第3話 八月二十一日の切り抜き

書斎へ戻ると、夕焼けはほとんど消えていた。
さっきまで障子を薄く染めていた赤みは、白い紙の裏へ沈んだように消え、窓の外には坂の家々の輪郭だけが残っている。遠くの港から、船のエンジンが低く響いていた。潮の匂いを含んだ風が、開けた窓から入り、机の上の便箋をかすかに震わせる。
私は机の前に立ったまま、しばらく動かなかった。
美佐子の言葉が、まだ耳の中に残っている。
――あなたが、あの夜に置いてきたもの。
あの夜というのが、駅前火災の夜を指すことは分かっていた。分かっているのに、そこへ手を伸ばす方法がなかった。記憶は、引き出しの奥にしまった書類のように、順番を守って現れてはくれない。必要なものを探していると、関係のない領収書や古い封筒ばかりが指に触れる。
私は机の下へ手を伸ばし、古い木箱を引き出した。
木箱は、日記を書くようになる前から使っている。角の一つが欠け、蓋の金具は何度も締め直されていた。美佐子が若い頃、包装紙を巻いて補修した跡も残っている。私はそれを剥がさずにいた。見た目には不格好だったが、手をかけた人間の時間まで捨てる気にはなれなかった。
蓋を開けると、乾いた紙の匂いが立った。
中には、退職祝いにもらった懐中時計、清掃事業所で使っていた古い領収書、職場の連中が寄せ書きした安っぽいカード、それから何年も前の新聞の切り抜きが入っていた。私は一つずつ取り出し、机の左から順に並べた。
懐中時計。
領収書。
カード。
切り抜き。
置き終えてから、順番が違うことに気づいた。いつもなら年代の古いものから並べる。私は領収書をいったん戻し、切り抜きを先に置いた。それでも落ち着かなかった。今日から、何もかも今までの位置には戻らないのかもしれない。
切り抜きを広げる。
新聞の日付は、三十年前の八月二十二日だった。
見出しは小さい。
潮江市駅前火災。
記事は、わずか数行しかなかった。駅前の店舗から出火。周辺の建物の一部を焼き、午前零時過ぎに鎮火。けが人はなかった。警察と消防が出火原因を調べている――。
そこまで読んで、私は紙から目を離した。
けが人はなかった。
その一文は、以前にも何度も見ているはずだった。けれど今夜は、文字が紙の上から浮き上がってくるように見えた。けが人はなかった。誰も傷つかなかった。誰も取り残されなかった。そういう意味の文章だ。
私は記事の端を指で押さえた。紙の角が少し湿っている。自分の汗が移ったのだろう。
記事の余白に、鉛筆で書き込みがあった。
八月二十一日。
駅前。
自分の字だった。
線の細さも、二つ目の「前」の払い方も、間違いようがない。だが、いつ書いたのかは思い出せなかった。切り抜きを手に入れた直後に書いたのか、何年も経ってから書き足したのか、それとも毎年同じ日になるたびに、同じ二つの言葉をなぞっていたのか。
私は鉛筆を探した。
机の左端には、三本の鉛筆が並んでいる。うち一本だけが斜めになったままだった。さっきから何度も目に入っていたのに、戻していない。削り口は窓の方を向いている。私が鉛筆を削るとき、削り口は必ず自分の側へ向けて置く。書く人間にとって、その方が自然だからだ。
斜めの鉛筆を手に取ると、芯の先が紙の余白に触れた。
黒い跡が一本、伸びた。
私はすぐに手を止めた。小さな線だったが、何かを上書きしたように見えた。手の甲をこすり合わせる。皮膚が乾いてざらついていた。仕事を辞めたばかりの手なのに、まだ洗剤の匂いが残っている気がした。
駅前火災の翌朝、私は何をしていたのだろう。
新聞記事では、火は午前零時過ぎに消し止められたことになっている。だが、私の記憶にあるのは、夜の駅前だけだった。赤く照らされた煙。濡れた路面に跳ね返る消防車の灯り。誰かが、文具店の奥にまだ人がいると言っていた。
誰か。
その声の主を思い出そうとすると、頭の奥に白い膜がかかる。
私は切り抜きを裏返した。
裏面には、新聞の別の記事が残っていた。港の荷役作業員が不足しているという小さな記事だった。三十年前には、駅前から港まで人の流れが続いていた。工場の終業時刻になると、作業着姿の男たちが坂を上り、商店街の軒先に明かりがともった。今では工場跡地に新しい集合住宅が建ち、駅前広場には風だけが通り抜ける。
町は、火事の跡だけを消したのではない。
そこへ続く道も、声も、店の名前も、少しずつ消してきた。
私は切り抜きを箱へ戻そうとした。
そのとき、底に小さな封筒があるのに気づいた。
薄茶色の封筒だった。日記帳の紙よりさらに古く、縁がところどころ擦れている。封は切られていた。中身を抜いたあと、誰かが捨てずに木箱へ戻したらしい。
私は封筒を持ち上げた。
軽かった。
日記の抜けた引き出しと同じように、何かがないことだけがはっきり分かる軽さだった。
表には何も書かれていない。裏返すと、鉛筆の跡が見えた。薄く、押し込むように書かれた細い文字だった。紙の繊維に食い込んでいて、消しゴムで消そうとした形跡もある。
私は机の照明をつけた。
電球の明かりが封筒の上に落ちる。文字は、すぐには読めなかった。目を細めると、いくつかの線がつながって見えた。
――八月二十一日。
私は息を止めた。
切り抜きに書かれた自分の文字と同じ日付だった。
だが、その下に続く文字は、自分の字ではない。
「文具店の裏……」
そこまで読めた。
私は封筒を裏返し、指先で鉛筆跡をなぞった。紙は乾いていた。古い紙独特の、粉を含んだような手触りが指腹に残る。文字を書いた人は、急いでいたのかもしれない。あるいは、誰かに見つからないよう、できるだけ小さく書いたのかもしれない。
文具店の裏で、何があったのか。
その問いに触れた瞬間、記憶の一部が動いた。
黒い鉄の扉。
焼けた紙の匂い。
床に散らばった鉛筆。
そして、誰かの手。
私は封筒を取り落としかけた。紙が机の上で跳ね、懐中時計の箱に当たった。乾いた音が書斎に響く。
誰かの手を、私は掴んだことがある。
いや、掴もうとした。
その手が自分のものだったのか、誰かのものだったのか、すぐには分からない。指先に残った感触だけが、異様なほど生々しかった。熱ではなく、冷たさだった。濡れた袖口。爪の間に入った灰。手首に触れた細い骨。
私は椅子へ腰を下ろした。
退職祝いでもらった懐中時計を開く。針は止まっていた。三十年前からではない。数年前、電池が切れてからそのままにしていた。しかし文字盤を見た途端、駅前の時計が重なった。
白い文字盤。
十一時四十七分。
誰かが言った。
まだ中にいる。
私は目を閉じた。
記憶は、そこで途切れた。
続きへ進もうとすると、別の場面が割り込んでくる。自宅の玄関。泥のついた靴。美佐子が何かを尋ねている。私は返事をせず、書斎へ入った。万年筆を握った。日記帳を開いた。けれど、頁は白いままだった。
その夜、私は何を書いたのか。
書かなかったのか。
切り抜きの端に残った二つの言葉を見つめながら、私は自分の記憶と日記の間に、細い裂け目があることを初めて意識した。
私は三十年間、毎晩のようにその裂け目へ紙を重ねてきた。日付を書き、天気を書き、仕事を書き、帰宅した時間を書いた。そうすれば、そこに何もなかったことにできると思っていた。
けれど、紙は空白を埋めない。
空白の形を、残すだけだ。
廊下で床板が鳴った。
私は背筋を伸ばした。美佐子が二階へ上がったのか、それとも台所からこちらへ来たのか分からない。家の音は知り尽くしているはずなのに、今夜はどの音もよそよそしかった。
封筒を切り抜きの下へ戻そうとして、私は手を止めた。
封筒の裏には、もう一つ、極端に薄い文字があった。最初の書き込みの下に、消し残しのような線が重なっている。
目を近づける。
そこには、名前の一部だけが残っていた。
「……枝」
それ以上は読めなかった。
人の名前なのか、店の名前なのかも分からない。ただ、その二文字を見たとき、胸の奥で何かが軋んだ。駅前の文具店。細い間口。吊り下げられた色鉛筆。インクの匂い。火の向こうに立っていた女の顔。
顔は思い出せない。
それなのに、名前だけが喉の奥まで上がりかけた。
私は立ち上がり、窓をさらに少し開けた。
海風が入り、蚊取り線香の煙をほどいていく。煙の向こうに、坂の下の町が見えた。新しい建物の窓には明かりがともり、古い商店街の方は暗い。明るい場所と暗い場所の境目が、夜の町に細い線を引いていた。
私は封筒を胸ポケットへ入れた。
その動作をしてから、すぐに後悔した。証拠をしまうなら、場所を決めて保管すべきだった。紙を折らず、指紋をつけず、日付を書いて封をする。仕事で何度もやってきたことだ。
だが今は、机の上へ置いておくことができなかった。
封筒の軽さが、身体の近くにないと不安だった。
書斎を出る前に、私は机の上を見た。斜めになった鉛筆、半分残った茶、消えた日記帳のために空いた引き出し。すべてが、いつもの部屋の中にある。何も壊れていない。何も荒らされていない。
だからこそ、そこに残された空白だけが、動かしようのないものに見えた。
階下から、美佐子が戸棚を閉める音がした。
私は声をかけなかった。
彼女も、こちらへ来なかった。
開け放した障子の隙間から、夜の風が入ってくる。遠くで犬が一度だけ吠えた。港の方から、船の警笛が長く響いた。
私は胸ポケットの封筒を指で押さえた。
八月二十一日。
駅前。
その二つの言葉は、三十年前から私の中にあった。けれど、私は今夜まで、それを記憶ではなく記録だと思い込んでいた。
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