしていたら、この家は暮らす場所ではなく、取り調べをする場所になっていたでしょう」
「お前は、俺を守ったつもりか」
「そう思っていた時期もあるわ」
「今は違うのか」
「今は分からない」
美佐子は日記帳の表紙に手を置いた。細い指の関節が白く浮いている。紙を扱うときの手つきはいつも丁寧なのに、今日は指先がわずかに震えていた。
「守ることと、隠すことは、最初は違うものだった。でも長く続けると、境目がなくなるの。あなたが日記を書き続けるほど、私はあなたに何も訊けなくなった。訊けば、あなたは答えを探して、紙に書く。書いたものは残る。残ったものは、いつか誰かに見つかる。だから、黙っていた」
「日記を消したのも、そのためか」
「消したのではないわ」
「持ち出した」
「ええ」
「どこへ」
美佐子は答えなかった。
その代わり、日記帳を私の前へ押し出した。
私は表紙を開いた。
最初の頁には、日付と天気が書かれている。三十年前の夏。仕事、帰宅、夕食。短い文章が規則正しく続いていた。文字は今より細く、筆圧も軽い。私は頁をめくった。
八月十五日。
清掃事業所。午前、港側の道路清掃。午後、工場跡地の粗大ごみ回収。帰宅二十時十七分。夕食、鯖。
八月十六日。
晴れ。暑い。駅前の植木が枯れている。帰宅二十時三分。
八月十七日。
通常勤務。帰宅十九時五十五分。美佐子、喉が痛いと言う。
どの頁も、几帳面に整っている。日付の位置は揃い、文章の長さも大きく変わらない。私は読みながら、当時の家の匂いを思い出した。畳の湿気、洗濯物に残った石鹸、夜遅くに美佐子が淹れてくれた番茶。
八月十八日。
駅前の文具店で、替え芯を買う。
その一行を見たとき、胸の奥が軽く跳ねた。
「文具店へ行っていた」
「書いてあるわね」
「なぜ、今まで覚えていなかった」
「覚えていたから、見なかったのかもしれない」
「意味が分からない」
「忘れたことにしているものは、思い出すより、見つけない方が楽なのよ」
私は頁をめくった。
八月十九日。
雨。帰宅後、日記を書く。駅前の路地に水が溜まる。
八月二十日。
勤務。特に変わりなし。
その翌頁を開いた。
八月二十一日。
頁の上部に、日付だけがあった。
天気の記述はない。仕事の記録もない。帰宅時刻も、夕食の内容もない。日付の下には、黒い線が三本、横へ引かれている。文章を書こうとして、途中で止めたような線だった。
私は指でその線をなぞった。
筆圧が強い。紙の裏側へ食い込むほどだった。普段の字は、紙の上を滑るように進んでいる。この頁だけは、ペン先が紙を押し潰していた。
「こんなふうに書いていたのか」
口に出したのは、それだけだった。
美佐子は答えなかった。
私は次の頁をめくった。
八月二十二日。
朝、晴れ。駅前火災。けが人なし。勤務、通常。帰宅二十時四十分。
そこには、整った文字でそう書かれていた。
私はしばらく、頁から目を離せなかった。
「けが人なし」
声にすると、言葉の薄さがよく分かった。

「新聞にも同じことがあった」
「そうね」
「だが、役場の記録には、文具店の裏手で関係者一名の所在確認とある」
「そうね」
「この日記には、何もない」
「八月二十一日の頁には、何もないわ」
「翌日に、けが人なしと書いている」
「書いたのはあなたよ」
「俺は、何を見てそう書いた」
美佐子は湯呑みを持ち上げた。口をつけず、両手で包んでいる。茶はすでに冷めているはずだった。
「あなたは、誰かにそう言われたのかもしれない」
「誰に?」
「木村さんかもしれない。職場の誰かかもしれない。消防の人かもしれない。私は知らない」
「知っている顔をしている」
「顔で人を決めつけないで」
「お前は、あの夜、駅前にいたのか」
美佐子の指が湯呑みの縁から離れた。
沈黙が、食卓の上へ静かに降りた。外で風が障子を押している。押し入れの奥から、古い布団の匂いがする。日記帳の紙は乾いていて、指先の水分をすぐに奪った。
「いたわ」
美佐子が言った。
「何をしに」
「あなたを探しに」
「俺を?」
「あなたが帰ってこなかったから」
「俺は帰った」
「その前に、探したの」
「なぜ、俺が駅前にいると知っていた」
「知っていたわけではないわ。あなたが火事の音を聞いたら、現場へ行くと思っただけ」
「仕事でもないのに?」
「あなたは、片づいていないものを見ると、放っておけないでしょう」
その言葉は、昔の私を責めているようで、同時に知り尽くした者の親しさを含んでいた。
「駅前で何を見た」
「煙を見た。人を見た。あなたを見つけた」
「俺はどこにいた」
「文具店の裏」
私は息を吸った。
「誰かと一緒だったか」
「一緒ではなかった」
「では、何をしていた」
「あなたに訊いているの」
私は日記帳へ目を落とした。八月二十一日の頁には、黒い線が三本あるだけだった。その線の間に、文字にならなかった言葉が押し込まれているように見える。
「俺は、誰かを助けようとした」
美佐子は答えなかった。
「由紀がそう言った。途中までは助けようとした。そこから戻ったと」
「由紀さんは、何を知っているの」
「俺が戻ったことを知っている」
「戻った?」
「お前も、そう言っただろう。俺があの夜に置いてきたものを探せと」
美佐子は目を伏せた。
「あなたは、戻ったのよ」
「どこから」
「文具店の裏から」
「何を置いてきた」
「それは、私から言わない」
「なぜだ」
「あなたが言葉にしなければ、また私の言葉を借りて逃げるから」
私は拳を握った。爪が掌へ食い込む。声を荒らげる気にはなれなかった。怒りを声にすれば、目の前の日記帳を閉じてしまう気がした。
「俺は、誰かを見捨てたのか」
美佐子はすぐには返事をしなかった。
この家で、彼女が答えを遅らせるとき、その答えはたいてい簡単ではない。言えば壊れるのではなく、言ったあとに戻せない。だから、言葉を置く場所を探している。
「見捨てた、という言葉は便利ね」
「便利?」
「誰かを見捨てたと言えば、そこに一人分の罪を置けるでしょう。あなたは悪かった。私は黙っていた。木村さんは隠した。町は忘れた。そうやって、それぞれに名前をつければ、話は片づいたように見える。でも、あの夜にあったのは、もっと始末の悪いことよ。誰もが少しずつ判断して、少しずつ待って、少しずつ目を逸らした。その積み重ねで、戻れない時間になった」
「俺も、その一人だった」
「ええ」
美佐子は否定しなかった。
その一言が、胸の中へ重く落ちた。責められるより、否定されないことの方が苦しかった。
「あなた一人ではない。でも、あなたが何もしていないわけでもない」
「何をした」
「それを思い出すために、日記を持ち出したの」
私は日記帳を閉じようとした。
美佐子が手を添えた。
「まだ閉じないで」
「もう読むものはない」
「あるわ」
彼女は八月二十一日の頁を指した。
「ここを、もう一度見て」
私は頁を見た。
黒い三本の線。その下に、よく見ると細い文字の跡が残っている。消しゴムで削ったのではない。何度も書き直したため、紙の表面が毛羽立っていた。角度を変えると、文字の影が浮かぶ。
私は机の明かりを求めて、立ち上がった。
美佐子は止めなかった。
書斎へ行き、机の照明を持って戻る。コードが廊下の敷居に引っかかり、私は一度立ち止まった。美佐子が無言でコードを持ち上げた。私はその手の下をくぐるようにして歩いた。
卓袱台の上へ照明を置く。
斜めから光を当てると、削られた文字の一部が見えた。
「文具店」
その下に、もう一つの文字。
「裏」
さらに続いていたはずだが、そこから先は黒い線で塗り潰されている。
私は息を止めた。
紙の中から、焦げた匂いが戻ってきた。煙、濡れた袖、床に散らばった鉛筆。黒い鉄の扉の向こうから聞こえた、細い声。
まだ中にいる。
私はペンを握っていた。
違う。握っていたのは、誰かの手だった。細く、冷たく、灰のざらつきがあった。私はその手首を掴んだ。引けば、外へ出せたかもしれない。
だが、背後から木村の声がした。
まだ消防が来ていない。中へ入るな。
私は手を離した。
記憶はそこまでで途切れた。
私は椅子へ腰を下ろした。膝が、自分のものではないように重かった。
「今、思い出したのね」
美佐子が言った。
「まだ全部ではない」
「全部でなくていいわ」
「俺は、手を離した」
「そう」
「なぜ、止めなかった」
「止めたわ」
「何を」
「あの夜、あなたがもう一度戻ろうとしたときに」
私は顔を上げた。
「戻ろうとした?」
「あなたは一度、外へ出た。木村さんが消防へ知らせると言ったから。けれど、火が回る前にもう一度入ろうとした。私はあなたの作業着を掴んだ。あなたは振り払った。だから袖が濡れていたのよ。私の手が、井戸の水で濡れていたから」
「お前がいたのか」
「いたわ」
「それで、どうなった」
「あなたは戻らなかった」
「戻れなかったのか。戻らなかったのか」
美佐子は答えなかった。
その沈黙が、答えより正確に私へ届いた。
日記帳の頁には、まだ黒い線が残っている。私はそこへ指を置いた。紙の表面は傷つき、ところどころ毛羽立っていた。書き直したのではない。書いたことそのものを、なかったことにしようとした跡だった。
「こんなふうに書いていたのか」
もう一度、私は言った。
今度は、美佐子が返した。
「書いたというより、消そうとしていたのよ」
私は日記帳を閉じた。
美佐子はすぐには木箱へ戻さなかった。代わりに、空いた押し入れの前へ歩き、布団の端を整えた。崩れてもいないのに、何度も手を入れる。家の中のものを整えることでしか、彼女は崩れたものに触れられない。
「この一冊は、どうする」
私が訊くと、美佐子は振り向かなかった。
「あなたが持っていて」
「いいのか」
「もう、私が持っていても意味がないから」
「日記を消したのは、お前だな」
美佐子はしばらく押し入れの中を見ていた。
「ええ」
「どこへ持っていった」
「答えたくない」
「なぜ」
「あなたが探すから」
「探す」
「日記を取り戻すためではなく、そこに書かれていないことを確かめるために?」
「そうだ」
「なら、いつか分かるわ」
美佐子はそう言って、押し入れの襖を閉めた。
音は静かだった。木と木が触れる音が、夜の家に小さく残った。
私は日記帳を木箱へ戻した。完全には収めず、表紙が少しだけ外へ出るようにしておいた。元の位置へ戻すことが、今は怖かった。戻せば、今日見た頁まで押し入れの奥へ閉じ込めてしまう気がした。
美佐子が書斎の戸へ手をかけた。
閉める前に、一度だけ中を見る。
いつもの癖だった。
机の上には、消えた日記帳のための空いた場所があり、斜めになった鉛筆が一本残っている。美佐子はその鉛筆にも、引き出しにも触れなかった。
私はその横顔を見た。
守るための沈黙と、見過ごしてきた罪。その境目は、紙の傷のように細く、しかし一度つけば消えないものだった。
日記は記録であると同時に、避けるための器だった。
私はその事実を、今度は文字ではなく、自分の手で持ち上げた気がした。
← 横にスクロールして読み進められます
