5話 食い違う時計

古書店を出ると、潮江市の午後は、朝よりも輪郭を失っていた。

通りの上に張り出した庇が陽を遮り、古い商店街の奥には薄い影が溜まっている。再開発地区から流れてくる風は乾いていたが、海に近づくにつれて湿り気を増し、シャツの背中へゆっくり貼りついた。私は歩きながら、胸ポケットの封筒を何度も指で確かめた。

紙一枚の入っていない封筒だった。

それなのに、そこには確かに重さがあった。八月二十一日。文具店の裏。消された名前の一部。古書店の千代は、それ以上を言わなかった。言わないというより、私が自分で辿り着くまで、言葉を置く場所を空けていた。

隣を歩く隆は、駅前から坂の方へ続く道を、私より少し早い歩幅で進んでいた。古い手帳を胸ポケットに入れ、片手には役場で写しを申請した資料の控えを持っている。歩きながら、時折、紙の角を確認していた。

「お前は、懐中時計を持っているか」

私が訊くと、隆はすぐには答えなかった。

「持っているか、というのは?」

「駅前火災の夜の時刻を、時計で確かめたことがあるか」

「当時の記録なら見た。現場の時計を直接見たわけじゃない」

「俺は見た」

「何を」

「駅前の時計だ。十一時四十七分だった」

隆は足を止めなかった。だが、左手の指が資料の端を二度叩いた。

「それは、いつの記憶だ」

「火災の夜だ」

「今の記憶か。三十年前の記憶か」

「同じだろう」

「同じではない。今思い出したことと、当時見たことは分けろ」

私は答えず、坂の下を見た。

駅前広場には、新しい街路樹が等間隔に植えられている。木々の根元には白い石が敷かれ、風が吹くたび細かな砂が靴先へ寄ってくる。昔はそこに、文具店の看板や、魚屋の発泡スチロール箱や、工場帰りの男たちの自転車があった。今の広場は整っている。整いすぎていて、何かを置き忘れる余地がない。

「記録にある時刻は、十一時五十二分だった」

隆が言った。

「何の時刻だ」

「最初の通報を受けた時刻」

「俺の記憶と五分違う」

「五分は小さいか」

「時計なら、小さい」

「人が火の中にいる場合は?」

隆はそこで初めて私を見た。

「五分は、時計の針のずれじゃない。誰かが戻れるか、戻れないかを分ける時間になる」

胸の奥が狭くなった。

私は懐中時計を取り出した。退職祝いの日、職場の所長から手渡された古い品だった。蓋には細かな傷があり、裏側には、退職年月日が簡単に刻まれている。開くと、針は四時二十六分で止まっていた。数年前に電池が切れたまま、修理にも出していない。

「それで何を確かめる」

「時間だ」

「止まった時計で?」

「止まっていても、時計には針がある」

「針があるだけで、時間は分からん」

「だから、記憶と照合する」

隆は短く息を吐いた。

「それは照合ではなく、記憶に時計を合わせる作業だ」

私は懐中時計を閉じた。金属の蓋が小さく鳴る。音は乾いていて、古い部屋の中で誰かが戸を閉めたときのようだった。

安藤家に戻ると、美佐子は台所にいた。

玄関を開ける前から、布巾を絞る音が聞こえていた。水を切るたび、布の中の空気が押し出される。私は靴を脱ぎ、いつものように揃えようとした。右の靴の先が少し外へ向いていたが、直す前に美佐子の声がした。

「どこへ行ってたの」

責める声ではなかった。

ただ、私がどこから戻ってきたのかを確かめる声だった。美佐子は人が帰宅したとき、最初に顔を見るのではなく、靴の裏と袖口を見る。家の外のものをどれだけ持ち込んだか、音と匂いで測るのだ。

「役場と、古書店」

「そう」

美佐子は布巾を一度折り、もう一度折り直した。今朝よりも折り目が細かい。折り畳むというより、布の中に何かを押し込んでいるように見えた。

「千代さんのところね」

「お前が話したのか」

「話していないわ」

「では、なぜ分かる」

「あなたが古い紙を持って帰るときは、歩き方が変わるから」

私は返事をしなかった。

台所の卓袱台には、朝使った茶碗が二つ置かれていた。一つはいつもの場所にあり、もう一つは半歩だけ内側へ寄っている。美佐子が何かを考えているとき、茶碗は少しずつ奥へ動く。落とさないためなのか、手が当たらないようにするためなのか、私はまだ分からない。

「火災の日の記録を、並べてみる」

「ここで?」

「書斎で」

「何を並べるの」

「日記の写し。工場の記録。新聞。役場の火災報告」

美佐子の手が止まった。

「日記の写しなんて、あったの」

「由紀に見せてもらった」

「そう」

「お前は知っていたのか」

「あなたが何を書いていたかは、全部ではないけれど知っているわ」

「写しがあることを?」

「それは知らない」

美佐子はそう言ったが、目を上げなかった。知らないという言葉が、彼女の中でどこまでを指しているのか、私にはもう分からなくなっていた。

書斎へ上がり、机の上を空けた。日記帳そのものは消えている。代わりに由紀から借りた古い手帳のコピーと、隆が役場で写した時刻表、新聞記事の複写を並べた。紙の端を揃える。左から日付、時刻、場所。仕事で使っていた方法だった。

私は黒い万年筆を机の上へ置いた。

その隣に、懐中時計を開いたまま置く。

「その時計、まだ動くの」

背後から美佐子の声がした。

「止まっている」

「いつから?」

「三年前だ」

「火災のときは?」

「動いていた」

「そう」

彼女は書斎へ入りすぎないよう、戸口に立ったままだった。そこから机の上を見ている。日記帳のあった引き出し、斜めの鉛筆、封筒の切り抜き。何がどこにあるかを誰よりも知っている人間の目だった。

「十一時四十七分」

私は言った。

「火事の夜、駅前の時計はその時刻を指していた」

「そう思っているのね」

「見た」

「あなたは、時計を見たあと、誰かに時刻を訊いた?」

「覚えていない」

「なら、時計を見たことと、十一時四十七分だったことは別でしょう」

私は紙を一枚、机の中央へ置いた。

「これは、俺の日記の写しだ。八月二十一日の夜の記述は、こうなっている。『二十三時五十分、帰宅。雨。火事のため駅前が混雑していた』」

「雨は降っていないわ」

美佐子はすぐに言った。

私は顔を上げた。

「何?」

「その夜、雨は降っていない。窓を開けていたから、風の匂いまで覚えている。火事の煙が家の中へ入ってきて、あなたは二階の窓を閉めた。雨なら、そんな匂いにはならない」

「日記に雨とある」

「だから、あなたが書いたのは、その夜のことではないのかもしれない」

私は紙を見た。自分の筆跡だった。数字の書き方も、句読点の位置も、三十年前の自分のものだ。けれど、書かれた内容が現実と違う。

「翌日の天気を混ぜたのかもしれない」

「そうかもしれないわ」

「記憶違いだ」

「そうかもしれない」

「では、他には何がある」

「それを、あなたが確かめるのでしょう」

美佐子は問いに答えず、窓を少し開けた。海からの風が入り、紙の束の端が揺れた。彼女は飛びそうになった複写紙を押さえたが、そこに書かれた文字は読まなかった。

「私が言うと、あなたはまた私の言葉を記録にする」

「記録しない」

「しないつもりでも、あなたは順番を作るわ。誰が何を言ったか、何時に何が起きたか。そうやって、話した人間の顔まで紙の上に並べる」

「それの何が悪い」

「悪いとは言っていない。ただ、順番に並べると、並ばなかったものが見えなくなるのよ」

彼女は戸口へ戻った。

「その夜、あなたは一度も日記を書いていない」

私は万年筆を見た。

「書いたはずだ」

「書いていない」

「写しがある」

「その頁は、翌朝に書いたものよ」

「なぜ分かる」

「インクの乾き方を見たから」

美佐子は淡々と話した。

「あなたは夜に書くとき、必ず左手を紙の下へ置くでしょう。書いたばかりの頁に手の油が残る。あの頁にはそれがなかった。紙の端も、翌朝に書いた頁と同じように乾いていた。あなたは朝、眠れないまま書いたの。夜のことを思い出したのではなく、夜を終わらせるために、あとから形を作った」

「そんなことまで見ていたのか」

「毎日、あなたのそばにいたもの」

責められているわけではない。それが分かるから、余計に苦しかった。

私はコピーを日付順に並べ直した。二十三時五十分、帰宅。駅前が混雑。雨。火事の詳細なし。翌年の八月二十一日には、前年の記述をほとんど写すように、「駅前火災、けが人なし」とある。その次の年は、「駅前、異常なし」。さらに翌年は、「通常勤務」。年月が進むほど、言葉が短くなっていた。

私は知らないうちに、火災の記録を薄くしていた。

美佐子が階下へ下りたあと、私は隆へ電話をかけた。呼び出し音が四度鳴ってから、隆が出た。

「どうした」

「記録の時刻が合わない」

「どの記録とどの記録だ」

「俺の日記では二十三時五十分に帰宅している。工場の閉門記録では、二十三時五十五分まで俺の名前が残っている」

「五分差か」

「それだけではない。火災の通報時刻は十一時五十二分だが、俺は十一時四十七分に駅前の時計を見た」

「その五分間、何をしていた」

「分からない」

「では、分からない時間として扱え」

「俺は現場にいた。文具店の裏にいた」

「それは誰から聞いた」

「役場の記録にある」

「お前自身が見たのか」

「……記憶にある」

「記憶は証拠にならんと言っているんじゃない。ただ、記憶だけで時刻を決めるな。見た、聞いた、書かれている。この三つを一緒にするから、話が崩れる」

電話の向こうで、隆が紙をめくる音がした。

「お前の工場の閉門記録、誰が作った」

「当直の職員だ」

「その職員は、退勤時刻ではなく、構内の最終確認時刻を書いている可能性がある」

「なら、俺がそこにいたとは限らない」

「逆に、日記の二十三時五十分が正しいとも限らない」

「何も決まらないじゃないか」

「そうだ。だから調べる」

隆の声は低かったが、急かす気配はなかった。

「お前は、ずれを埋めようとしすぎる。ずれは、今のところずれたまま置け。そこに何かがある」

「何か?」

「人が時間を間違える理由だ。時計の故障、記録の書き違い、記憶の混同。それから、書けなかったこと」

私は電話を切った。

外は夕方になっていた。窓から見える海は、光を失いかけた金属のように鈍く光っている。坂道を下る人の影が長く伸び、電線の上で鳴く鳥の声が、町の隙間に吸い込まれていった。

私は由紀へ電話をかけた。

彼女はすぐに出た。

「誠一さん? どうしたの。退職した翌日から電話なんて、もう暇を持て余してるの?」

「訊きたいことがある」

「日記のこと?」

「火災の日、俺は職場から真っすぐ帰ったのか」

由紀は黙った。

電話の向こうで、何かを机へ置く音がした。紙か、湯呑みか。彼女は話す前に手元のものをいったん置く癖がある。

「それ、私に訊く?」

「記録と違う」

「記録は何て書いてあるの」

「二十三時五十分に帰宅」

「帰宅時間を訊いているんじゃない。職場を出た時間を訊いているの」

「分からない」

「そうでしょうね」

由紀の声は、いつものように歯切れがよかった。ただ、核心に触れる前の間だけが長かった。

「誠一さん、あんたはあの夜、真っすぐ帰ってないよ」

「どこへ行った」

「駅前」

「火事を見に?」

「見に行ったんじゃない。呼ばれたの」

「誰に」

「それを私が知っていると思う?」

「何か知っているから言ったんだろう」

「知っているんじゃない。職場でそういう話になっていたの。翌朝、あんたが来たとき、作業着の袖が濡れていた。雨は降ってなかったのにね。靴の底には黒い灰がついていた。私は覚えてる」

私は自分の袖口を見た。古い記憶の中で、濡れた布が肌に張りついている。

「なぜ、誰も言わなかった」

「言ったところで、誰が聞いたのよ」

「俺は?」

「あなたは聞かなかった」

由紀の声が少し低くなった。

「誠一さん、あんたは昔から、誰かが言いかけると先に片づけるの。大丈夫です、もう済みました、問題ありません。そう言われる前に、こっちが言う。だから、みんな黙る。あんたが責任を引き受ける人だからじゃない。引き受けたことにして、話を終わらせる人だからよ」

「そんなつもりはない」

「つもりの話をしてない」

「では何の話だ」

「残ったものの話。あんたが退職する日に、みんなで古い写真を整理したでしょう。あのとき、火災の翌朝の写真だけ、あんたのところにないと言った」

「写真?」

「駅前清掃の記録写真よ。火事の翌朝、現場周辺を片づけたときのもの。誰かが撮っていた。あんたが持っていたはずなのに、知らないと言った」

胸の奥で、何かが落ちた。

私は職場の倉庫を思い出した。金属棚。濡れた雑巾。焼けた紙を拾うための厚い手袋。清掃事業所では、火災のあとに残ったものを片づけることがあった。灰は風で広がり、雨が降れば排水溝へ流れる。目立つものから回収し、見えないものは水で洗い流す。作業が終われば、現場は元の道路に戻る。

戻ったように見えるだけだ。

「写真は、どこにある」

「知らない。あんたが持っていたなら、家じゃないの」

「俺の日記と一緒に消えたのかもしれない」

「日記を持っていったのは、美佐子さん?」

私は黙った。

由紀はためらわずに続けた。

「そうだと思っているなら、本人に訊けばいい。ただし、訊くなら、取り返すためじゃなくて、何を守ったのかを聞きなさい。美佐子さんは、あんたよりずっと長く、あの夜の後始末をしてきた人よ」

「お前は、美佐子が何を知っていると思う」

「知っているかどうかじゃない。あんたが帰ってきた夜に、誰が玄関で待っていたかを考えて」

「美佐子だ」

「違う」

その一言に、私は息を止めた。

「その夜、美佐子さんは家にいなかった」

「何を言っている」

「翌朝、職場で聞いたの。美佐子さん、夜中まで駅前にいたって。あんたを探していたのか、別の誰かを探していたのかは知らない。でも、あの人も現場にいた」

電話の向こうで、由紀が息を吐いた。

「だから、誠一さん。あんただけの記憶じゃない。美佐子さんの沈黙も、私たちの沈黙も、町の記録の空白も、全部が同じ夜から伸びている」

「それを、なぜ今まで言わなかった」

「言ったら、あんたはまた日記に書くでしょう」

私は、昼間に美佐子から聞いた言葉を思い出した。

言ったら、あなたはそれを記録にするでしょう。

由紀は続けた。

「書くことが悪いんじゃない。でも、書けば終わったと思う人に、もう一枚紙を渡すのは、時に手伝いじゃなくて加担なのよ」

「俺は、何を見た」

「それは、あんたが思い出すこと。でも一つだけ言える。あの夜、あんたは誰かを助けようとした。途中まではね」

「途中まで?」

「その先で、戻った」

由紀の言葉は、電話の向こうからではなく、駅前の煙の中から聞こえた。

私は目を閉じた。

黒い鉄の扉。焦げた紙。細い腕。指に絡んだ濡れた袖。誰かの声。

まだ中にいる。

そして、別の声。

木村さんが来るまで待て。

私は目を開いた。

「木村……」

口からこぼれた名前に、由紀は何も言わなかった。

「木村辰夫か」

「私は名前を出してない」

「今、思い出した」

「なら、覚えておきなさい。名前を思い出したことと、何があったかを思い出したことは別だから」

電話が切れたあとも、私はしばらく受話器を耳に当てていた。

窓の外で、夕方の風が電線を鳴らしている。海から上がった雲が、坂の上の空をゆっくり覆っていく。町は明るさを失いながら、建物の形だけを残していた。

机の上には、三つの時刻が並んでいる。

十一時四十七分。十一時五十二分。二十三時五十分。

どれも数字としては正確に見えた。

けれど、その五分の中に、誰かの手を離した記憶がある。私はその手を掴もうとしたのか、掴んだあとで離したのか、まだ分からない。

美佐子が階下で茶碗を置いた。

音が一つ、二つ続く。

私は椅子から立ち上がり、懐中時計を閉じた。止まった針は、四時二十六分を指したままだった。動かない時計をポケットへしまうと、金属の冷たさが胸の近くへ伝わってきた。

由紀の言葉が、坂を上る風のように背後から追ってくる。

あんたは、途中で戻った。

私は階段へ向かった。

戻ったのが、あの夜だったのか。

それとも、今までの三十年だったのか。

台所へ下りる途中、私は手すりに触れた。木は長年の手の脂を吸い、滑らかになっている。美佐子の手も、私の手も、何度もこの場所を掴んできた。

けれど、あの夜に掴んだ手だけは、まだどこにも戻っていなかった。

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