第4話 縮刷版の匂い

翌朝、佐々木隆は約束の時刻より十六分早く来た。
玄関の呼び鈴が鳴ったとき、私は二階の書斎で、机の上に残されたものを並べ直していた。斜めになった鉛筆は、そのままにしてある。直してしまえば、昨夜の出来事まで片づけたことになる気がした。だから、鉛筆には触れず、代わりに領収書の束だけを発行年順に揃えた。
万年筆、便箋、封筒の切り抜き。
それらを一枚の古い封筒に入れ、胸ポケットへしまう。紙が身体の近くにあると、少しだけ呼吸がしやすくなる。記録を持っているというより、空白の端を押さえている感覚だった。
「誠一さん、佐々木さん来たよ」
階下から美佐子の声がした。
私は返事をせず、書斎を出た。戸を閉める前に、一度だけ部屋の中を見た。これは美佐子の癖でもある。何かを残していないか、何かを取り戻すべきではないか、目で確かめてから戸を閉める。
玄関へ下りると、隆は汗をかいていなかった。暑い朝だった。坂の上まで歩けば、首筋に汗が浮いてもおかしくない。だが隆は、薄い長袖の襟元をきちんと留め、古い革の鞄を片手に持って立っていた。
「早いな」
「あなたが遅いよりいい」
「家の中を見ていた」
「見ていたのか、並べていたのか」
隆は靴を脱ぐと、私の靴の向きを見た。私は今朝、揃えたつもりだったが、右の靴の先が左より半寸ほど外へ開いていた。気づいていながら、直していなかった。
隆は何も言わず、自分の靴を揃えた。
「役場へ行く。閉架に入れるのは十時からだ」
「日記がなくなったのは、昨夜だ」
「だから、朝から探しても日記は出てこない。出てくるのは、昨夜から今朝までに考えた言い訳だけだ」
美佐子が台所から現れた。手には、蓋をした小さな水筒がある。
「途中で飲んで」
「いらない」
「あなたの分じゃないわ。佐々木さんの」
隆は水筒を受け取った。
「どうも」
「誠一は、朝から何も食べてないでしょう」
「食べた」
「パンの耳を一切れだけよ」
私は口を挟もうとしたが、やめた。美佐子は私を責めているわけではない。責めるときの彼女は、もっと物を乱暴に置く。今はいつもどおり、水筒の蓋を一度拭いてから隆へ渡していた。
「昼までには戻る」
私が言うと、美佐子は頷いた。
「戻ってくるなら、紙を持って帰らないで」
「どういう意味だ」
「今のあなたは、何を見ても書き留めたくなるから」
「記録を調べに行く」
「記録を増やすのと、記憶を取り戻すのは違うでしょう」
隆が玄関の戸を開けた。海からの風が坂を上ってきて、家の中の湿った空気を押し出した。美佐子の髪がわずかに揺れる。彼女はそれ以上何も言わなかったが、私のシャツの襟が折れているのを見つけ、指先で直した。
触れたのは一瞬だった。
けれど、その手つきには、三十七年分の朝があった。寝ぼけたまま出勤する私の襟を直し、作業着の内ポケットのほつれを縫い、雨の日には傘を玄関の外へ出しておく。言葉にされなかった気遣いは、言葉よりも長く残ることがある。
「行ってらっしゃい」
美佐子が言った。
私は頷いた。何かを返すべきだったが、返せる言葉が見つからなかった。
坂を下りると、朝の潮江市はまだ人の少ない顔をしていた。商店街のシャッターは半分ほど閉じたままで、古い魚屋の前にだけ、水を撒いた跡が黒く残っている。昔はこの時間から、工場へ向かう自転車や、港へ急ぐ作業着の男たちが坂を埋めていた。いまは新しい集合住宅の窓に、朝の光が均等に並んでいる。
隆は私より半歩前を歩いた。歩幅は大きくない。私の足が遅くなるたび、振り返らずに速度を落とす。
「昨日の夜、何を見つけた」
「封筒だ」
「誰の字だ」
「分からない。八月二十一日、文具店の裏、と書いてあった。その下に名前らしい文字が残っていた。……枝、と読める」
「切り抜きに挟まっていたのか」
「木箱の底にあった」
「誰が入れた」
「美佐子かもしれない」
「訊いたか」
「訊いた。答えなかった」
隆は歩みを止めずに、眼鏡を外した。シャツの胸ポケットから眼鏡拭きを出し、レンズではなくフレームの縁を拭いた。
「答えなかった、というのは、知らないとは言わなかったということか」
「そうだ」
「なら、そこから先はまだ推測だ。紙に書くな」
「書くつもりはない」
「人は、頭の中で書く。紙に書かないから安全だと思うと、頭の中の文章は都合よく整えられる」
駅前へ続く道は、再開発地区の工事柵に沿っていた。金属板に描かれた完成予想図では、古い商店街は白い線に置き換えられている。広場には植樹が並び、駅前の空は今より明るく見えるように描かれていた。
私は、あの絵のどこにも文具店を見つけられなかった。
「町役場の資料は、火災から三十年も経って残っているのか」
「残っているものはある。残す必要があると判断されたものだけがな」
「必要があると判断したのは誰だ」
「その時代の担当者だ」
「では、必要がないと判断されたものは」
「紙にならなかったか、紙になっても別の束へ移された」
隆はそこで初めて私を見た。
「だから閉架を見る。人は、表に出したいものを並べる。裏へ押し込んだものには、押し込んだ理由が残る」
町役場は、駅前の新庁舎ではなく、旧市街の外れに残る古い別館だった。かつて税務課が使っていた建物で、壁の塗装は何度も塗り重ねられ、窓枠の隅に白い塗料が厚く溜まっている。
受付で隆が名前を告げると、年配の職員が一枚の許可証を出した。隆は受け取る前に、紙の右上の日付と押印の位置を確認した。
「ずいぶん慎重ですね」
職員が笑うと、隆は笑わなかった。
「紙を信じているんです」
「それは結構なことです」
「信じているから、先に疑うんですよ」
職員は返事をせず、鍵を渡した。
閉架資料室は地下にあった。階段を下りるにつれて、外の光が薄くなり、代わりに乾いた埃の匂いが強くなった。扉を開けると、古紙と黴、それから金属棚の冷たい匂いが混ざって鼻へ入ってくる。
扉が閉まった。
海風の気配が消えた。
蛍光灯が一本だけ遅れて点き、白い光が棚の列を浮かび上がらせた。棚の間は、人が一人通れる幅しかない。背表紙には、火災、建築、労災、再開発、町内会記録と、黒い文字が並んでいる。
私は反射的に、左から順に見た。
隆が私の肩越しに言った。
「そうやって全部を見ようとするな」
「探すなら、順番に見た方がいい」
「順番を決める前に、何を探すか決める」
「駅前火災だ」
「火災だけか」
隆は棚から一冊を抜き取った。背表紙には、駅前地区整備計画とある。
「火事は一晩で終わる。記録は、その後に人が何をしたかまで残す。火元、被害、搬出、仮店舗、補償、解体。どこかで名前が出る」
「名前が出れば、見つかるのか」
「出ればな」
隆は机の上を空け、資料を種類ごとに分けた。火災報告、消防記録、商店街の被害届、再開発の説明資料。置く向きがすべて揃っている。私はその整然とした並びに、少しだけ呼吸を戻した。
「お前も、そういうふうに並べるのか」
「並べないと読めない」
「日記もか」
隆の手が止まった。
「日記は記録じゃない」
「三十年分、毎晩書いた」
「毎晩書いたから記録になるとは限らん。書いた本人が、自分に見せるために順番を変えているなら、それは記録というより手当てだ」
胸の奥を、昨夜の美佐子の言葉が撫でた。
三十年書いたから、できなくなったのよ。
私は机の端に指を置いた。紙の埃が指先へ付く。手の甲をこすると、皮膚がざらついた。
「それでも、日記にしかないものがある」
「あるだろう」
「なら、取り戻すべきだ」
「取り戻したら、読めば済むと思っているのか」
「読めば、少なくとも俺が何を書いたかは分かる」
「何を書いたかはな。何を見なかったかは分からん」
隆は火災記録の薄い綴りを開いた。表紙の裏に、発行日と担当課の印がある。彼はまずそこを確かめ、それから本文へ進んだ。
「焦るな。紙は、急ぐやつを先に裏切る」
私はその言葉に苛立った。
「紙に裏切られた覚えはない」
「そうか」
「日記を消したのは人間だ」
「人間が紙を使って消すんだ」
隆はページをめくった。指先を湿らせることはせず、紙の端を慎重につまむ。数枚進んだところで、彼の指が止まった。
火災発生時刻、鎮火時刻、現場検証開始時刻。
数字が並んでいる。
その下に、一行だけ、文字の濃さが違う部分があった。印刷された文章の途中に、白く細い帯が走っている。
「ここだ」
隆が赤鉛筆の先で示した。
「印刷の目が少し違う。後から差し替えたか、少なくとも触っている」
私は身を寄せた。隆が指しているのは、火災発生時の現場状況についての一文だった。
――駅前文具店裏手にて、関係者一名の所在確認を行う。

その続きだけが、白く削られている。
目を凝らしても、何が書かれていたのかは読めない。ただ、削られた幅は短くなかった。一つの語を消したのではなく、文章ごと抜き取ったように見える。
「関係者一名」
私は声に出した。
「誰だ」
「書いてない」
「そこにいたということか」
「書いてない」
「なら、なぜ消す」
「それを調べる」
隆は、資料の下に敷いていた白紙へ、時刻を書き写した。十一時四十七分。火災発生。零時十八分、鎮火。現場確認、零時三十二分。
私の記憶にある駅前の時計が、白い文字盤をこちらへ向けた。
十一時四十七分。
誰かが言った。
まだ中にいる。
私は額に手を当てた。地下の空気は乾いているのに、首筋に汗が流れた。
「誠一」
「大丈夫だ」
「大丈夫な人間は、紙の上の時刻を握り潰さない」
私は手を開いた。紙の端が、指の形に沿って曲がっていた。
「……すまない」
「謝るな。戻せ」
隆の言い方は冷たかったが、私は紙を机に置き、折れを指で伸ばした。隆は何も言わず、別の資料を探した。現場確認表、消防隊の出動記録、交通規制の記録。どれにも、文具店の裏手にいた人物の名前はなかった。
名前がない。
けれど、所在確認を行ったという一行だけが残っている。
存在しているのに、名前だけがない。
「この資料、借りられるか」
「写しなら申請が必要だ」
「申請する」
隆はそう言い、書類を整えた。私はその横で、白く抜け落ちた一行を見続けた。見れば見るほど、そこに自分の記憶が入り込んでくる。焼けた紙、床に散らばった鉛筆、黒い鉄の扉。誰かの手首。
地下室を出ると、外の光が痛かった。
役場の脇の植え込みから、蝉の声が跳ね返ってくる。空は晴れていたが、海の方には薄い雲がかかっている。私たちはしばらく歩いた。駅前から旧市街へ向かう道は、昔の商店の跡地を縫うように続いている。シャッターの下から草が伸び、看板の文字だけが塗り潰されずに残っていた。
「古書店へ寄る」
隆が言った。
「立花さんのところか」
「新聞を見れば、役場の紙がどこで軽くなったか分かる」
立花千代の店は、旧市街の細い通りにあった。軒先には、夕方の掃除に使う竹箒が一本立てかけられている。千代は店先を掃いていたが、私たちを見ると、箒を壁へ戻した。
「安藤さん。名前をもう一度、確認してもいいかしら」
「安藤誠一です」
「ええ、安藤さん。今日は紙を探す顔をしている」
「顔で分かるものですか」
「紙屋を長くやっているとね。人は探しているものより、見つけたくないものに顔を向けるのよ」
店内へ入ると、外の暑さが少し遠のいた。紙の匂いが濃い。乾いた木、古い糊、指先に残る鉛筆の粉。棚の間を歩くたび、背表紙が肩へ触れた。
千代は湯呑みを二つ出し、湯を注ぐ前に器を温めた。
「役場で何か見つかりましたか」
隆は、白く削られた一行のことを話した。千代は口を挟まずに聞き、話が終わると、茶を注いだ。湯気が薄く立ち上がり、その向こうで彼女の顔が揺れた。
「駅前火災の年の新聞を」
千代は棚の一番下から、綴じ箱を引き出した。箱の蓋には、潮江新聞、平成八年と書かれている。蓋を開ける前に、千代は指先で表面を撫でた。
「この年の紙は妙に軽いのよ」
私は、引き出しの軽さを思い出した。
「軽い?」
「ええ。紙そのものが薄いという意味ではないの。頁をめくったとき、記事の重さがない。町で起きたことに比べて、紙面が軽すぎるのよ」
千代は縮刷版を取り出した。背表紙は擦れ、角には何度も持ち運ばれた跡がある。彼女は表紙を撫でてから、私の前へ置いた。
「軽いものほど、誰かが何かを抜いた跡がある。紙は嘘をつかない、という人がいるけれど、私はそう思わないわ。紙は嘘を隠したまま残るの。だから、残り方を見るのよ」
隆が湯呑みを持ち上げた。
「新聞社の訂正記録は」
「こちら」
千代は別の薄い冊子を出した。棚から必要なものを抜く動作に迷いがない。まるで店の中すべてを、指先の記憶で把握しているようだった。
「火災の翌日の朝刊です」
ページを開く。
記事は確かに短かった。発生時刻、焼けた店舗、鎮火時刻、交通規制。負傷者なし。行間は広く、紙面の白さが目立っている。
私は「負傷者なし」の文字に触れそうになって、指を止めた。
「この余白は、普通ですか」
「普通に見えるように作られた余白ね」
千代は声を少し落とした。
「当時、新聞社の記者が一人、現場へ来ていた。記事を書いたのは若い人だったけれど、翌日の紙面では名前が消えている。誰が書いたかは、もう確かめられない。ただ、駅前火災を扱った記事だけ、同じ紙面の他の記事より組み方がきれいすぎるの」
「きれいすぎる?」
「文字が乱れていない。見出しも、行送りも、余白も。大きな火事の翌朝は、たいてい記事の端に急いだ跡が出るものよ。差し替えや削除があった紙面は、かえって整って見えることがある」
隆が新聞の端を指でなぞった。
「役場の記録も同じだった」
「でしょうね」
「何が消えたか分かるか」
「消えたものは、消えたままでは分からないわ。ただ、隣にあったものが分かれば、形は見える」
千代は縮刷版の別の頁を開いた。火災の翌週、商店街の臨時総会についての記事が載っている。駅前の店舗再配置、仮営業、再開発計画。記事の下部には、小さな写真があった。
私はそこに写る人の列を見た。
商店主、役場の職員、消防関係者らしい男たち。顔は小さく、誰が誰か判別できない。だが、写真の端に、駅前文具店の看板だけが見切れていた。
「この店は、火事のあと、すぐに閉めたんですか」
「三日ほどは営業していたそうよ」
「そうですか」
「ただ、店の人は戻らなかった」
私は顔を上げた。
千代は急いで説明しなかった。紙の上に残る記事を指で押さえたまま、私が次の言葉を出すのを待っていた。
「店の人というのは」
「文具店の娘さん。店主の娘よ。名前は――」
そこで千代は言葉を止めた。
私の胸ポケットにある封筒が、急に重くなった。薄い紙一枚しか入っていないのに、そこへ誰かの体重が預けられたようだった。
「名前は、分かりますか」
千代は私の目を見た。柔らかい表情の奥で、記憶を確かめている。
「安藤さんは、もう名前の一部を見つけているんじゃないの」
私は答えられなかった。
隆が横から口を挟んだ。
「断定はまだ早い」
「ええ。だから、私は名前を言わないの」
千代は新聞を閉じた。
「紙は、急いでめくると破れます。人の記憶も同じです。けれど、破れたところを隠したまま綴じ直すと、あとで必ず頁の重さが変わる。安藤さんの三十年分の日記も、きっとそういう重さになっていたのでしょう」
私は、駅前火災の記事の白い余白を思い出していた。
そこにいるはずの人の名前がない。
役場の記録にもない。
新聞にもない。
けれど、文具店の娘は、火災の三日後から店へ戻らなかった。
「この写真帖を見てもいいですか」
私が言うと、千代はすぐには答えなかった。棚の奥から、さらに古い箱を取り出す。蓋を開けると、写真の束が布で包まれていた。
「見るだけなら」
千代は一枚目をめくった。再開発前の駅前が写っている。文具店の細い間口、軒先から吊られた色鉛筆、隣の喫茶店の赤い看板。路地の奥に、黒い鉄の扉がわずかに見えた。
私は息を止めた。
記憶の底で、誰かの手が動いた。
濡れた袖口。
灰の付いた指。
掴もうとした手首。
私は写真から目を離せなかった。紙は乾いているのに、指先だけが濡れたように冷たくなった。
「安藤さん」
千代の声が静かに響いた。
「名前を探すなら、記事だけでは足りません。名前は、人が呼んだときに初めて残るものですから」
私は写真帖の端を押さえた。
役場の記録に消された一行。
新聞の広すぎる余白。
封筒に残った、名前の一部。
ばらばらだったものが、まだ形にはならないまま、同じ場所を指し始めていた。紙の上に残った白さが、何もない空間ではなく、誰かがそこにいた証拠のように見えてきた。
店の外で、夕方の風鈴が鳴った。
千代は写真帖を閉じず、そのまま私の前に置いていた。隆は役場から持ってきたメモを折り、二度、同じ内容を書き写してから封筒へしまった。
私は胸ポケットの古い封筒を指で押さえた。
まだ、名前は思い出せない。
それでも、忘れていたのではなく、呼ばないようにしていたのだという感覚だけが、はっきりと残った。
← 横にスクロールして読み進められます
