2話 障子越しの無言

台所へ続く廊下は、夕食のあとだけ少し長くなる。

昼間なら、書斎の戸から流し台まで十歩もない。けれど、何かを尋ねるために歩くと、床板の一枚一枚に足を取られる。踏めば鳴る板、鳴らない板、湿気を含んで沈む板。その違いを、私は三十年以上かけて覚えてきた。

私が廊下へ出ると、奥の台所で美佐子が布巾を畳んでいた。

夕食に使った皿はすでに棚へ戻され、流し台には水滴が残っていない。彼女は使った場所を拭き終えないと、次のことを始めない。私が退職して家にいる時間が増えれば、こういう手順も少しは変わるのだろうか。そんな考えが一瞬浮かんだが、今はそれどころではなかった。

障子の向こうの空は、薄い桃色から灰色へ移りかけていた。海風が軒下を抜け、紙の面を内側から撫でるように障子を揺らしている。蚊取り線香の煙が居間から流れてきて、台所の明かりの下で細くほどけた。

美佐子は私に気づいていたはずだが、顔を上げなかった。

布巾を一度折り、折り目を指で押さえ、もう一度折り直す。その手つきには、いつもより時間がかかっていた。

「書斎に入ったか」

声にしてから、訊き方を間違えたと思った。もっと別の言い方があったはずだ。日記を見なかったか、ではなく、何か変わったものはなかったか、と聞けばよかった。あるいは何も聞かず、彼女の手元だけを見ていればよかった。

美佐子は布巾を流し台の縁に置いた。濡れた指を、乾いた布の端で拭う。

「入ってない」

短い返事だった。

彼女は急須を取り上げ、湯呑みを一つ出した。私の分だけだった。茶葉を入れ、湯を注ぐ。急須の蓋がかすかに鳴り、茶の青い匂いが立った。

「日記がない」

「そう」

「三十年分、全部だ」

美佐子の手が、湯呑みの底から離れた。彼女は茶をこぼしていないか確かめるように、器の周りを布巾で拭いた。

「なくしたんじゃないの」

「なくしたなら、探せる」

「探せばいいでしょう」

「引き出しから抜かれている」

言いながら、私は自分の声が妙に遠いことに気づいた。引き出しの中身を説明しているのに、話しているのは私ではなく、別の誰かのようだった。領収書、封筒、替え芯、懐中時計の箱。残っているものを順に口にすれば、消えたものの輪郭がはっきりすると思った。しかし実際には、空白だけが大きくなった。

美佐子は湯呑みを私の前に置いた。机の上ではなく、台所の小さな卓袱台の中央から少し内側。彼女が物を置くときの位置だった。

「昨日の夜、酔っていたでしょう」

「飲んでいない」

「お酒の話じゃないわ」

私は湯呑みを見た。緑茶の表面に、台所の蛍光灯が白く浮かんでいる。

「退職したでしょう。長く続けてきたものが終わった夜は、覚えているつもりでも、手順を飛ばすことがある」

「日記をしまったことを忘れたというのか」

「あなたなら、あり得ると思っただけ」

「俺は、日記を引き出しに入れたかどうかくらい覚えている」

「そうね。あなたはそういう人だもの」

美佐子の言葉には、からかいも慰めもなかった。私がそういう人間であることを、ただ確認しているだけだった。三十七年間、仕事へ行き、決められた時間に戻り、靴を揃え、手を洗い、日記を書く。そういう繰り返しを、彼女は私より正確に覚えている。

私は、書斎に置いてきた便箋の切れ端を思い出した。

「これを書いたのは、お前だな」

そう言って、私は紙を卓袱台の上へ置いた。

美佐子の目が、文字を読む前に紙の角へ向いた。彼女はまず、紙の端のわずかな折れを見た。私には見えない程度の傷だった。指先で触れれば分かるのだろう。彼女は便箋に手を伸ばさず、紙の上に置かれた言葉だけを見た。

「そうね」

「日記を持ち出したのもか」

美佐子は答えなかった。

答えないまま、布巾を取り上げた。卓袱台の端を拭き、次に湯呑みの底を拭き、最後に便箋の置かれていない側を拭いた。その順番を、私は知っている。不安が強いときほど、彼女は家事を増やす。拭く場所を見つけ、折るものを見つけ、手を止めない。

「日記はどこだ」

「お茶が冷めるわ」

「美佐子」

「あなた、手が震えてる」

「震えていない」

「万年筆を持ったとき、落としそうになったでしょう」

私は手を握った。指の節が白くなった。震えているかどうかは分からない。ただ、皮膚の下で細い糸が揺れているような感じがあった。

「読まないで、と書いたな」

「ええ」

「俺の日記だ」

「だから、読まないでほしいの」

美佐子はようやく便箋に触れた。紙を持ち上げず、指先で少しだけ奥へ押す。私の机の鉛筆を直さなかったのと同じように、紙の位置も完全には戻さなかった。

「あなたのために書いた日記なら、あなたが読むのは当たり前だと思う。でも、あの中にはあなたの知らない人の時間も入っているでしょう」

「知らない人?」

「知らないふりをしている人、という意味よ」

私は返事をしなかった。

台所の時計が、一定の間隔で音を刻んでいる。壁の中を通る配線の向こうで、冷蔵庫が低く唸った。家はいつもどおりの音を立てていた。食器棚の木が軋み、風が障子を押し、遠くで坂を下る自転車のブレーキが鳴った。

いつもどおりなのに、どこにも戻れない。

「お前は、日記を読んだのか」

「全部ではないわ」

「どこまで」

「読んだところまで」

「答えになっていない」

「あなたも、いつもそうだったでしょう」

「何がだ」

「書いたところまでしか書かなかった」

美佐子は湯呑みの縁を親指でなぞった。茶を飲む前の癖だった。だが、その動きが止まったところで、彼女の息がわずかに乱れた。

「毎晩、机に向かっていた。帰りが遅くても、熱があっても、何か一行は書いた。今日も無事、雨、仕事、夕食。そうやって一日を閉じていた。でも、閉じられない日があったでしょう」

「そんな日はいくらでもある」

「そうね。嫌なことがあった日も、腹の立つ日も、眠れない日もあった。でもあなたは書いた。書くことで、なかったことにはできなくても、翌朝まで持っていける形にした」

「それの何が悪い」

「悪いなんて言っていないわ」

「なら、なぜ持ち出した」

声が少し大きくなった。

美佐子の肩が動いた。逃げるような動きではなかった。大声を受けたとき、身体の中心を固める動きだった。彼女は昔からそうだった。怒鳴り返す代わりに、食器を割らないよう手のひらを握る。

私はそれを見て、声を下げた。

「日記は、俺が三十年かけて書いたものだ。仕事を休まず続けた日も、父親が死んだ日も、お前が手術をした日も、全部あそこにある。俺が覚えていないことを、日記は覚えている」

「覚えているのではなく、あなたがそう書いた形で残っているだけよ」

「同じことだ」

「違うわ」

美佐子ははっきりと言った。

「紙は、書かれたことしか残さない。書かなかったことが消えるわけじゃない。むしろ、書かなかったことのほうが、家の中では長く残るのよ。あなたが何も言わなかった夜、帰ってきても靴を脱いだまま立っていた夜、日記を書く時間なのに机の前で万年筆を握ったまま動かなかった夜。そういうものは、紙にないから消えたと思っているでしょう。でも私は覚えている」

私は卓袱台の木目を見た。細い傷が、海岸線のようにいくつも走っている。

「駅前の火事か」

美佐子の指が止まった。

「その話はしないで」

「日記を持ち出したのは、そのためだろう」

「違う」

「では何だ」

「あなたが、あの夜を自分に都合のいい順番で並べているからよ」

彼女は私を見た。声は静かだったが、さっきまでの静けさとは違っていた。言葉の奥に、三十年分の待ち時間が沈んでいる。

「火事のことを思い出すたび、あなたは必ず同じところから始める。駅の時計、煙、消防車。それから帰宅したこと。けれど、その間に何があったのかは書かない。書かないだけなら、まだいいわ。あなたは何年もかけて、その空白を『何もなかった時間』に変えていった」

「俺が何をしたと言うんだ」

「私は、何をしたかを訊いているんじゃない」

「では何を訊いている」

「何を見たのかを訊いているの」

喉が詰まった。

私は火災の夜を思い出そうとした。赤い光。駅前の人だかり。焼けた看板の向こうから吹き出す煙。誰かの声。どれも断片でしかない。記憶は倉庫の床に散らばった道具のように、形は分かるのに、どこへ戻せばいいのか分からなかった。

「覚えていない」

「覚えているわ」

「美佐子」

「あなたは覚えている。でも、名前をつけていない」

美佐子はそう言って、便箋を裏返した。

紙の裏側には、薄い焦げ茶色の筋があった。彼女はそれを見ていた。私は書斎で嗅いだ匂いを思い出した。蚊取り線香と古紙、その奥にあった乾いた焦げの匂い。

「この紙は、どこにあった」

「あなたの机の上でしょう」

「そうじゃない。どこから持ってきた」

「便箋の束から」

「その束はどこにある」

「台所の戸棚」

「なぜ、台所に」

美佐子は少しだけ目を逸らした。障子の桟を見た。外の明かりはほとんど消え、白い紙の向こうに坂の家々の輪郭だけが浮かんでいる。

「紙を置いておく場所は、家の中にいくつもあるの。書斎だけが記録の場所ではないわ」

「俺に隠していたのか」

「隠していたものもある」

「何を」

「言ったでしょう。あなたに読ませないためではない、と」

「なら、俺に何をさせたい」

美佐子はしばらく黙っていた。

私は、その沈黙が終わるまで待った。若い頃なら、答えを急かしていただろう。仕事では、返事の遅い相手にこちらから選択肢を出し、作業を進めることを優先した。だが今は、急かせば何かが壊れる気がした。

美佐子は湯呑みを両手で包んだ。湯はもうぬるいはずなのに、手を温めるようにしていた。

「思い出して」

「何を」

「日記を読んで思い出すんじゃなくて、日記がなくても思い出せることを」

「そんなことができるなら、三十年も書いていない」

「三十年書いたから、できなくなったのよ」

その言葉は、私の中でゆっくり沈んだ。

「書けば、忘れないと思っていた。でも、書いた言葉が本当の記憶の代わりになった。あなたは毎年、同じ日付に同じ紙を開いて、同じところで頁を閉じた。私はそれを見ていた。あなたが苦しんでいることも、書くことで苦しみを小さくしていることも分かっていた。だから、何も言わなかった」

「守っていたつもりか」

「そうね」

「俺をか」

「あなたも。私も。あの夜に関わった人たちも」

「そんなことを言えば、誰も責任を取らなくて済む」

初めて、美佐子の顔に痛みが浮かんだ。

「分かっているわ。沈黙は、誰かを守るために始めても、長く続けば、その人を縛るものになる。私だって、ずっと同じ考えだったわけじゃない。あなたが日記を書いて、書けないことを抱えたまま年を取り、退職した今日もまた同じ机に座るのを見て、これでいいのかと思った。もう仕事もない。明日の予定も、誰かが決めてくれるわけじゃない。これから先、あなたは何を書いて一日を終えるの。あの夜をまた別の言葉に置き換えて、それで終わりにするの?」

返す言葉がなかった。

美佐子は布巾を取り上げ、卓袱台の端を拭いた。さっき拭いたばかりなのに、同じ場所をもう一度拭いている。

「日記は、探さないで」

「探す」

「見つからないわ」

「持ち出した人間を探す」

「それを探して、どうするの」

「取り戻す」

「日記を?」

「俺の時間を」

言ってから、その言葉がひどく大げさに響いた。私は三十年分の紙を失っただけだ。町には家を失った人も、名前を失った人も、声を失った人もいる。紙を取り戻せば時間が戻るという考えは、清掃事業所で何度も見てきた、片づければ元どおりになるという錯覚に似ていた。

美佐子は私を責めなかった。

ただ、湯呑みを少しだけ奥へ寄せた。

「取り戻せないものもあるわ」

「分かっている」

「本当に?」

「分からないから探す」

美佐子は返事をしなかった。

代わりに障子を少し開けた。海の匂いを含んだ風が入ってきて、台所のカーテンを膨らませる。開けた隙間から、坂の下の街灯が一つ見えた。光は遠く、薄く、こちらへ届くまでに何度も屋根に遮られていた。

私は便箋を取り上げ、紙の角を指でなぞった。

「八月二十一日」

美佐子の手が止まる。

「駅前火災のことだな」

「その話は、今夜はもうやめて」

「お前は知っているのか」

しばらく、時計の音だけが続いた。

「知っていることと、見たことは違うわ」

「俺が見たことを、お前は知っているのか」

「あなたが見たあと、どんな顔で帰ってきたかは知っている」

その返事の方が、何かを断定されるより重かった。

美佐子は俯いたまま、布巾をきれいに四つ折りにした。私は彼女の横顔を見た。頬には細い皺が増え、耳の下には髪の白い部分が見えている。若い頃、駅前の小さな食堂で待ち合わせたときの顔を、私はまだ覚えている。覚えているつもりでいる。けれど、あの夜からこちら、彼女の記憶の中には私の知らない時間が積もっている。

触れようとして、私は手を引いた。

三十年分の距離は、腕を伸ばせば届くほど近くにあるのに、触れれば崩れそうだった。

「明日、俺は町役場へ行く」

美佐子は顔を上げなかった。

「好きにすればいいわ」

「佐々木に頼む」

「そう」

「古い記録を調べる」

「そう」

「お前は、何も言わないのか」

「言ったら、あなたはそれを記録にするでしょう」

「記録にする」

「だから、今は言わない」

その言葉に、怒りが湧いた。だが怒りはすぐに萎んだ。彼女が私を拒んでいるのではなく、私の言葉を紙の上へ逃がさないようにしているのだと分かったからだ。

家の中で、言葉はいつもどこかへしまわれてきた。押し入れの奥、書斎の引き出し、台所の戸棚。日記の頁に書かれなかったものは、消えたのではなく、暮らしの隙間に置かれていた。

私は湯呑みを口へ運んだ。茶はぬるく、渋みだけが舌に残った。

美佐子が立ち上がり、急須を片づける。私の湯呑みを取ろうとして、指先が私の手の甲に触れた。ほんの一瞬だった。彼女は何も言わず、触れた場所を見もしなかった。

私はその手をつかまなかった。

つかめば、今まで触れられなかった年月まで、急にこちらへ引き寄せてしまう気がした。

美佐子は流し台へ戻り、茶碗を洗い始めた。水の音が、途切れずに続く。私は卓袱台の前に残ったまま、障子の向こうを見ていた。

夕焼けはもう消えている。

それでも、空は完全な闇にはならなかった。海の方から残った明かりが、薄い障子紙を通して、台所の床にぼんやりと落ちていた。

私は便箋を折らず、卓袱台の端へ置いた。

「読まないで。これは私のためじゃない」

その一行は、私を遠ざけるための言葉ではなかった。

けれど、誰を呼び戻そうとしているのかは、まだ分からなかった。

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